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かえり船  敗戦で戻ってくる多くの兵士を迎える歌

2011年02月26日 12時33分31秒 | 現代日本
 yahooブログ「チェンマイの原風景」からの転載です。終戦を迎えて、外地にいた多くの兵士が復員船によって、帰ってきました。毎日の暮らしも苦しい中、それでも迎える人も、帰ってきた人も、生きて帰れた喜びと、敗戦の悲しみと、いのちを捧げた多くの同胞への思いと、様々な気持ちを抱きながらも、苦しさに耐えて、ふるさとの地を踏みしめる喜びを感じました。そんな情景が、ありありと浮かぶような記事です。


かえり船


大阪商戦(現商船三井)の病院船高砂丸
画像参照:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E7%A0%82%E4%B8%B8
どれほど想像を逞しくしても終戦直後の日本は、灰色に包まれ、真っ青な空とは対照的に,大地は黒く霞み,住むに家なく、空腹を癒す食料もなく、人々の顔は疲れ果てて無表情に沈み、魂さえ抜けたかのような感がありました。
そんな希望を失った人々の心の中に『リンゴの唄』が流れました。昭和20年10月GHQの検閲を通過した最初の邦画『そよかぜ』の挿入歌でした。それを歌った並木路子は、松竹少女歌劇団の一員でこの映画の主役に抜擢されました。劇場の証明係が歌手として脚光を浴びるまでのサクセス・ストーリー的映画でしたが、国民の心を掴んだのはそんな幸運な少女の物語よりも、その映画の中で歌われたハトウハチロー作詞、は万城目正作曲、並木路子歌の『りんごの唄』でした。レコーディングに際し、作曲の万城目は並木に明るく歌い、沈んだ国民の心に希望の灯を点したかったのでしょうが、その同じ年の3月10日、東京大空襲で母を亡くし、その前には戦場で父と次兄を亡くした並木に明るい声を望むのは酷でした。それでも『君一人が不幸じゃないんだよ』と諭し、吹き込みを終えました。そんな彼女の胸のうちを知る由もなく、国民は彼女の歌に一縷の希望を光を見出し、歌は全国に流れ、空前のヒット曲となりました。並木路子の母が亡くなった東京大空襲のあった3月10日は、明治38年に日露戦争最後の会戦となった奉天の会戦で勝利した日で、これを記念して陸軍記念日とされていました。そして、その記念日を狙っての焼夷弾投下による無差別絨毯爆撃でした。

東京大空襲 廃墟の跡
画像参照:http://www.kmine.sakura.ne.jp/kusyu/kuusyu.html

町に明るい並木路子の歌声が流れるよりも前、昭和20年9月26日、はるか南現在ウォレアイ環礁、当時のレイヨン島から病院船高砂丸が復員船第1号として別府港に入ってきました。ただ、この高砂丸の発地レイヨン島は、終戦の前年に日本軍の基地となりましたが、珊瑚礁の島は作物を育てることも出来ず、そこを守る日本軍兵士が漁業の道具を持っている筈もなく、食糧の輸送は米軍に阻まれ、上陸軍は殆ど飢餓の状態に陥りました。
ここに派遣されていた陸海軍将兵6、526名のうち、第1大隊500名を独立混成第50旅団に編入され歩兵第333大隊として送った松山の歩兵第22連隊は、日清戦争にも参加し、日露戦争では第11師団として乃木希典大将指揮下で旅順攻撃に参加し、シベリア出兵にも加わり、第一次上海事変では第一番に投入されています。第二次上海事変、満州と転戦しますが、昭和19年には沖縄防衛戦に参加し、那覇北部の戦闘では県民の盾となって20倍を越える敵を前に一歩も引かず50日間に亘って対峙し、米軍に『歩兵戦闘の極み』とまで言わしめた誉れの連隊でした。
しかし、レイヨン島に向かった仲間は、滑走路を建設しながらも米軍の爆撃を受け続け、しかも食糧補給の道を絶たれ、かてて加えて伝染病に襲われた部隊の惨状形容し難く、不時着した二式大艇の乗組員は、島内での銃声を聞いたそうですが、それは兵たちの自殺の銃声であったと報告しています。約7割の4、493名が、戦闘もなく餓死病死で倒れたのです。
まさに『戦わずして玉砕した悲劇の島』でした。
最初の引き揚げ船、復員船が、このレイヨン島からの高砂丸でした。その後、陸続として外地から引き揚げてくる復員船から降り立ち、祖国の土を踏む同胞の誰の顔も疲労困憊と虚脱感に襲われ、うつろな瞳の中にも祖国に帰って来た喜びも含まれていたでしょう。また、遠く外地で別れた仲間を想い涙した人もいたでしょう。
翌昭和21年になると、そんな復員兵たちの姿が町に溢れ、港港に連日見かけるようになりました。そんな時流れてきたのが清水みのる作詞、倉若晴生作曲、田端義夫歌の『かえり船』でした。
エレキ・ギターを抱え、大きな声で『オーッス』と元気よく一声掛けて聴衆に呼びかけ歌い出すバタヤンこと、田端義夫は、そんな彼らを歌で温かく迎え入れたのでした。

復員輸送艦となった駆逐艦「夏月」
画像参照:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%A9%E5%93%A1%E8%BC%B8%E9%80%81%E8%89%A6
田端義夫「島育ち」

歌唱 田端義夫(1946)
作詞 清水みのる 作曲 倉若 晴生

波の背の背に ゆられてゆれて
月の潮路の かえり船
かすむ故国よ 小島の沖じゃ
夢もわびしく よみがえる

捨てた未練が 未練となって
今も昔の 切なさよ
まぶた合わせりゃ まぶたににじむ
霧の波止場の ドラの音

熱い涙も 故国につけば
うれし涙と 変るだろ
かもめ行くなら 男の心
せめてあの娘に 伝えてよ

四方を海に囲まれた日本の歌手が船の出入りを歌にする、極普通のようにも思います。しかし、この曲が発売された時期、日本は焦土の中から這い上がろうとしながらも、食べる物にも苦労していました。闇市も出ました。当時の生活を今の人たちに想像・理解しろというのは無理でしょう。その日一日、どのようにしてか口にする物を探す、自分一人生きていくのが精一杯の中で家族を養いながら、当時の日本人は、それでも660万人を超える海外にいる同胞の中にいるだろう縁者知人、親族の帰還を日の丸の旗を振り、一人も残すまいと温かく迎え入れたのです。
まだ舞鶴港では遠くシベリアに送られ過酷な状況で酷使される息子の、夫の、父の帰還を待つ人の姿はありませんでした。しかし、海外にいる660万を越える軍人軍属、同胞を日本国内に受け入れる作業は総力を上げて終戦直後から始まりました。


田端義夫
画像参照:http://music.geocities.jp/aaaw55/JP/01_tabatayosio_9.jpg
そうです、『かえり船』は、外地にいる同胞が祖国に向かって還る船を歌っているのです。思えば、田端義夫は、昭和15年に『別れ船』を出して出征する兵士を送り出しています。かつて見送った船を今、彼は温かく迎えようとしたのでしょうか。これは単なるマドロス調の歌ではなく、そこに込められた日本人の心を感じます。どれほど苦しくとも、日本人は決して同胞を見捨て、蹴落とすことなく、苦しみも悲しみも分け合った時代があったことを知ります。
帰還といっても、当時日本にどれほどの民間商船があったと言うのでしょうか、戦火を逃れた軍艦が砲を外し、甲板に臨時居住区を作り、臨時トイレを作りながら、輸送していたのです。白い布で包まれた小さな箱を首から提げて降りる兵士、港に溢れる軍服姿、疲れ果てた同胞、町は忽ちにして人で溢れます。廃墟の祖国に帰ってきた同胞たち、全てを亡くしたかに見えた日本でしたが、世界一の財産がこのとき國に満ちたのです。人材という財産が。世界一の軍は又世界一の人材の宝庫だったのです。
銃を鋤、鍬に代え、釣竿に代え、戦場をマーケットに代え、飯盒炊飯の場を調理場に代え、廃墟の跡を工場に変え、誰もが新生日本の再興に邁進しました。廃虚の中、懸命に食を求め、國の復興を目指し、一心不乱に祖国再興の夢を追いました。
『宣シク 擧國一家子孫相傳ヘ 確ク神州ノ不滅ヲ信シ 任重クシテ道遠キヲ念ヒ 總力ヲ将来ノ建設ニ傾ケ 道義ヲ篤クシ 志操ヲ鞏クシ 誓テ國體ノ精華ヲ発揚シ 世界ノ進運ニ後レサラムコトヲ期スヘシ』
先帝陛下の詔勅の一語一語が人々の心の中に染み込み、廃墟から立ち上がる力となりましたが、日々の生活の楽しみの中にこうした歌謡曲が大きな役割を果たしたこともまた事実でしょう。

歌っている田端義夫は、生涯現役を心がけているそうですが、既に90歳を越えた今も歌っているのでしょうか。
エレキ・ギターを抱え、舞台中央のマイクの前では右手を大きく上げて『オーッス』と一言声を上げるのが彼のスタイルでした。しかし、その右目は幼い頃に患ったトラコ-マにより視力を失っていますが、それも赤貧故だとも云われます。歌が好きで音の出ない手製のギタ-を抱えては川原で歌っていたそうです。姉に進められるまま歌謡コンクールに出て見事優勝すると、そのままポリドール専属となりました。時に昭和13年でした。翌年には『島の船唄』でデビューし、その後も『大利根月夜』『別れ舟』など次々とヒット曲を出し、ポリドールのドル箱スターとなりました。
戦後、所属していたポリドールが活動を中止するに及んで、テイチクに移り、そこで出した最初の唄がこの『かえり船』だったのです。

はるか遠く離れた異国の地から故郷に向かって還ってくる人々の気持ちはどうだったのでしょうか。誰もが故郷で待つ家族、妻、子供、両親、兄弟の顔を思い浮かべながら、互いに無事でいてくれ、そんな気持ちでいたのではないでしょうか。波の彼方にあるはずの祖国の島影を追う日々が続いたと思います。戦場を離れて祖国を目指す 同胞にとっては、船足は遅々として進まず歯痒い思いをしていたのでしょうか。
熱い涙も 故国につけば
うれし涙と 変るだろ
かもめ行くなら 男の心
せめてあの娘に 伝えてよ
と故郷に残した恋人への熱い思いすら歌いこんでいます。

まだ南の島々、国々に『かえり船』を待つ英霊が眠っていることを忘れないで下さい。
田端義夫 かえり船 (本人解説)

田端義夫 かえり船 (本人解説)


北にいる同胞の『かえり舟』
異郷に眠る英霊の『かえり舟』

日本の戦後はまだ終わっていません



参考:
http://www13.big.or.jp/~sparrow/MIDI-kaeribune.html
http://homepage1.nifty.com/muneuchi/enka/ch2.htm


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