前回の記事を書いている時に、たまたま検索で、松浦光修氏の講演筆記を見付けました。今上陛下が日本の敗戦の年の11歳の時から、今に至るまで、皇室破壊の勢力とずっと戦われておられるという話が書いてありました。感銘をうけたので、最後のほうを少し引用させていただくことにします。
引用開始
「醜の御盾」として
なぜ今上陛下は、昭和六十一年という御代替わりが近いことが予感される時にあって、あえて「後奈良天皇」のお話をされたのか?
それは多分「あるいは自分も、大嘗祭を行うことができないかもしれない。しかし、それでも私は後奈良天皇のように、民を思う心は失わないつもりである」という、悲壮なご覚悟を示されたものだったのではないでしょうか。
結果的に大嘗祭は民間の心あ る人々の熱烈な運動の甲斐もあって、辛うじて行うことができ、そのことを陛下もお喜びであったといいます。
しかしその前の昭和天皇のお葬式である、「葬場殿の儀」の時は、鳥居と真榊が設置されたものの、国家儀式の「大葬の礼」では、左翼政党が「憲法」に抵触す ると騒ぐので、その時だけ鳥居が撤去される実にみっともない無礼な儀式になってしまいまして、私などは記憶に新しいとこです。
沖縄でのテロ事件では身体を張って先の大戦の悲しみを背負う県民の心の傷を癒され、大嘗祭では左翼勢力の妨害に伝統を守ろうとされつつ、それをできないこ とも覚悟されたのです。これらの「戦い」はほんの一端にすぎませんが、私たちは改めて陛下が、実は「戦後」という時代とずっと戦ってこられたことを、深く 心に刻んでおかなくてはならないと思います。
もっとも「戦い」続けていらっしゃるのは皇后陛下も同じです。皇后陛下はマスコミの根も葉もない残酷な「皇后様バッシング」も受け続けられ、ご心労のあまり、平成五年のお誕生日、十月二十日の朝、突然お倒れになられています。
ちなみにその「皇后様バッシング」をリードしていた雑誌が、そのころの『週間文春』ですが、その背景について、私の友人の八木秀次さんはこう語っています。
『WILL』は創刊当初から、加瀬英明さん(外交評論家)の皇太子殿下批判などを 展開してきた雑誌です。花田紀凱編集長は『週間文春』(文藝春秋)編集 長時代、両 陛下の批判を繰り広げ、結果として皇后陛下を失語症に追い込んだ人です。今また 皇太子殿下に対して、同じ轍を踏まなければよいのですが。
(武田恒泰・八木秀次 『皇統保守』[平成二十二年PHP研究所])
かつて『週刊文春』で皇后様バッシングを続けていた編集長と、同じ人が今度は違う雑誌の編集長となり、近年、西尾幹二氏、橋本明氏などの筆を通じて「雅子 様バッシング」ひいては「皇太子様バッシング」を繰り返していたことは、皆様ご存知のとおりです。そのことについて私は『正論』の本年の十月号で徹底的に かなり厳しく批判させていただきました。
なぜか、それ以後ピタリとその類の記事がその雑誌から消えました。私としては懸命に書いた甲斐もあったというもので、喜ばしい限りです。しかしかつての「皇后様バッシング」もそれはひどいものでした。
それがとうとう皇后陛下のお声を奪ったのです。今から考えると、なぜあれだけ徳の高い皇后陛下が、あれだけひどい誹謗中傷にさらされなければならなかった のか、と不思議に思う方もいるでしょうが、当時はそれを阻止しようとする言論は全くではないですが、あまりなかったのです。
お気の毒に皇后陛下は、翌平成六年になってもお声が戻りませんでしたが、その年の二月十二日、硫黄島の慰霊の旅の途中、硫黄島・基地庁舎の中で戦没者の遺族を御接見されている途中、東京都遺族連合会会長に、突如お声を発されます。こういうお言葉でした。
「ご遺族の方たちは、みなさん、お元気でお過ごしですか」
それがご回復後の第一声でした。場所が場所で、場面が場面です。
硫黄島の灼熱地獄のなか、勇敢に戦い散華していった英霊たちは、皇后様の慰霊で救われたのではないでしょうか。魂を救う者のみが魂を救われる、ということがここで起こったのではないでしょうか。
これはなんとも神秘的で、劇的な出来事というほかありません。
ともあれ、天皇陛下も皇后陛下も「戦後」という時代と立ち向かい、傷つきながらも堂々と戦っていらっしゃる。ご即位以来二十年間、どれほどお苦しみとご心労を乗り越えていらっしゃったか、私どもには想像もつきません。
私たちも国民の一人として、せめて何らかのお力になるべきでしょう。陛下にまるで石を投げつけるような人々から私自身はたとえ貧弱なものであっても「盾」になりたい、と思っています。
『万葉集』にある「今日よりは顧みなくて大君の醜の御盾と出で立つ我は」のあの「盾」です。そのような思いで私はこの十年ほど、ささやかなながらも、左翼 教師集団・日教組と、あるいは易姓革命・共産党革命を導くことになる「女系天皇」を唱える、いわば亡国勢力と言論で必死の戦いを続けて参りました。
しかし、私個人としては、それなりに多少の敵は倒してきたつもりですが、日本全体からすれば残念ながらあまりにも微力です。
そして日本は今、ずるずると崩壊への下り坂を、特に民主党政権になってからは速度を増しつつ転がり落ち始めています。
私たちの使命
そのような現状で私たちは何をすべきか?最後に「私たちの使命」についてお話します。一言で言えば「ご聖徳」をありがたがってばかりいて、それで終わっていていいのか、ということです。
幕末の志士たちは陛下の御心に応えて立ち上がり、日本の危機を救いました。日清、日露、大東亜戦争などで散華した英霊たちは、この世に二つとない自らの命 をささげて、祖国日本をお護りくださいました。ありがたがって、それで終わりでは、私たちは先人に対してあまりに申し訳ないのではないか、と思うのです。
私は皆さんに「大きな事をしてください」などと、いうつもりはありませんし、その資格もありません。
けれども身近なところでいくらでも私たちは、両陛下の「楯」としてささやかな働きができるのではないでしょうか。
皇室をめぐることだけでも、様々な懸念が生じています。第一に「女系天皇」を唱える人々が再び息を吹き返してきている、ということです。
八木秀次さんが、平成二十一年十一月号の『正論』に書いているところによりますと、宮内庁は今年はじめから非公式に「女系天皇」容認のための勉強会を発足 させ、「女系容認」の学者を呼んでいるそうです。「女系容認」の人々は「事務方の政府高官と宮内庁筋」と結託して、「陛下のありもしないご下問を持ち出し 『大御心』を捏造」するというという、不敬きわまりないことまでしているようで、詳しくはその八木さんの文章をお読みください。
改めて申しあげますが、「女系天皇」は神武天皇以来、つまり建国以来、一貫して男系で継承されてきた皇室の伝統を破壊するものであり、「女性宮家」は、そ の「女系天皇」への道を開くものであり、いずれも絶対に容認できるものではありません。旧宮家の神武天皇の、男系男子の血統を引く方が皇籍に復帰していた だき、そこにできれば、今の女王様が嫁いでいただく、これが伝統に即して皇位継承の危機を乗り切る唯一の方法です。
すでに継体天皇のときなどに、その例があります。もしも「女系天皇」が擁立されたら、それは「革命」を意味し「万世一系の皇統」が断絶したことを意味します。
こればかりではありません。岡田克也外務大臣は去る十月二十三日の閣僚懇談会で、国会開会式の陛下のお言葉について「陛下の思いが少しは入ったお言葉がい ただけるような工夫を考えてほしい」と、不敬極まりない発言をしています。さらに、ご即位二十年の十一月十二日を「臨時祝日」にすることも、民主党の反対 で実現せず、さらにはこの年末にいたって、ご存知の通り、とんでもない不敬極まりない事件が起きています。
民主党の小沢一郎幹事長は、国会の延長を最小限にとどめて、百四十三名の民主党国会議員を中心とする総勢数百人の訪問団をひきつれて、中華人民共和国を訪 問していますが、その頃平野官房長官は十二月七日と十日(小沢、胡錦濤会談の日)に、宮内庁に電話をかけ、胡錦濤国家主席の後継者と目される習近平が十四 日から来日するのにあわせて天皇陛下との会見をセットせよ、と宮内庁に命令しています。
来日の五日まえです。
ふつう陛下との会見は少なくとも一ヶ月前に申し込むのがルールとなっているのに、権力に任せてまことに無礼と僭越のきわみの政府命令を民主党政権は出しています。
増長するのにもほどがあります。私は、はらわたが煮えくりかえりました。『週間文春』によると、両陛下は昭和天皇の御代から大切にされてきた、あらゆる国のその立場にある人に、公平にわけへだてなくお会いするということが、簡単にないがしろにされたと仰ったそうです。
これは明らかに政府が皇室を対シナ土下座外交に政治利用・・・というより私的利用しているとしか見えません。習近平は、ウイグル弾圧の中心人物。十二月十 五日、その汚れた手で、陛下の手を握ったのです。十五日は、賢所の御神楽奉納の聖なる日でした。それにぶつけてきた、としか思えません。いったい民主党の 首脳部の人々の心の中は本当に「日本人」なのでしょうか。彼らの心の中はもしかしたら、もうすっかり「外国人」なのではないでしょうか。
少なくとも私には彼らは平成の蘇我、平成の道鏡、平成の足利、平成のコミンテルンにしか見えません。一言で言えば民主党はもう明らかに「朝敵」になっている、といっていいと思います。
「ご聖徳」を仰ぐ心があるなら、次はそれにお応えしようとする気力をふり絞らなくてはなりません。一人一人の心にその気力が満ち、行動につながる時、ようやく日本の「再生」への重い歯車は、少しずつ回り始めるのではないかと思います。
歴史上のその具体例を挙げておきましょう。孝明天皇の御製と伝えられるものに、次のようなものがあります。
孝明天皇の御製
戈とりてまもれ宮人ここのへの みはしのさくら風そよぐなり
歌の意味はこうです。「さあ、宮中の者たちよ、武器をとって、守りをかためなさい。御所の端の桜には風が吹きつけ、今にも散りそうであるが、今の日本の状況は、それくらい危ういのであるから」。
おそらく、この御製への「返し歌」として、宮部鼎蔵の和歌は詠まれたのであろうと思います。宮部鼎蔵は熊本藩の志士です。幕末の志士・吉田松陰を知らない人はいないと思いますが、宮部鼎蔵はその親友で、のちに池田屋で新撰組に襲われ、四十四歳で殉難しています。
宮部鼎蔵の和歌はこうです
いざこども馬に鞍置け九重の みはしのさくらちらぬその間に
歌の意味はこうです。
「さあ子供たちよ(この「こども」というのは、天皇の「赤子」つまり「国民よ」という意味でしょう)出陣のときがきた。馬に鞍を置け。早くしないと、皇居の端の桜が、散ってしまうぞ。それからでは遅すぎるのだから」
人間は、いつの時代も公私ともにさまざまな問題や課題を抱えながら生きています。それは幕末の志士たちも同じです。
けれども多くの人々は何を最優先にしなければならないのか、ということを忘れて、うかうかと人生を過ごしてしまいがちです。志士たちは、自分は何を最優先にすべきか、と考えてその一点のために自らの人生を燃やしつくしました。
私たちも、公私共に多忙な毎日ですが、時に心を沈めて「私は私の残りの人生で、何を最優先に実現したいのか、そのためには明日からどう生きるのか・・・」としばし立ち止まってゆっくり考えてみることも必要なのではないでしょうか。
本日のお話が、皆さんにとってその「きっかけ」となれば幸いです。
引用終わり