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なぜ憲法をかえなければならないか 民主主義の矛盾について

2013年06月07日 12時28分25秒 | 日本人と憲法

この前の日曜日にサンデーモーニングをチラッと見たら、憲法改正についてのナレーションが流れていて、96条改正というのは、9条改正の隠れ蓑みたいなことを話していて、9条がいかに人類の理想で素晴らしい条文であるか、また戦争だけは何が何でもやってはいけないという話を、街の声や、9条の会のメンバー達のコメントで固めてそれが多数派の意見であるかのごとく流していました。

アメリカの日本占領政策では、日本は好戦国のように言って東京裁判を行い、自虐史観で洗脳しましたが、実際には日本は、アメリカとコミンテルンの策謀でついに戦争に引きずり込まれましたが、それまでにどれだけ戦争を回避しようと努力したかは歴史を見ればわかります。日本ほど、平和主義の国はなかったと思います。

それでも戦争せずにはおれなかったのは、世の中には、戦争以上に悲惨なこともあるからです。9条の会などのコメントを聞くと、戦争が一番悲惨だと言う論理ですが、戦争でしか切り抜けられない悲惨さもあるし、戦争しなかったならばもっと悲惨になる現実もあるのです。

チベットウイグルが今どれほど悲惨であるか、日本人は殆ど詳しい情報を知りませんし、マスコミも報道しませんが、チャイナの侵略により国を失い、民族浄化策をとられて、男性は殺され、女性は支那人と結婚させられるという、民族の絶滅を意図されているような悲惨な現実も起こっているのです。

またかつては、欧米の植民地主義で、アジアは歴史も伝統も奪われて、植民地のアジア人は、教育も受けられないために、民族の文字も歴史の記憶すら失った国もあるのです。奴隷のように労働させられるのみで、歴史的記憶を失わされた民族は、誇りを失い、立ち上がり反抗する力もなくなります。

旧アメリカ大陸の土着民族は、ほとんど絶滅に近い人口減少となり、今ではインデアンは、保護区で、ひっそりと生きるしかありません。またマヤやインカ帝国もその子孫は、スペイン人との混血以外は生き残っておらず、文明はほろびて遺跡でしか見ることはできません。

かつてアフリカからアメリカに連れて来られた黒人奴隷は、その死体を検証すると、疲労骨折で腕が折れている人もたくさんいるほど、激しい労働で、牛馬のように扱われていたのです。完全に白人たちは黒人を人間ではなく動物と見なしていたのです。

これが、第二次大戦以前の世界であり、現代とはまるっきり違う世界だったのです。白人による人種差別、弱肉強食的列強の世界だったのであり、その中で、日本は大東亜の解放を旗印に戦い、アジア人をヨーロッパに対抗できるように訓練を施し、援助し、武士道をもって戦ったのです。

 

他の植民地のような運命を日本が戦わずに受け入れていたら、おそらく今の繁栄はなかったでしょう。敗戦したとはいえ、そこから立ち上がることが出来たのは、たとえ戦力に差があったとはいえ、米国と対等に戦ったからです。

明治以来富国強兵に力を入れて、なんとか欧米に追いつき、植民地にならずに、強国日本を作り上げたからです。欧米に出る杭は打たれる式に叩かれたとはいえ、それでも植民地になるよりはずっと良かったはずです。さらには、大東亜戦争によって、アジアが植民地という境涯から独立するきっかけを与えたのであり、植民地全盛時代の歴史を変える役目も果たせたのですから、戦わないことによる悲惨さよりも、戦ったことの悲惨さのほうが、ずっとマシだったと思います。

敗戦後にアメリカ占領軍からまるで民主主義という立派な教えを授けられたかのように、過去の日本はダメな日本だったけど、それ以後は民主主義という立派な教に基づいて国を運営するようになったなどというのは、大間違いです。

アメリカのくれた民主主義は、特に日本国憲法は、唯物論に基づいた肉体主義的民主主義であり、人間の霊性を尊重するような崇高さは全くなく、利己主義個人主義を肥大させるものでしかありません。アメリカや欧米が、それまで何をしたかを考えれば、その民主主義を歌った日本国憲法が、日本を良くしてやろうなどという気持ちで与えられたものであるはずがないことは歴史を見れば一目瞭然です。

 

サイタニのブログにこの憲法の唯物論的民主主義がよく分かるように説明されているので、転載します。

 

特集 なぜ憲法をかえなければならないか
民主主義の矛盾について
 
日本民族を浮浪の民族に
昭和四十三年
 
アメリカはその唯物論的民主主義を押しつけ的に輸入させて、日本を歴史なき国にすることによって日本民族を根の生えていない浮草のように、どこの国に隷属してもよいような浮浪の民族にしようとした。そして神話教育、歴史教育を系統的に教える歴史科を廃して、社会科の中に、日本の歴史中の恥部のみを選んで載せて学童を教育することによって、「伝統ある日本」を愛するところの愛国心を消滅せしめこれによって日本を弱体化しようとしたのである。
 
この計画はみごとに功を秦して、日本国民の四分の一くらいは、日本の国をソ連が治めてくれようが、中共が治めてくれようが、個人の肉体的幸福と物質的福祉とが得られればそれでよい、というような、愛国心なき精神の若者が氾濫することになったのである。かつては"外国の第五列"と 謂われることを恥辱とした日本の若者が、東大の学園紛争に於いては、毛沢東の肖像を高く掲げて、日本国家権力機構の手先であるとして警官隊に向って火焔瓶 や石を投げて激しく戦ったのであった。国家権力に対して「毛沢東」の肖像と赤旗とをもって武装して戦っている彼らは、すでに「外国の軍隊」なのである。そ れに対して日本の自衛隊は沈黙している。そして警察も学園自身の要請がなければ学内に立ち入れないし、その要請も、暴動側の学生の承認がなければできないという確認書を、学校当局と学生代表とが取り交わしたというのである。
 
彼らは「歴史と伝統とをもつ日本の国」を愛する愛国心などは毛頭ない。アメリカの占領軍が唯物論的民主主義を輸入せしめることによって、日本を弱体化する計画はこのように成功し、しかもその弱体化は日本のあらゆる階層に癌の転移の如くひろがりつつあるのであるから、すみやかに、の唯物論的民主主義の根元である占領憲法を追放しなければ日本には「日の丸」の国旗は消え、「赤旗」が国旗となり、日本のいたるところに、「毛沢東」の肖像写真が、あたかも中共の紅衛兵騒動の時にひろがったように、へんぽんとして翻(ひるがえ)ることになるであろう。
 
 
歴史と伝統を否定する唯物論
(過去記事2月21日掲載) 
 
唯物論的民主主義においては、すべての「伝統」とか「歴史」とか「精神的連続」とかいうものは否定せられる。それは人間をも"物質的単位"をもって計上して、歴史とか家柄とかいう、精神によって伝わる価値を否定してしまうのである。なぜなら、「物質」には歴史はないからである。
・・・・・中略・・・・
 
すなわち物質は常に、「歴史から断絶」するものであり、ただ素粒子の数量的関係によって価値が定まる物質を構成する素粒子の数の少いものは質量が軽いし、素粒子の数の多いものは質量が重いのである。その元素が、どんな生成の歴史を通して今の元素としてあらわれているかは問うことはないのである。
それと同じことが人間にあてはめられた教育が唯物論的民主主義教育である。水素の核融合によってできたヘリウムは、水素はヘリウムの親元素であっても、そこにはもう親子としての関係はない。ヘリウムはヘリウムであり、水素は水素であり、その歴史は相互に断絶するごとく、「子は親に対して孝養をつくす義務も責任もない」といって子供は教育せられるのである学園で暴動して、その両親がどんなに悲しんでいても、親の嘆きなどは彼らにとって屍チヤラである。彼らは人間の形をしているけれども、その精神は一個の物質分子であり、いのちの歴史からも家系からも国家の歴史からも断絶したバラバラの物質的存在であるのである
 
彼らは「日本の国民」という伝統も歴史をも精神の中にもっていないでただ日本の国土という地球の一部分にわいたところの寄生微生物みたいなものである。寄生微生物は、人間の肉体の中で発生し生存していても、「人体」の一部分であるという自覚をもっていないで、「自分に主権あり」とて、自分ばかり都合がよければよいとむやみに増殖して、「人体」ぜんたいの生存を危くしてしまうのである
 
唯 物論的民主主義は、人間を物質的単位において考察し、「個」が「全」の内包する歴史と伝統とからの断絶を目指すがゆえに、すべての存在をその「番号的空間 位置」と「数量」とによって表示されるのである。たとえば地名または町名の如きも、歴史的雰囲気をもつ称呼は廃止せられて、"六 ―三三―二四号〃というように便利的に取扱われるだけであって、その地名または町名の、みやびな言語の雰囲気やその地または町においてかつて何が行われ、 いかなる人が生れて来たかの歴史の連続や記憶や連想による複雑な厚みのある精神的内容は、ことごとく抹殺されるのである。
 
このような民主主義の下においては、そのうちに町名だけではなく、人間をも番号によって、「何番の何号」というふうに囚人式に取扱かれることになりかねないのであるすでにその一端が人間の命名において強制せられているのである。私は、先日ある人に女の子が生れたので、「美沙子」と命名してあげたら「沙」の字は当用漢字にないからとて、出生届が却下せられたということを聞いたのである。その文字のもつ歴史とか、風格とか、二ユアンスとか、味わいとか、美的感覚とかいうものを唯物論的民主主義は拒絶するのである。
 
そして人間はただの電算機となる。それは番号と符号とによって便利に動く機械となるのである。ただ私はこの唯物論的民主主義の憲法下で不思議に思うことは、ゲバ棒をもって数干人が集団して示威運動することは「表現の白由」でゆるされていながら美的感覚や、歴史的伝統ある連想をもついろいろの美しい漢字や熟語の使用を禁じて、文字や言語のもつ歴史抹殺することによって、われわれ文学芸術家の「表現の自由」を制限していることである。
 
こ れは結局、現代日本の民主主義なるものが、日本人の心から歴史を抹殺して日本国を伝統と歴史とから断絶し、歴史なき浮浪の民族に過ぎないという潜在意識を 養成して、日本民族の民族精神の根元を断ち、「伝統ある日本」への愛国心を根絶し、他国の侵略に唯々(いい)として盲従しやすい国民を養成する方向に、隠 れたる侵略者の手が動いていることを示すものである。国を愛する人たちに注意していただきたい。
 
 
民主主義という次期独裁者のカクレミノ
(過去記事2月22日掲載) 
 
武藤貞一氏はその機関誌「動向」の四十三年五月号巻頭に"民主亡国"と題して次のようなことを書いている。「民主主義とは、下剋上のことである。民主主義とは、個人主義、エゴイズム、反公共主義のことである民主主義は、独裁、専制、権力主義を排するための言葉であることはもちろんである。しかしそれは一応のカクレミノに過ぎない…:
"下剋上"とは"下が上を剋す"ということである
・・・・・中略・・・・・
この天地逆転・世界紛乱(ふんらん)の原因がアメリカから日本弱体化のために輸入された民主主義と、そのいわゆる〃民主主義憲法"である。公共の福祉などは考えず、市民に迷惑がかかっても、自己主張を貫徹するために全学連が暴力を揮い自分の給料さえ上ればよいというので、総評または国労の命令一下で交通機関のゼネストをやるがごとき、ことごとく、この民主主義憲法の許すところである。
・・・・中略・・・・
 
つづく
 
谷口雅春著「私の日本憲法論」より
 
 


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