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はたして現行の憲法は日本に適する憲法か

2013年02月23日 12時24分59秒 | 日本人と憲法

サイタニのブログからの転載です。

日本国憲法を何が何でも守ろうとする護憲派の人々は、この憲法前文をどのように思っているのでしょうか。これを読んで、そこに書いてある「人類普遍の原理」という言葉をそのまま受け入れ、最後に書かれている「この崇高な理想と目的」という言葉をその通りと感じているのでしょうか。

この前文がもつ日本国に対する屈辱的な響きを感じ取れない人々は、おそらく心のなかに、日本という言葉が何ら意味を持たず、心を動かされることもない、単なる世界地図上の地点を示す符合でしか無い感覚の人々なのでしょう。自分の中に、歴史を持ち伝統を持った日本という国を持たない人々でしょう。

かつて乃木希典大将は、小学校の子供達に、日本は何処にあるか知っているかと尋ねられました。子どもたちは「東洋の東側」とか「緯度何度」とか地理的な答えを返しましたが、乃木大将は「それぞれに間違いはない」とうなずいたあと、自分の胸を叩いて「本当はここにあるんだ」とおっしゃったそうです。

自分の中に日本があるという感覚、これがチャンネル桜で、水島さんがよくおっしゃっている自分が日本だという意識なのでしょう。

その意識で、この前文を見て、悔しさが湧かないはずはないのです。これを当たり前のように平和主義だと喜ぶ人は、自分の中にある日本人の遺伝子は、悪玉遺伝子だと思っているのでしょうか。

 

 

 

 

昭和42年

現行日本国憲法前文の非真理性


 

この憲法がいかなるものであるかは、憲法の前文がまずそれを説明しているので、今回はまずそれを検討するために、日本国憲法の前文を次に掲げて皆さんと一緒に考えてみたいと思うのである。

 

 

「日 本国民は、正當に選挙きれた國會における代表者を通じて行動し、われらとわれらの子孫のために、諸國民との協和による成果と、わが國全土にわたつて自由の もたらす恵澤を確保し、政府の行爲によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し、ここに主権が國民に存することを宣言し、この憲法を確 定する。そもそも國政は、國民の嚴粛な信託によるものであつて、その権威は國民に由來し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は園民がこれを 享受する。これは人類普遍の原理であり、この憲法は、かかる原理に基くものである。われらは、これに反する一切の憲法、法令及び詔勅を排除する。

 

日 本國民は、恒久の平和を念願し、人間相互の關係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであつて、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全 と生存を保持しようと決意した。われらは、平和を維持し、専制と隷從、壓迫と偏狡を地上から永遠に除去しようと努めてゐる國際社會において、名譽ある地位 を占めたいと思ふ。われらは、全世界の國民が、ひとしく恐怖と缺乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。

 

われらは、いづれの國家も、自國のことのみに専念して他國を無視してはならないのであつて、政治道徳の法則は、普遍的なものであり、この法則に從ふことは、自國の主権を維持し、他國と對等關係に立たうとする各國の責務であると信ずる。

 

日本國民は、國家の名譽にかけ、全カをあげてこの崇高な理想と目的を達成することを誓ふ。」

 

以上で日本国憲法の前文は終わっているのであるが、この前文の特徴をなすものは、敗戦国民が、戦勝国に対して、「今まで私たちは悪いことをして来ました、今後一切あのようなことは致しませんということを誓います」という「あやまり証文」の文体および語調をもっていることである

これで、この憲法が、この国の国民が自主的に定めた憲法であるといえるであろうかということである

 

 
この憲法前文は言う。「日本國民は……平和を愛する諾國民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した」と。これを意訳するならば、


「日本国民は、あなたがた戦勝国民はみな公正で信義に篤(あつ)い国民であると信じます。いけなかったのは日本国民だけです。今後われわれは、みなさん列国民がわれわれに公正で信義ある扱いをしてくださることを信じて、自分の安全と生存とを自分の力で保とうとは思わないで皆さんにお委(まか)せしようと決心しましたという意味になるのである。
 
 
私はこの憲法の前文を読むたびごとに悲しくなって泣きだしたくなるのである。「自分の安全も生存も自主的に自分で護(まも)る権利を放棄します。自分の生存を保持することすら、平和を愛するあなたがた諾国民の公正と信義におまかせします」というのである。
 
 
一国の憲法に、このような卑屈な言葉の表現があってよいものだろうか。国民の決意なら決意で、もっと自主的な決意があってよいはずなのに、「今まで自分の国は悪うございました。それで今後は自分で自分の生存をも護りません。皆様のあなたまかせにいたします」とあるのである。このような文章は強圧者の前にひたすら処刑をまぬかれるために憐れみを請(こ)う気持でなければ書けぬ文章なのである。



 
 
 
さてその「あなた委せ」に、ひたすら、「そのお慈悲にたよって生存いたします」と日本国民が誓うところのその相手国である諸国民がそんなに公正で信義ある国民だろうか

この憲法を護持する、この憲法こそ正しいと称する革新系の人々は、この草案を書き、かつ戦勝国の代表者として、この憲法を押しつけたところのアメリカ合衆 国を、本当に平和を愛好する信義あつき国だと信じているのであろうか。

彼ら革新系の人々は、二言目には「アメリカ帝国主義」と罵(ののし)り、「侵略国ア メリカは平和の敵である」と、中共とともに共同宣言することを辞さないのであるから、われわれの隣国に、公正と信義を保つ諾国民が存在しないことを、夙 (つと)に知っているのは、社会党等の、この革新系の人々ではなかろうか。

だから「諸国民の公正と信義に信頼しうる」と仮定したこの憲法は真実を語るもの でないことを知っているのがこの革新系の人々なのである。

それなのに、真実を語るものでないこの憲法をなぜ彼らは護持しようとするのであろうか。しかもこ れらの革新系の人たちは「戦争を廃絶する唯一の道は戦争によるほかはないのである」という毛沢東一流の考え方に基づいて、「平和共存路線」に踏み出したソ 連を「修正主義」と称してはげしく攻撃している中共と手をつないで、アメリカを「日中共同の敵」と宣言することを敢(あえ)てしているのである。
 
 
「戦争を廃絶する道は戦争によるほかはない」と隣国に分裂内戦の火をつけるだけではなく、コンゴやインドネシアに革命内戦の火をつけ、これは失敗したが、現にベトナムを南北に分裂させて、同一民族を互いに戦わせて、"漁夫の利"を得ようとしている隣国が現にいるのに、「平和を愛する諸国民の公正と信義とに信頼する」という決意によって起草されたこの憲法全体は、すでに事実と相違するところの死法にすぎないのではないだろうか
 
このような不合理な憲法を「自分の生存の保持も安全もあなたまかせにいたします」とお辞儀をして受諾したのは、広島や長崎に、人類がいまだ経験したことのない原爆による巨大なる被害を受け、その上、占領軍が上陸して来て、「占領軍の言いなりになるほかない、どんな抵抗をする力もわれわれにはないのだ」と、国民が虚脱状態になっているとき、「このアメリカ製憲法を受諾しなければ"天皇の人体〃(person of Emperor という語を使ったという) もどうなるか分からぬ」と占領軍におどかされて、ひたすら、占領軍の“打首の剣(つるぎ)〃の下におののいていたのが当時の日本国民の現状であったのだ

こうして、一方では天皇を打首にするかも知れぬと"不可視の剣"をふり上げながら、「しかし一国の憲法はその国の国民が定めるのであるから自分でよく考えて、このアメリカ草案の憲法に基づいて日本国憲法を改正するかどうか、ちょっとお庭を二十分間ほど散歩してくるからその間に考えて返事をしなさい」といってホィットニー准将は散歩に出ていったというのである。

 
こ れでは、ちょうど強盗がピストルで一方でおどしながら、「お前の家の財産はお前が渡すか渡さぬかきめるものであって、決して俺が強制して定めるものでな い。それはお前の自由意志が定めるのだ。しかし俺の勧告に従って金を出さねば、このピストルの弾がお前の脳天を貫くかもしれない。しかしその決定権はお前 にある。俺はただ勧告するだけだ」というようなものなのである。これが"勧告"と偽称する恐るべき恐喝(きょうかつ)でなくて何であろうか。
 


 谷口雅春著 「私の日本憲法論」より



参考



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