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“個性ある国家“を形成するには、「国家の理念」がなければならない

2013年02月10日 13時03分24秒 | 日本人と憲法

明日二月十一日は建国記念の日です。日本の国家とは何かということを考えるべき時代になったと言えます。戦後レジーム脱却には、日本とは何か、日本人とは何かをしっかりと探る必要があるでしょう。

久しぶりにサイタニのブログからの転載です。

「憲法を何故変えなければならないか」のシリーズです。チャンネル桜で、水島さんが、世界の戦争において、日本のような特攻精神を持った兵士が存在したのは日本だけだということをおっしゃっていました。

世界でも、結果的に国家のために戦って死んだという人は多いですが、最初から死ぬことを覚悟した作戦で命を捧げるというのは日本の特攻隊だけで、それが決して一時的なファナックな感情の昂奮ではなく、非常に冷静で澄み切った心境のもとで死地に向かっていることに、アンドレ・マルローなど多くの世界の識者が驚きと尊敬を述べています。

水島さんは何故日本人がこのような心境になれるのかということを、次のようにおっしゃっています。

「散る桜、残る桜も、散る桜」という特攻隊の方の辞世の句があるが、日本人は散華された兵士を桜の花に例えることが多く、これは日本国民一人一人が、日本の国を桜の木に例えて、その日本の国という木の生命から咲き出た花であるという、国の生命との一体感を持っているからだとおっしゃっています。

その自分を生んだ元の生命のため、その元の生命とともにある家族のために自分の命を犠牲にしても守ろうというのは、自分の命が国の命と一つになること、私的な個人からの意識の飛躍であり、自己の生命感の拡大であるといえるのではないでしょうか。

それはまた、イエスの自己犠牲に通じるもの、自己の小さな肉体的生命感を脱して、自己解放、自己拡大したものと同じではないかという気がします。

 

【直言極言】中国の侵略と特攻精神[桜H25/2/8]





 
占領憲法には最初に、この憲法の趣旨を総括的にまとめた前文があって、その中には次のようなことが書かれているのであります。
 
 
「・・・・ ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する。そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであつて、その権威は国民に由来し、その権カは 国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。これは人類普遍の原理であり、この憲法は、かかる原理に基くものである。」
 
 
第一、「主権が国民に存する」ことが人類普遍の原理ではないのでありますそして「そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであって・・・」 など書かれていますが、実際は、今国政を行なっている者を信託していない人間がたくさんいるのであります。それは野党の人たちであって、常に政府攻撃をし て「自分たち国民はお前たちを信任しないぞ」叫んでいるのであります。だから「国政は国民の厳粛な信託によるものである」という憲法の文章は空文であるか ウソが書いてあるのであって、決して「人類普遍の原理」でも何でもないのであります。
 
 
だいいち国家の主権が国民に存するということが日本国家においては真理ではないのであります
 


部分に分割したら全体はなくなる
 
 
禅宗第一の真理の書『無門関』に、“奚仲造車(けいちゅうぞうしゃ)”の公案というのがありまして、奚仲という支那古代の聖王・黄帝の時代に人類最初の「車」を発明して、まず百台の車を製作したが、それを部分品に分解した後、車はいったい何処にあるかと、その部分品を見て探しまわったが、車は行方不明になって見つからなかったという話が出ているのであります。
 
部分品を見て廻ったが車は見っからなかったというのは、すべてのものは、部分品に分解してしまったら、全体は存在しなくなるということであります人間でも、その肉体を解剖して部分品に分解してしまったら、人間そのものは死んでしまって、人間はなくなるのであります。
 
 
国家も、それを国家構成の部分たる国民ひとりひとりに分解してしまったら、部分はあるが全体はない国民はあるが国家はないことになるのでありますこうして、現行の占領憲法では、部分である国民はあるが、生命体としての国家はない憲法になっているのでありますから、この憲法のコトバがだんだん現実化してくるに従って、「国家をなくする活動」が次第に具体化してくることになるのであります。その一つのあらわれが左翼運動の激化と、学生騒動とであります。
 
 
部分が全体として形成されるためにはその形成を指導する霊が要る
 
 
唯 物輪者は、全体は部分の集合体であって、部分がまずあって、部分が一定の設計の秩序に従って集合したとき全体ができあがると考えるのでありますが、それは 全体の形が生成される過程を、第三者が形の上からみたにすぎないのであります。部分はでたらめに集合したのでは全体は形成されない、部分を一定の目的に集 合するには、単に部分が集合するだけではなく、その集合を指導する「秩序の智慧」の存在がければならないのであります。国民が集合して一個の“個性ある国家“を形成するには、「国家の理念」ともいうべきものが先行して、部分の集合する形及び過程を統制して行かなければ、部分は全体を構成することはできないのであります。そ れは譬(たと)えば、受精卵が細胞分裂をつづけて部分としての細胞の数は増殖して積みあげられて行きましても、そこに細胞の集合を秩序的に統制するところ の人間の霊魂が天降(あまくだ)って来なければ、その細胞群が個性ある人間として形成されることにならないのであります。そしてそれは単なる葡萄状鬼胎の ごとき不整型な細胞群となるにすぎないのであります、
 
 
 
人体は霊魂が宿ることによっそ個性的存在となる
 
 人 体が形成されるにあたって、それが単に細胞分裂によって増殖した細胞が、機械的に集合して人体を形成して行くのだったら、それは機械的構成であるから、す べて一人の母親から生まれてくる子供は、機械的に同一類型の個性のない人間ばかりが生まれなければならないはずでありますけれども、それが、たとい同一母 親から産まれた子供であっても、ひとりひとり個性が異なるところの人間がうまれて来ることを思えば、人体は単に増殖細胞が物理化学的工程によって機械的に 集合形成せられるのではなくて個性ある“指導精神”又は“理念”又は“霊魂”が天降って来て、その個性に従って人体を構成するものであると結論せざるを得 ないのであります。
 
 
 
 
 
 
外国の国家のうちには、人民が集まって協議して自已防衛のための団体をつくり、その人民群の福利のための信託組合のような形で国家が形成されたのがずいぶんあるようであります。
 
 
しかしそのような国家形成の原理を日本民族国家の形成にまで当てはめて考えることは間違いなのでありますこの間違いの原理を、国家形成の「普遍の原理」だなどと称して日本に押しつけたのが現行の占領憲法であります。
 
 
日本国家の形成は天照大御神(あまてらすおおみかみ)の天孫降臨の神勅(みことのり)にある如く、天照大御神がその大御心(おおみごころ)の中に
 
 
「豊葦原(とよあしはら)の千五百秋(ちいほあき)の瑞穂国(みずほのくに)は世々(よよ)わが子孫(うみのこ)の王(きみ)たるべき地(くに)なり」
 
 
という日本国家形成の個性ある根本原型が設計せられ、その精神的原型(すなわち理念)が天降って、その理念の具象化として神武天皇の建国となり、
 
 
爾来、二干六百三十年にわたって、日本にのみ存在するこの個性ある天皇中心国家が連綿として継続して来たことはそれが人類普遍の個性なき国家形成の原理に従って機械的に形成された国家でないからこそであり、
 
 
それが天授の国家理念の具体化であればこそ、このように天皇中心制度が二千六百三十年にもわたって継続し得たのであります。
 これは他国に比類なきことであります。
 
 
 
 
谷口雅春著 「私の日本憲法論」より



参考


 

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