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「リメンバー」というスローガンを繰り返すアメリカの歴史

2010年12月28日 20時37分14秒 | 歴史
 国際派日本人養成講座を見ていたら、アメリカという国が持つ性格がわかるような、次の記事を見つけました。アメリカが独立して以來、領土を拡張し、太平洋を自分たちの領海のように支配し、そして中国という広大な国を自分たちの資本主義経済の発展のための消費市場とするのを目標に、西進を続けてきました。そのための領土拡張戦争には、必ず、"Remember"のスローガンがあらわれます。アメリカは自国の国民を先ずだますために、相手国へ謀略を仕掛ける国であるということです。

以下国際派日本人養成講座からの転載です。


■1.日米戦争をアメリカ側から見る■  
 
 12月8日の真珠湾攻撃で、日米戦争は始まった。アメリカは"Remember Pearl Harbor(真珠湾を忘れるな)" をスローガンに立ち上がったのだが、ここに至る過程をアメリカ側から見てみよう。"Remember"のスローガンが、繰り返し出てくるのである。  
 
■2.1835 Remember Alamo■  
 
 かつてテキサスはメキシコの領土であった。そこに入植したアメリカ人は1835年に独立運動を起こし、翌年、155人の守備隊がアラモ砦に立てこもったが、メキシコ軍の攻撃により全滅した。 
 アメリカ人達は"Remember Alamo"を合い言葉に戦いを続け、翌年、独立を勝ち取った。アメリカはこれを46年に併合し、さらにカリフォルニアを狙って、メキシコに宣戦布告、勝利を得た。  
 
 この戦争の結果、アメリカは現在のアリゾナ、カリフォルニア、コロラド、ニュー・メキシコ、ネバダ、ユタ、ワイオミング各州にあたる地域をメキシコから奪取した。この結果、メキシコは領土の半分以上を失った。  
 
■3.1894 ハワイ■  
 
 1881年(明治14年)、アメリカによって独立を脅かされていたハワイ王国のカラカウワ王は、日本を訪れ、姪のカイウラニ姫の婿として山階宮定麿王をお迎えし、日本の力でハワイの独立を守ってもらいたい、と明治天皇に申し入れをした。明治天皇はアメリカとの摩擦をおもんばかって、丁重にお断りした[1,p48]。  
 
 1894年、入植していたアメリカ人は武力でハワイ王国の支配権を奪取し、アメリカ人宣教師の息子ドールを大統領とするハワイ共和国を作った。アメリカ合衆国はこれを4年後に併合する。  
 
■4.1898 フィリピン: Remember Maine■  
 
 1898年、スペインへの抵抗運動が続くキューバにおいて、アメリカ人保護を目的としてハバナ港に停泊していた戦艦メーン号が突如爆発、沈没し、乗員260名全員が死亡した。アメリカはこれをスペインの謀略として、"Remember Maine"を合い言葉に開戦し、勝利を得た。  
 
 キューバは独立を果たしたものの実質的にアメリカの保護国となった。フィリピンも一時スペインから独立したが、結局アメリカの植民地となった。さらにアメリカはこの戦争で、プエルトリコ、グアム島を奪取している。(1969年にアメリカ海軍当局は、メーン号の爆破はエンジン部分の故障による爆発だったとの調査結果を公表している。しかし、アメリカ自身の仕業という疑惑も消えていない。)  
 
■5.Manifest Destiny(明白なる天意)■  
 
 このように西へ西へと勢力を広げるアメリカの意図はどこにあったのか。当時の証言を引用しよう。 
 マハン(米海軍大学の戦略研究家、セオドア、フランクリン、両ルーズベルト各大統領がマハン理論を信奉した)は、「海の支配力の歴史に及ぼす影響」という著書のなかで次のように言っている。 
  「大海軍の建造がまずアメリカにとって重要だ、二番目には世界各地に植民地を獲得する必要がある。三番目には、そのために海軍が世界各地に軍事基地を設けなければならない。それを踏まえてアメリカは世界貿易に雄飛すべきであり、その対象はとりわけて中国市場に目を向けなければならない。」 
ベバレッヂ上院議員は、1900年に国会で次のような演説をしている。

  「我々は東洋におけるわれわれの機会を放棄しない。我々は神によって世界の文明を託されたわが民族の使命を遂行するにあたってわれわれの役目を放棄しない。・・・今後我が国最大の貿易はアジアと行われるにちがいない。太平洋は我々の大洋である。・・・中国はわが国本来の消費者である。」

 Manifest Destiny(明白なる天意)という言葉がある。ベバレッヂ上院議員の「神によって世界の文明を託されたわが民族の使命」とは、この事である。アメリカは、自らが非白人劣等民族の領土を植民地化することによって、文明をもたらすことを神から与えられた「明白なる天意」と称した。  
 
 メキシコ、ハワイ、そしてフィリピンへと領土拡張を進めたアメリカの軌跡は、まさしくこの「明白なる天意」の周到着実なる実行である。  
 
■6.オレンジ計画:対日戦略プログラム■  
 
 1897年、日清戦争のわずか二年後に、アメリカは日本を仮想敵として、対日戦略プログラム「オレンジ計画」を策定した。この計画は、以後、定期的に改訂を重ね、50年後に実行に移された。1911年には、次のように書かれている。
   もっとも可能性の高い状況は、日本がアメリカの封じ込め政策を終わらせ、同時に自国の通商航路を防衛しながら側面海域を現在および将来の攻撃から守っていこうとするものだ。そうすることは必然的にフィリピン、グアム、そして多分ハワイまで占領して合衆国を西太平洋から駆逐することになるであろう。
    
   より困難な状況の下で、米国は独力で日本を満洲から撤退させるべく、大陸への介入ではなく、海上の作戦によって戦うことになるだろう。それによって制海権を握り、失地を回復し、日本の通商路を抑え息の根をとめることになるだろう。[1,p58]

 
 1911年は大正元年、この時にすでに満洲に関する日米の確執を予言し、中国市場を独占するために、日本を封じ込めて暴発させ、「息の根をとめる」までのシナリオが正確に描かれている。真珠湾攻撃のちょうど30年前である。  
 
■7.Remember!■  
 
 日本はまさしくこのシナリオ通りに追いつめられ、暴発し、そして息の根を止められた。日本が降伏した日に、ニューヨーク・タイムスは「太平洋の覇権を我が手に」と題して、次のような記事を載せた。 
  「我々は初めてペルリ以来の願望を達した。もはや太平洋に邪魔者はいない。これで中国大陸のマーケットは我々のものになるのだ」[2]
 
 こうしたアメリカが、東京裁判では日本を侵略国として裁き、そして「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しよう」と謳う日本国憲法を与えたのである。その厚顔ぶりは他国の真似できる所ではない。  
 
 民主主義の国アメリカは、国民を説得するために、国際政治においても、常に過剰な道徳や正義を持ち込む習性を持つ。Remember も、Manifest Destinyも、国民をリードするための政治的スローガンなのである。正義の「建前」と冷静着実な国益追求の「本音」とが、これほど乖離している国も珍しいのである。  
 
 アメリカは現在、日本の大切な友邦である。しかし、つきあう上では、この点を忘れてはならない。Remember this!  
 
[参考]  
1.「異なる悲劇 日本とドイツ」、西尾幹二、文春文庫  
2.「アメリカの極東戦略」、椛島有三、祖国と青年、 平成7年1月号
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 さてここで、リメンバー パールハーバーについても、近年公開されはじめた、米公文書によって、そのシナリオの原作者が分かってきました。ロバート・B・スティネットの著書"Day of Deceit"で公表されたそうです。
 このアメリカのシナリオにみごとにはめられた日本、自国の為政者の汚いやり方を認めようとしないアメリカ国民の「アメリカはいつも正しい」というプライドの高さ、そして未だに日本が悪かったという歴史観から逃れられない日本人、すでに資料は公表されているにもかかわらず、連合国という勝者の史観を両国民ともに信じています。
 しかし日本人は、今こそきちんと歴史を検証して、「自国は悪かった」という意識を払拭すべきです。パール判事の次の言葉を深く受け止めなければならないと思います。「自尊心と自国の名誉と誇りを失った民族は、強大国に迎合する卑屈なる植民地民族に転落する。日本よ!日本人は連合国から与えられた《戦犯》の観念を頭から一掃せよ。・・・」
 
 以下国際派日本人養成講座の記事です。



   沈没する戦艦アリゾナ

 フランクリン・ルーズベルト大統領は、その絶大な権力を使って、ついに米国を日本との戦争にまきこむことに成功した。そのことは、米国を欧州における戦争に参戦させるというルーズベルトの最終目的を達成させることであった。・・・ ルーズベルトは、われわれをだまし、いわば裏口からわれわれをドイツとの戦争にまきこんだのである。 [1,p19]

 開戦当時の共和党下院リーダー、ハミルトン・フィッシュ議員が自らの著書で語った言葉である。本誌96号「ルーズベルトの愚行」では、このフィッシュ下院議員やアメリカ陸軍参謀本部ウェデマイヤー大将の著書から、ルーズベルト大統領が「欧州の戦争には巻き込まれない」という選挙公約を破って対独参戦を果たすために、日本を開戦に追い込んだ、という根強い史観がアメリカにあることを紹介した。

 真珠湾攻撃から55年、ようやく公開され始めた当時の公文書の山の中から、遂に日本を開戦に追い込むためのシナリオを描いた証拠書類が発見され、ロバート・B・スティネットの著書"Day of Deceit"[2]で公表された。

 スティネットが明らかにした陰謀と諜報の世界は凄まじい。米国が押しつけた日本国憲法前文は「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して」と謳うが、当の米国大統領が何をしたのか、スティネットの発掘した事実から考えてみたい。

■2.海軍情報部極東課長アーサー・H・マッカラム■

 1940年夏、ヨーロッパ大陸を席巻し、英国をも打倒しようというナチスの勢いにルーズベルト政権は危機感を抱いていた。英国が敗北すれば、中南米諸国でもファシスト革命が起こり、アメリカはドイツから直接脅威を受ける恐れがある。しかし、国民の88%は、第一次大戦の反省から、欧州の戦争に巻き込まれるのを嫌っていた。

 この秋の大統領選では、ルーズベルトは再選の立候補の際に、決してヨーロッパの戦争には巻き込まれない、という公約をして、かろうじて当選した有様だった。

 1940年9月27日の日独伊3国同盟締結に、海軍情報部極東課長アーサー・H・マッカラムは絶好の機会を見いだした。日本を追いつめて、アメリカに宣戦布告させれば、自動的にドイツ、イタリアも対米参戦せざるをえなくなり、ルーズベルトの公約を破ることなく、アメリカはドイツと戦えるのである。

 3国同盟締結のわずか2週間足らずの後、10月7日付けで、マッカラムは8項目からなるメモを作成し、ルーズベルトの側近に提出した。日本に生まれ、育ったマッカラムは、どうすれば、日本を開戦にまで追いつめることができるか、知り尽くしていた。

■3.対日挑発のアクション・プラン■

 マッカラムの提案した8項目とは、以下の内容である。

A 英国と交渉し、太平洋地域、特にシンガポールの英軍基地の利用許可を得る。
B オランダと交渉し、オランダ領東インド(現在のインドネシア)の基地および物資の利用許可を得る。

C 中国の蒋介石政権に可能な限りの援助を行なう。
D 遠距離航行能力を有する重巡洋艦一個戦隊を極東、フィリピン、またはシンガポールに派遣する。

E 潜水艦艦隊二隊を極東に派遣する。
F 現在、太平洋に配置している米艦隊主力をハワイ諸島近辺に維持すること。

G オランダが日本の経済的要求、特に石油供給に関して不当に屈しないように主張すること。
H 英国による対日禁輸措置と協力して、アメリカも日本に対する全面的な通商禁止を行なう。


 このメモにはルーズベルト自身のサインはないが、その後の対日挑発はほぼこの提案通りに実行されていった。

■4.8項目の実行■

 項目Aの通り、英国の太平洋における軍事基地の利用許可を米国は得た。項目Bのオランダとの軍事協力に関しては、日本軍の無線盗聴に関して緊密な協力体制が築かれた。項目Cの蒋介石への軍事援助は一段と強化された。

 項目Dの極東への重巡洋艦隊派遣は、翌41年7月、豊後水道に2隻の巡洋艦を接近させるという形で実現した。ここは帝国海軍の練習海域であり、海軍の駆逐艦が発見して、日本政府は「国際法違反だ」と駐日大使グルーに抗議を行った。

 項目Fの太平洋艦隊のハワイ駐留は継続され、項目Eの「潜水艦艦隊二隊の極東派遣」は、マニラへの潜水艦24隻の配備として、年明けに実行された。Gのオランダによる石油その他原材料の禁輸も原案通り実施に移された。

 最後の項目H、米国からの完全禁輸は、1941年7月に実行された。しかし、この完全禁輸の前の時期には、ホワイトハウスは石油輸出を制限しつつも、日本への輸出許可を与えていた。これにより、7月時点では日本は2年分の石油備蓄をしていた。

 1941年当時、日本の空母10隻に対して、アメリカの太平洋艦隊は7隻であり、当面日本の優位が続くと見られていた。しかし、2年後にはアメリカは100隻もの空母を建造して、反攻に移れると計算していた。日本に2年分の石油備蓄を許したのは、戦争を決意させるには十分だが、最終的な勝利を得るのは不可能、という周到な計算の結果であった。

■5.「おとり」の太平洋艦隊■

 項目Fでの米艦隊ハワイ駐留は、日本に軍事的威嚇を与えると同時に、絶好の攻撃目標を与える事を狙いとしていた。太平洋艦隊は、日本軍の動きも知らされずに、「おとり」としての運命をたどらされる。

 そもそも米艦隊の母港は真珠湾ではなく、西海岸であった。1040年4月に訓練のために、一時的にハワイに駐留したのだが、ホワイトハウスからは、そのまま当分ハワイに留まることを指示された。

 リチャードソン提督は、ハワイには基礎的な訓練施設も、補給施設も、補修設備もなく、また兵員を家族から離しておく事による士気低下を考えて、西海岸に戻すことを要求していたのだが、ルーズベルト大統領はそれを許さなかった。提督は、直接大統領に会って、ハワイに留まることの不合理さを訴えたが、大統領は耳を貸さなかった。

 提督は、さらに日本は軍人が支配しており、艦隊をハワイに置くことの軍事的意味を見抜くはずなのに、大統領と国務長官ハルはこの事を考慮に入れていない、とこぼしているが、実は大統領の戦略がまさしくこの点を考慮に入れたものであったことを、リチャードソンは気がつかなかった。

 これはマッカラムのメモが書かれる前であるが、米艦隊を真珠湾に置いて、日本を威嚇しつつ、おとりにしようという項目Fのアイデアは、すでにルーズベルトも抱いていたようだ。

 ルーズベルト大統領に逆らったリチャードソン提督は、41年2月の太平洋艦隊創設とともに更迭され、海軍少将ハズバンド・E・キンメルが後任に指名された。キンメルは何も知らされないまま「おとり」にされ、最終的には真珠湾攻撃の責任を追求されて降格される。

■6.筒抜けになっていた日本の動き■

 帝国海軍の山本五十六提督は、マッカラム・メモの3ヶ月後、昭和16(1941)年1月には、日米開戦の場合はまず真珠湾の米艦隊を叩く、という戦略を固め、その詳細検討を始めていた。しかし、この情報はすぐに米大使館が掴み、1月27日には、駐日大使グルーが国務長官ハルに、日本軍の真珠湾攻撃計画について情報を送っている。

 ハルから情報を受け取ったマッカラムは、自らの対日挑発が予想通り進んでいることを確認したが、キンメル提督には「海軍情報部は、この『うわさ』には信憑性がないと判断する」という分析を送った。「おとり」には、そのまま真珠湾で日本軍の攻撃を受けて貰わねばならないからである。

 同年3月からは、海軍のスパイ吉川猛夫が、森村正の仮名でハワイの日本領事館に駐在し、真珠湾での艦船の停泊位置、および陸軍飛行場での航空機の種類などを調べ、東京に通報していた。その暗号電文22通のうち、19通は傍受・解読され、真珠湾が日本の攻撃対象になっていることが確認されたが、ワシントンは森村を開戦2日前まで泳がせ、諜報活動を続けさせた。

 9月末には、日本は陸海軍戦力を中国から引き揚げ始め、同時に世界中の商船を呼び戻し始めた。これは部隊や物資の輸送に備えるためである。無線傍受でこれらの動きを逐一掴んでいたマッカラムは、日本の開戦準備が新たな段階に達したと判断した。

 11月2日の御前会議では、昭和天皇が「事態が謂う如くであれば、作戦準備も止むを得なかろうが、何とか極力日米交渉打開を計ってもらいたい」と憂慮の言葉を述べられたが、外交が行き詰まって開戦に至れば、劈頭に真珠湾攻撃を行うという山本提督の案が了承された。しかし、この情報は翌日にはグルー大使から、ハル国務長官に伝えられている。宮城にもアメリカの諜報の手は伸びていたようである。

■7.真珠湾の「受け入れ準備」完了■

 11月25日、第一航空艦隊が真珠湾攻撃に向けて出発するのと同時に、ワシントンから米国、および同盟国のすべての艦船に対して、北太平洋の航行を禁じる、という指示が出された。キンメルは独断で「演習」と称して、日本海軍の動きを察知するために、ハワイ北方に偵察用の艦船を配置していたが、ホワイトハウスはこれを中止させた。

 翌26日には、キンメルは空母2隻で航空機をウェーキ、および、ミッドウェイに輸送するよう命ぜられた。2隻の空母が19隻の新鋭艦に護衛されて真珠湾を出発すると、残るは第一次大戦の遺物のような老齢艦ばかりとなった。

 ハワイに近づきつつある日本の第一航空艦隊は、所在位置を秘匿するため無線封止を命ぜられたが、実際には悪天候下での位置確認などのために無線発信を行っており、ワシントンは129件の無線を傍受して、時々刻々の位置を把握していた。

 ワシントンの現地時間で12月6日午後3時、日本の宣戦布告文が14部に分割されて、順次ワシントンの日本大使館に送信されたが、それらは同時に傍受・解読されて、午後9時30分にルーズベルト大統領のもとに届けられた。大統領は「これは戦争を意味する」と語った。「先手を打って迎え撃っては」との側近の提案に大統領は頷きながらも「いや、それはできない。我々は民主的で平和的な国民だ」と答えた。

 電文の最後に宣戦布告を翌7日午後1時(真珠湾では午前7時30分)と指定した部分は、その3時間前、午前10時に大統領のもとに届けられたが、ルーズベルトは別に驚いた様子もなくそれを読み、何のコメントもしなかった。

■8.リメンバー・パールハーバー■

 ワシントンでのこのような動きをまったく知らされていなかったキンメル提督は、その日曜の朝9時30分からゴルフの予定をしていた。しかし7時45分に日本の潜航艇が真珠湾入り口で発見されたという電話があり、急いでオフィスに向かおうと自宅で運転手を待っていたキンメルの目の前で、帝国海軍の爆撃が始まり、戦艦アリゾナは巨大な火の玉となって爆発した。

 7時52分に始まった攻撃は、9時35分に終わり、米太平洋艦隊は艦船16隻が大破、航空機188機が破壊された。ワシントンから何の情報もないまま、艦船に待機していた将兵達は予期しない空襲に、死者2273人、負傷者1119人という大損害を受けた。

 「リメンバー・パールハーバー」の声は米国全土に響き渡り、従軍希望の青年達が各地の陸海軍の募兵所で長い列を作った。米国議会は翌8日に日本に対する宣戦布告を決議し、3日後にはドイツ・イタリアへの宣戦布告も行った。こうして日本を追いつめ、真珠湾をおとりにして、第一撃を打たせ、それによって、ドイツとの戦いに参戦しようというマッカラムが描いたシナリオは、ルーズベルトによって見事に演ぜられた。

 著者ロバート・スティネットは、以上のような情報をワシントンが今日まで秘匿してきた事は批判しながらも、対独参戦のためにこのような決断をせざるを得なかったルーズベルトの困難な立場に同情的である。しかし、
日本を挑発して、数百万人もの犠牲者を出さしめた戦争に引きずり込むという決定の倫理的正当性は、これから長年に渡って様々な立場から議論されていくだろう。本書ではこのようなジレンマを解決することはできない。[1,p259]と述べている。「リメンバー・パールハーバー」は、日本人の立場からも忘れてはならない言葉である。


■参考■
1. 「日米・開戦の悲劇」、ハミルトン・フィッシュ、PHP文庫、 H4.12
2. "Day of Deceit", Robert B. Stinnett, H12
  (邦訳)「真珠湾の真実 ― ルーズベルト欺瞞の日々」、
   ロバート・B・スティネット、文藝春秋、H13

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