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キムタク『南極大陸』初回平均視聴率22.2%、瞬間最高25.5%の好発進

2011年10月18日 15時57分46秒 | 無題

 近野滋之・民族主義者の警鐘  からの転載です。TBSの南極大陸が初回視聴率22,2%でテレビドラマでは久しぶりの初回での20%超えだそうです。そして同じ時間帯に23日からフジテレビでキム・テヒ主演の「僕とスターの99日」を放送するということです。フジテレビは韓流ゴリ押しで、反日女優で、独島守護天使と呼ばれているキム・テヒを主演にしたドラマがどれだけ視聴率を出せるか、戦々恐々ではないでしょうか。

南極大陸は、昭和30年代を舞台に、敗戦国の汚名返上をかけ、南極観測に挑んだ男たちと樺太犬の姿を熱く描くというドラマで、南極に日の丸を立ててくるという意気込みの隊員たちの姿と、それを期待して日の丸で見送る国民の姿が映し出されて、感動的だったようです。

TBSと云えば、それまでけっこう韓流ドラマを放送していましたし、反日テレビ的な部分が多かったので、私は見ていませんでしたが、この記事の写真の日の丸シーンを見て、見逃したことを後悔しました。最も近野さんが記事に書いておられるように、今後どんな放送事故的なシーンが挿入されるかわかりませんが。

 

 

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良識ある日本国民の皆様には、TBSの「南極大陸」の初回平均視聴率が22.2%だったのはご存知だと考えます。

キムタク『南極大陸』初回平均視聴率22.2%、瞬間最高25.5%の好発進

きのう16日からスタートした人気グループSMAP・木村拓哉主演の新ドラマ『南極大陸』
(毎週日曜 後9:00~TBS系)の初回平均視聴率が22.2%
(ビデオリサーチ調べ・関東地区)を記録した。
昭和30年代を舞台に、敗戦国の汚名返上をかけ、
南極観測に挑んだ男たちと樺太犬の姿を熱く描く同作。
今年、民放の連続ドラマで初回20%を超えたのは同枠の春ドラマ『JIN-仁-』のみ。
瞬間最高視聴率も25.5%をマークし、好調な滑り出しとなった。
(オリコン)抜粋
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20111014-00000332-oric-ent

 

>木村拓哉主演の新ドラマ『南極大陸』(毎週日曜 後9:00~TBS系)の初回平均視聴率が22.2%

最近のドラマの平均視聴率は、初回でも15%超えは少ない状況で、TBS「南極大陸」の初回平均視聴率が22.2%とは、フジテレビの特番は涙目^^、16日の同時間帯視聴率で「南極大陸」はダントツのトップです。

15.8% 21:00-23:24 NTV 行列のできる法律相談所SP
22.2% 21:00-23:03 TBS [新]TBS開局60周年記念・日曜劇場・南極大陸
13.6% 19:00-22:24 CX* [新]ほこ×たて初回3時間半SP
*9.1% 21:00-23:10 EX__ 日曜洋画劇場・45周年4週連続・ダイ・ハード2

 

>昭和30年代を舞台に、敗戦国の汚名返上をかけ、南極観測に挑んだ男たちと樺太犬の姿を熱く描く

「南極大陸」の初回で、米国・ソ連など戦勝国中心の「国際地球観測年特別委員会」に参加した日本は、「敗戦国の日本が何しに来たんだ」などと馬鹿にされるシーンがあったそうですが、戦勝国の日本に対する歴史の真実です。

掲示板では、「TBSは日の丸を掲げられるじゃないか」や、木村拓哉の台詞、僕のお小遣い使ってとお金を握りしめた子どもに、「南極に日の丸を立ててくる」に感動したとのコメントが多かったです。

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>瞬間最高視聴率も25.5%をマークし、好調な滑り出しとなった

瞬間最高視聴率を記録したのは、午後10時37分、欠陥が発見されて南極行きが危ぶまれた観測船、「宗谷」の防水試験に成功したシーンで、南極へ向かう2話以降につながる重要なシーンですから、2話も高視聴率になるでしょう。

フジテレビは23日午後9時から、キム・テヒ主演の「僕とスターの99日」を放送するので、日曜同時間帯放送の、TBS「南極大陸」の初回平均視聴率22.2%、瞬間最高視聴率25.5%の高視聴率に、フジテレビは涙目です。

キム・テヒは、2005年に広報大使としてスイスを訪問したのに、「独島愛キャンペーン」を開催、「独島は韓国領土」というメッセージが入ったTシャツと、歌謡曲「独島は韓国領土」のリメークアルバムなどを配った有名な反日活動家です。

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10 月14日にスイス大使館に問い合わせた人物が、大使館から届いたと公開したメール、「キム・テヒはアジアの観光をスイスで宣伝することを目的にしていたの に、観光局の同意なしにTシャツを着たので強く抗議した。スイスは竹島問題で中立な立場」は事実だと判明しています。
http://www.tanteifile.com/watch/2011/10/17_01/index.html

 

>今年、民放の連続ドラマで初回20%を超えたのは同枠の春ドラマ『JIN-仁-』のみ

TBSは、「JIN-仁」に続き、「南極大陸」も初回20%を超えたのは、日本人は日本のドラマを望んでいると認めて、「アイリス」も惨敗だったのですから、韓流ドラマとは縁を切るべきです。

私は本ブログ10月16日の記事で、地下鉄の駅に、キム・テヒを「大女優」、西島秀俊を「夢破れた人」と書いた「僕とスターの99日」のポスターが貼られていることを書き記しましたが、韓国紙は「キム・テヒ、日本の地下鉄駅を占領」と報道しました。

キム・テヒ、日本の地下鉄駅を占領

女優キム・テヒが日本の地下鉄駅を占領した。
最近日本の地下鉄駅にはキム・テヒの日本進出作となるフジテレビのドラマ
「僕とスターの99日」のポスターが掲出された。
(中央日報)抜粋
http://japanese.joins.com/article/657/144657.html?servcode=700§code=710

 

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私は本ブログで再三再四、TBSの偏向報道、韓流番組、在日採用枠、在日韓国・朝鮮人社員が反日を意図した報道などの問題を記事にしているので、「南極大陸」の高視聴率を喜びませんし、「南極大陸」でも問題が起きるかもしれません。

TBS開局60周年記念番組、木村拓哉主演の「南極大陸」の演出家は、福澤克雄という福澤諭吉の玄孫ですが、TBS開局55周年記念番組だった、木村拓哉主演の「華麗なる一族」でも演出家でした。

TBSが、2007年2月25日に放送したドラマ「華麗なる一族」の街頭新聞売りのシーンで、西日新聞(架空の新聞)の一面記事の中央には、「公明党も『非武装中立』」という見出しが載せられていました。

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フィクションのドラマで、新聞名も一面トップの爆発事故もフィクションなのに、なぜ、「公明党」という実在の政党名を登場させたのか?、公明党=創価学会ですから、TBSの学会員、在日韓国人の池田信者がやったとしか考えられません。

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↑ 第3回アメリカンフットボールW杯・07で、「韓国代表」のクォーターバックとして出場した18番の「金景敏」は、TBSテレビ編成制作本部スポーツ局勤務社員で、「在日が国家代表で出られるなんて一生に一度。こんな名誉はサッカーではありえないこと」と発言!

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↑ 2010年4月からの「水戸黄門」シリーズ「第3話」の監督は「金鐘守」TBS社員で、「学生生活で力を入れていたこと・・・最も力を入れたことは在日(コリアン)の居心地と風通しをよくすることを目的に設立したサークル活動」と発言!

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【就職】「在日は武器」 在日女子大生、面接で靖国や独島の質問答えてTBSに内定:
2007/01/10(水)(在日本大韓民国民団サイト)より

 

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TBS「南極大陸」は、初回平均視聴率22.2%、瞬間最高25.5%の好発進ですが、演出家の福澤克雄は開局55周年記念番組「華麗なる一族」でも演出家で、「公明党」を放送したスタッフが問題を起こすかもしれません。

良識ある日本国民の皆様、TBSについてご考慮下さい。

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転載元 転載元:  近野滋之・民族主義者の警鐘  

 

 

 


日本における近代資本主義の源泉 ~禅僧・鈴木正三

2011年10月18日 14時11分45秒 | 歴史
日本の近代資本主義が明治以後にあっという間に世界レベルまで構築されていったことの背景には、以前に紹介した国際派日本人養成講座からの転載記事『日本人のDNAには過去400年以上にわたる市場経済システムの経験が組み込まれている。』にも書きましたように、江戸時代にすでにその基礎となる市場経済の仕組みや、また商人達の信用を重視する商道ともいうべきものが確立されていたからでした。今回はその更に江戸のシステムの源泉ともいうべき思想です。


■1.日本の近代資本主義の源泉■

 西欧が2百年を費やした近代資本主義社会の構築を、日本がわずか百年足らずで成し遂げた原動力はどこにあったのか、の研究が、インド哲学・仏教研究の国際的な権威である中村元博士と経済学者の大野信三博士によって進められた。

 社会・経済学者マックス・ウェーバーは「西洋資本主義のシステムは、キリスト教の一宗派である清教の『どのような職業も神の召命である』とする職業倫理と、禁欲的・合理的な経済倫理によって支えられている」との学説を立て、これが広く受け入れられていた。

 そして両博士が、日本の近代資本主義の源泉として発見したのが、江戸時代初期の禅僧・鈴木正三(しょうさん)であった。



■2.なぜ他人と自己、生と死という対立があるのか■

 正三は天正7(1579)年、三河の国の足助(あすけ)庄の地侍の家に生まれた。信長が倒れる3年前であった。
少年時代に、近所のお寺で僧の講話を聞く事がほとんど唯一の学問だったようだ。

 天正18(1590)年、正三が12歳の年に、鈴木一党は家康の関東移封に従って、上総の塩子に移住した。

 ある日の夜もふけたころ、自宅の犬がしきりに吠えてい る。戸外に出てみると、別に変わったこともない。その時、 晴れた夜空を仰いで、正三はしみじみといった。

 一天平等にしてなんの差別もないのに、われわれ人間に は、なぜ他人と自己、生と死というようなことがあるのか。自己と他人との対立を超越し、生と死の対立を打破して、大自在の境地を得たい。その導きとなる教えは仏法をおいて他にはない。

■3.「衆生の恩」■

 しかし、正三は、俗世を離れて一人悟りを求める、というような生き方は選ばなかった。

 慶長5(1600)年、22歳の正三は初陣として、関ヶ原を目指して徳川秀忠の軍に加わった。さらに36歳の時には大坂冬の陣、翌年の夏の陣に参加した。この間、足助の庄の地に2百石を拝領する旗本に取り立てられた。秀忠軍の先陣として、白兵戦や鉄砲攻撃などの修羅場をくぐり抜け、軍功をたてたものと思われる。

 天下統一を果たすと、徳川幕府は元号を元和(げんな)と改めて、一国一城令、武家諸法度、禁中並公家諸法度、寺院諸法度などを制定し、平和な国づくりのための布石を次々と打っていった。

 この頃、正三は旗本として大坂城を警護する仕事についていたが、その自由時間に最初の著作『盲安杖』をまとめた。「盲人の安心のための杖」という意味である。これは、儒学を信奉する同僚から「仏法は世法に背く(仏法は隠遁などを奨励して世を良くすることにつながらない)」と言われたので、その反論としてまとめたものである。

 正三は、この中で天地の恩、師の恩、国王の恩、父母の恩と並んで「衆生の恩」もあると説いている。衆生の恩とは「農人の恩、諸職人の恩、衣類紡績の恩、商人の恩、一切の所作、互いに相助け合っている恩」と説明し、この事を理解して、諸人とわけへだてなくつき合うべきだと説いている。

 諸人が日常生活を営めるのも、農民が米を作ってくれたり、職人が衣服を作ってくれたり、商人がそれらを流通してくれるからであり、「一切の所作(すべての仕事)」が「互いに相助け合って」世の中が成り立っている、という考え方である。

 こうした「仏法」なら、世法を正しく導くものであろう。正三の志もそこにあった。この思想が世間を導けば、平和な社会が到来し、「他人と自己」「生と死」の対立という矛盾も和らいでいくだろう。

 この『盲安杖』は、徳川時代を通じて庶民大衆の修養の参考書としてかなり流布したという。

■4.「己をすてて大利に至る」■

 旗本として大坂城を警護するなどという仕事は、当時の社会にあってはエリートの地位であって、安楽な一生が保証されていた。しかし、正三の自らの思想がそれを許さなかった。第2代将軍・秀忠を中心とする江戸幕府が築きつつあった新しい平和な社会の建設に、自由な思想家として貢献していこうという志を抱いたのである。

 元和6(1620)年、正三は42歳にして、武士の身分を捨て、禅僧として出家した。正三研究の第一人者神谷満雄博士は、その動機について、こう述べている。

 それは今後、君恩に報いるための実践的な仏法興隆と、仏教倫理によって民衆を教化することを治国の基本におくという壮大な事業への参画・推進を生涯にわたる自らの「天職」として、実践していこうとする決意であった。

 幕府には、自らの出家を「曲事(まがこと)と思召めさば、御成敗あれ」と切腹覚悟で届け出た。それを聞いた老中が将軍に「ふと道心を起し候」と報告した所、秀忠は「それは道心というではない。隠居じゃまでよ」と答えた。「出家」でなく「隠居」とされたことによって、養子の重長が正三の跡目を継ぐことができた。

 秀忠は、関ヶ原以来20年も仕えてきた正三の人となりをよく知って、その出家の志を見通していたのかも知れない。

『盲安杖』には、「小利を捨てて大利にいたれ」という項目があり、「いたれる人は、誠のために身命をなげうって、名利にとどまらず、己をすてて大利に至る」と説いていた。正三はそれを実行したのである。

■5.士農工商のそれぞれの役割■

 この後、正三は大和の法隆寺など各地を巡り、高僧に教えを乞うたり、自らの思想を説いて回った。寛永8(1631)年、53歳の正三は紀州の熊野を訪れ、和歌山の加納氏邸で武士に法話を行い、求めに応じて『武士日用』を書いた。「日用」とは、「毎日使うもの」という意味で、武士としての生き方をさりげない形で説いた。

 これに続いて正三は、『農人日用』『職人日用』『商人日用』を書き上げ、あわせて『四民日用』とした。「士農工商」といえば、我々はすぐに身分差別制度と短絡してしまうが、正三は、それぞれが異なる社会的な役割を持って、社会を成り立たせていると考えた。『職人日用』には、以下の一節がある。

 鍛冶番匠をはじめとして、諸職人なくしては、世界の用いる所、調うべからず。武士なくして世治まるべからず。農人なくして世界の食物あるべからず。商人なくして世界の自由、成るべからず。

 鍛冶屋などの職人がいなくては、世の中は様々な道具を調えることができない。武士なくしては世の中の秩序が保てない。農民がいなくては食べ物が得られない。商人がいなくては、様ざまなものを自在に流通させることができない。こうして諸々の職業がお互いに助け合って、世の中が成り立っている、と。

■6.「何の事業もみな仏行なり」■

 四民が互いに助け合って世の中を支えている姿に、正三は「何の事業もみな仏行なり」として「仏行」そのものだと見なした。たとえば『農民日用』ではこう説いている。

 それ、農人と生を受けしことは天より授けたまわる世界養育の役人なり。さればこの身を一筋に天道に任せたてまつり、かりにも身のためを思わずして、まさに天道の奉公に農業をなし、五穀を作り出して仏陀神明を祭り、万民の命をたすけ、虫類などにいたるまで施すべしと大誓願をなして、ひと鍬ひと鍬に、南無阿弥陀仏、なむあみだ仏と唱え、一鎌一鎌に住して、他念なく農業をなさんには、田畑も清浄の地となり、五穀も清浄食となって、食する人、煩悩を消滅するの薬なるべし。

(農民と生まれたことは、天から任命されて世界を養う役人となるということである。したがって自分の身を一筋に天道に任せて、かりそめにも自分の事を考えず、天道への奉公として農業をなし、五穀を作って仏陀神明を祭り、万民の命を助け、虫類などに至るまで施しを行おうと大誓願をなして、一鍬入れる毎に、南無阿弥陀仏と仏を唱え、一鎌毎に心を入れて、一心に農業に勤しめば、田畑も清浄の地となり、五穀も清浄の食べ物となって、食べる人の煩悩を消滅させる薬になる。)

「仏行」とは、俗世間を出家した僧侶のみが行う宗教的行事ではなく、一般人が自らの仕事に打ち込む、その日常生活そのものにあるとした。

■7.商人の志■

 さらに、その「仏行」は世のため人のためでなく、自分自身に内在する仏性を引き出すための「修業」に他ならない、と。『商人日用』では、こう説いている。

 その身をなげうって、一筋に国土のため万民のためと思い入れて、自国のものを他国に移し、他国のものをわが国に持ち来りて・・・山々を越えて、身心を責め、大河小河を渡って心を清め、漫々たる海上に船をうかぶる時は、この身を捨てて念仏し、一生はただ浮世の旅なる事を観じて、一切執着を捨て、欲をはなれ商いせんには、諸天これを守護し、神明利生を施して、得利もすぐれ、福徳充満の人となる。

(その身を捧げて、一筋に国土のため万民のためと決心して、自国の物産を他国に売り、他国の物産をわが国に買い入れて・・・山々を越えて心身を鍛え、大河小河を渡って心を清め、満々たる海上に船を浮かべる時は、この身を思わずして念仏を唱え、一生はただ浮世の旅である事を悟って、一切の執着を捨て、欲を離れて商いをするには、諸天が商いを守護し、神の明らかな徳で助けてくれるので、利益もあがり、徳の豊かな人になる。)

 物を右から左に流すだけで利潤を得るなどと、蔑まれていた商人たちの中にも、これを読んで、自らの職業に励むことが、自己を高め、充実した人生への道だと知って、いよいよ事業に励む人も少なくなかったであろう。

 士農工商と職業こそ違えど、人はみな心中に仏性を持っているのであり、自らの職業に打ち込むことで、その仏性を開発し、世のため人のために尽くせる、という考え方は、人間はすべて平等である、という近代的な人間観につながっていた。

■8.「一筋に正直の道」」■

 商人にとって、商売に精進することが「仏行」であるとすれば、そこから得られる利潤をどう考えるのか? 武家上がりの正三は、剛毅果断にも次のように説いた。

 売買せん人は、まず得利の増すべき心づかいを修行すべし。その心づかいと言うは他の事にあらず。身命を天道になげうって、一筋に正直の道を学ぶべし。

(売買をしようとする人は、まず利益を増す心づかいを修業すべきである。その心づかいとはほかでもない。身命を天道に捧げて、一筋に正直の道を学ぶべきである。)

 商売が「仏行」である以上、まず利益が上がるように心づかいを学ぶべきだと言う。それも人を騙して利益を上げよう、と言うのではなく、「一筋に正直の道」を踏み外さずに利益を増すよう学ぶべきだ、という。

 現代でも耐震偽装やらで人を騙して巨利を上げた事件があったが、こうした輩があまりに多くては世の中が立ちゆかない。「一筋に正直の道」こそ、信用や契約など近代産業社会を支える基盤なのである。

■9.近代資本主義社会の構築を成し遂げた原動力■

 正三の主張は、わが国でもっとも早く商業利潤の倫理的正当性を説いたもので、これが約百年後に開花する石門心学に流れ込んで、「商人の利潤は武士の俸禄と同じく、正当な報酬である」と主張されるようになった。石門心学はその最盛期には、全国34藩に180カ所もの講舎が作られ、大々的にその教えを広めた。

 江戸期の商人や職人たちはこうした思想を学んで、自らの仕事が単に収入を得るための手段ではなく、自己を高め世の中に尽くす「道」であると考えることで、生き甲斐をもって日々の仕事に取り組む事ができた。さらにそれが「一筋に正直の道」でなければならないという教えは、約束を守る、信用を重んずる、など近代社会の基盤の確立につながった。

 ちなみに正三の同時代の宗教改革指導者ジャン・カルヴァンは、職業を神から与えられたものであるとし、商業利潤を認めて、中小商工業者から多くの支持を得ていた。近代商工業の思想的幕開けは、西欧と日本とでほぼ同時期に起こった。

 西欧諸国が2百年を費やした近代資本主義社会の構築を、明治以降の日本がわずか百年足らずで成し遂げた原動力は、正三の思想から生じたのである。

国際派日本人養成講座より

続き 楠木正成公 「湊川の戦い」  「七生報国」の誓い

2011年10月18日 03時39分49秒 | 歴史

サイタニのブログからの転載です。楠木正成公のお話を三回分まとめて転載しました。これで完結です。

 

 

 「湊川の戦い」

 
正行(まさつら)の姿が見えなくなると、正成(まさしげ)は軍勢を率い、兵庫へと
向かいました。
兵庫に着くと、先に兵庫に着いていた新田義貞(にったよしさだ)と対面しました。
ここしばらく、敵の城を落とせず気持ちの沈んでいる義貞を見て、正成は言い
ました。
 
「新田殿、鎌倉の北条氏を滅ぼしたのは、あなたではありませぬか。戦の
わからぬ者達の言うことなど、お気になさることはありませぬ!」
正成の力強い励ましに、義貞の心も次第に晴れていきました。酒をくみかわし、
共に語り、和やかな一夜でありました。しかし、これが義貞との最後の対面と
なりました。
 
激戦、湊川の戦いは、もう目前に迫っていたのです。
 
朝焼けの紅が次々変化する美しい暁の空を、正成は神戸湊川の陣から、
じっと見つめておりました。澄み渡る大気…。延元元年(一三三六年)五月
二十五日。決戦の朝でありました。
 
午前八時、渺々(びょうびょう)とした海の彼方の水平線に、おびただしい数の
船が現れました。足利尊氏(あしかがたかうじ)が九州四国勢の大軍を率い、
攻めのぼって来たのです。兄の足利尊氏が海から海軍を率い、尊氏の弟の
足利直義(あしかがただよし)が陸路から大軍を率いて、海と陸の両方から
攻めて来たのです。
 
尊氏を大将とする海軍を新田義貞軍が、尊氏の弟直義を大将とする陸軍を
楠木軍が迎え撃つこととなりました。正成は、五十万とも言われる直義軍に、
わずか七百騎の楠木一族の兵だけで当たることを決めたのです。
 
午前十時、天地に轟く鬨の声が両軍から上がりました。いよいよ戦いの始まりです
。尊氏軍の内七百隻が上陸しようと東へ船を進めました。和田岬で陣を張って
いた新田義貞軍は、上陸させまいと船を追って浜東へ走りました。途中、
義貞は正成の陣と離れてしまったことに気づき、
 
「しまった!」
と唇をかみました。義貞と正成の陣の間に残りの敵船が上陸して来たら、
正成は前と後ろに敵を受けることとなってしまいます。
 
案の定、がら空きになった和田岬から敵兵が続々と上陸してしまったのです。
義貞は尊氏軍をくい止めようと必死に戦いましたが、力及ばず、総崩れとなって
しまったのでした。
一方、前に足利直義の軍、後ろに足利尊氏の軍と、前後の敵に挟まれることと
なった楠木軍では、正成が命を下しました。
 
「敵に前後を遮られ、もはや逃れる術はない。まず前の敵、直義軍を追い散らす
!いくぞー!」
「オオー!」

「楠木軍は一丸となって直義軍に突撃しました。」
 
直義軍は、菊水の旗を幾筋もなびかせて突撃して来る楠木軍に浮き足立ちました
。足利軍全体が最も恐れたのは楠木正成だったのです。以前の赤坂城、千早城
での戦は、あまりにも有名でした。直義軍は五十万という大軍でありながら、
すっかり陣形を乱してしまったのです。その中に、まるで矢の様に攻め込んで来た
楠木軍は直義軍をさんざんけ散らし、大きな痛手を与えると、……

・・・・・・・・・・・

「皆の者、最後の決戦じゃ!我らは、日本の国の真の安泰を願われる 
帝(みかど)のため、命を賭して戦う!今こそ、楠木一族の志を天に向かって
掲(かか)げようぞ…!」
楠木軍七百騎の兵達は、正成と一つ心でありました。もはや、生きて帰ろうと
思う者はありません。一人一人の兵の胸には、烈々たる炎が燃えておりました
いよいよ最後の決戦の時が迫っていました。
 
 
続く
 
                                   
 
 「七生報国」の誓い  前編
 
天空に翻る幾筋もの菊水の旗…。楠木正成と足利軍との湊川での戦いは、
決戦の時を迎えようとしていました。正成が命を下しました。
 
「目指すは、陸手の大将、足利直義ただ一人!いくぞー!」
「オオー!」
 
楠木軍は一直線に足利直義の軍に突っ込んでゆきました。
足利軍五十万に対し楠木軍わずか七百。けれど正成は兵を三隊に分け、
正面、側面と機に応じて攻撃を仕かけました。縦横無尽な攻撃は次々足利軍を
打ち破り、ついに陸手の大将足利直義に迫りました。直義は慌てました。
 
「まさか…あの小勢でここまで攻め込んで来るとは…正成、恐るべし…!」
「殿!早く馬へ!」
 
ところが退却する途中、直義の馬が矢尻を踏み走れなくなってしまいます。
遥か後方、全力で追って来た楠木軍が、直義を見つけました。

「足利直義だ!」「おう!前方におわすは直義殿と見つけたりー!」
楠木軍は土煙を巻き上げながら、あっという間に、直義まであと十メートルと
迫りました。
「直義殿、お覚悟ー!」

直義は、顔から血の気が引くのを感じました。
その時です。足利軍の武者が馬から飛び降り、大薙刀(おおなぎなた)をブルン
ブルンと振り回して、楠木軍の馬を次々なぎ倒してしまいました。楠木軍の
勢いが止まった、そのわずかな間に、直義は馬を乗りかえ、走り去って
しまったのです。
 
「直義殿!敵に後ろを見せるとは卑怯なりー!」
楠木軍は、地団駄ふんでくやしがりました。
正成が唇をかみしめて言いました。
「無念じゃが、いたし方あるまい…」
「何の!兄者、今一度…。」
 
正李が言いかけた時、地をゆるがす地響きと叫び声が聞こえて来ました。
直義が危ないことを知った足利尊氏が、六千騎の援軍を送り出して来たのです。
 
じっと大軍が迫る彼方を見ていた正成は正李と目を合わせ、ゆっくりと頷きました
。ー最後の決戦の時でありましたー
 
正成は太刀を抜き天に向かってかざしました。
「最期の決戦ぞ!我らは、国の真の安泰を願われる 帝のため、命を賭して
戦う!今こそ、我らが正しいと信じた志を天に向かって真っ直ぐに立てる時…!
いくぞー!」
「ウワァー!」
 
楠木軍は、刃の様に六千騎を突き破ってゆきました。しかし、後方には
直義の大軍…。
 
正成も正李も矢衾(やぶすま)の中、太刀を振い、時に敵の武将と組んで馬から
転げ落ちました。楠木軍の激突は十六度に及び、正成と正李は七度会い、
七度別れました。正に奮迅決死の戦いでありました。

完  「七生報国」の誓い  後編
 
夕日が西の空を赤く染め始めた頃、正成は楠木軍を集めると、林の奥の空家に
入りました。楠木軍は、七十三名にまで減っていました。
 
「皆よう戦ってくれた…もはやこれまでじや。」
部屋の中に二列に並び、皆で念仏を唱えました。
 
その時、一人の男が駆けつけて来たのです。
「某(それがし)、菊地武吉(きくちたけよし)と申す者。兄、菊地武重(たけしげ)に
正成殿のご様子を見て参るよう、言いつかって参りました。」
 
正成が家の戸を開けました。
「何と…敵陣の中を、よくぞここまで…!」
 
菊地武重、武吉兄弟は、鎌倉幕府を倒す戦で討死にした菊地武時の息子です。
父の菊地武時は、周りの武将が 天皇側から幕府側に寝返った時、ただ一人
天皇側について最後まで幕府軍と闘いぬき、討死にした勇猛果敢な武将です。
建武中興の時、正成が討死にした菊地武時を、帝の一番の忠臣だと皆の前で
言ったので、菊地一族の功績は武将達をはじめ、後醍醐天皇の知るところと
なったのでした。
 
今回の湊川の戦で新田義貞についていた息子の菊地武重が、孤立した正成を
心配し、弟の武吉を遣わしたのです。正成が言いました。
「我ら楠木七十三名ただ今より自刃(切腹)いたすところじゃ。兄上の武重殿に
呉々も宜しく伝えて下され。痛み入るお心遣い、正成が心より感謝申していたと
…義の志(こころざし)厚いそなたの父上と、生前一度お会いしたいもので
あった。…武吉殿、呉々もお気をつけて帰られよ…」
 
正成が家に入ると、武吉は部下に言いした。
「正成殿の…何と涼やかなお顔であろう…お前は急ぎ帰り、兄上に正成殿
今の言葉を伝えよ。私は…ここに残る…正成殿のお陰で、わが菊地一族
どれ程栄誉を賜ったことか…その正成殿が自刃する場に望み、どうして
私一人が正成殿を見捨て、おめおめ生きて帰れよう…!」
武吉の眼から大粒の涙がこぼれ落ちました。
 
「正成殿!菊地武吉、お供仕る!」
武吉は家に火を放ち、家の前で自刃したのです。
家の中では、楠木の者達が次々自裁(切腹)していきました。
正成の胸の内には、これまでの様々なことが思い出されては消えました。
最後に正成は、弟の正李と向かい合いました。
 
「お前と刺し違えるという…約束であったな。」
「正李…人間は死ぬ前の最後の一念が大事だという…今、お前は何を思っている…」
「兄者、わしの今の願いはな…七回までも、ただ同じ人間界に生まれ
変わって、朝敵(帝の敵)を滅ばしたいということじゃ!」
 
その言葉に正成も心から嬉しそうに笑いました。
「わしも全く同じじゃ。朝敵を滅ぼし、真に平和な世の中となるよう力を
尽くしたいものじゃ。」

「再び二人で、帝のため国のため力を尽くそうではないか!兄者、約束じゃぞ。」
「正李…約束ではない。これは…誓いじゃ…!」
正成と正李は、がっしりと腕を組み合いました。
「正李…さらばじゃ。それぞれ七度までも生まれ変わって、この志を貫こうぞ…!」
 
二人の目がピタリと相まみえたのと、二人の刃が互いの胸を貫いたのは、
ほとんど同時でありました。

 
正成の死は、一つの時代の終わりを示していました。
 
しかし、
正成兄弟が最後に残した誓いは、後に「七生報国(しちしょうほうこく)」
(七度生まれ変って国のために尽くす)と呼ばれ、この「七生報国」の
志は、時を超えて、その後の歴史に大きな影響を与えることとなったのです
(完) 楠木正成
 
 
楠木正成
後藤久子著より抜粋
 
 
 
 
 
 
 

転載元 転載元:サイタニのブログ