小さな自然、その他いろいろ

身近で見つけた野鳥や虫などを紹介します。
ほかにもいろいろ発見したこと、気づいたことなど。

天皇陛下とわたしたち

2011年10月25日 22時14分11秒 | 無題

さくらの花びらの「日本人よ、誇りを持とう」からの転載です。天皇皇后両陛下が、いろんなところを訪問されてお声を掛けられる様子は、ほんとに思いやりの誠実さに富んでいいる気がします。相手のことを心から思われている気がします。だからお話しした人は涙を流しているのでしょう。公平とか無私とかいう言葉が、空論ではなく、ほんとに形に現れて実現した様を見るときには、感動が湧いてきます。天皇皇后両陛下は、そのようなお方である気がします。

 

転載開始

 

かつてプロのサッカーチームの選手として活躍した京谷和幸さん。 
とても期待された選手でしたが、そんな京谷さんに悲劇が訪れます。 
 
京谷さんが車を運転中、脇から飛び出してきた車を避けようとして電柱に正面衝突するという
大事故に遭い、足がピクリとも動かなくなってしまいました。 
子供の頃からサッカー一筋に打ち込んできた京谷さんにとって、 
これは受け入れがたいものでした。 
入院中の病室で一晩中一人で泣くこともあったそうです。 
しかし、京谷さんは決してあきらめませんでした。 
懸命にリハビリに励み、やがて「車いすバスケット」と出会います。
車いすバスケットとは、文字通り車いすに乗りながらバスケットをするスポーツですが、
最初はコートを十周走るだけで腕がパンパンに腫れあがったそうです。
それでも京谷さんは真剣に車いすバスケに取り組みます。
そして、事故から6年半後、シドニーで開催されたパラリンピックで日本代表入りを果たすのです。
現在、仕事、車いすバスケの練習、そして講演と積極的に活動している京谷さん。
 
イメージ 1
・・・
 
パラリンピックが日本で初めて開催されたのは、昭和39年の東京パラリンピックでした。
当時パラリンピックは世界的に注目を集めていたとはいえず、
まして日本では障害者スポーツ自体、全く知られていませんでした。
そのような中、パラリンピック会場を回られ、選手たちを激励されたのが
皇太子同妃両殿下(現・天皇皇后両陛下)でした。
皇太子殿下は、日本でまだまだ障害者スポーツが受け入れられていないことに御心を痛められ、
「このような大会を、国内でも毎年行ってもらいたいと思います」とお述べになりました。
このお言葉がきっかけとなり、昭和40年から毎年、国民体育大会に合わせて、
「身体障害者スポーツ大会」が開催されることになったのです。
皇太子同妃両殿下は毎年この大会にご出席され、練習場所のご心配もされるなど、
常に選手たちを励まされ支援され続けました。
そして、障害者に対する社会全体の意識も少しづつ変わり始め、
今まで施設に閉じこもりがちだった障害者が外に出てスポーツに取り組むようになり、
「障害があってもやればできる」という勇気と自信を持てるようになっていきました。
 
平成6年、
天皇皇后両陛下は「重症心身障害児(者)を守る会」創立三十周年記念大会にご臨席されました。
その際、大会参加者とその家族にねぎらいと激励のお言葉をかけられました。
皇后陛下は手袋をお外しになり、優しく子供たちの手を取られました。
 
会長の北浦正子さんはこの時のことを次のように述べています。
「施設のみんなはすごく感激していました。いつもは意思疎通が難しい子供の表情も和らぎ、
微笑みが浮かんだんです。子供のみならず、手を取ってお言葉をかけられた人は、もう忘れられません。
特に重症心身障害児、社会の谷間でひっそりと生きてきましたから。
子供たちを育ててきたお母さん方にしてみれば、その子供たちを両陛下が温かく見守って下さることが、
とてもうれしく、みんな涙を流していました」
(「天皇陛下を我が町に」より)
  
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両陛下は今でも地方をご視察されるときには、福祉施設をご訪問され、
障害者や関係者の話を真剣にお聞きになり、お励ましのお言葉をかけてゆかれます。
そのような両陛下のお陰で、障害者やその関係者の心は救われ明るくなっていきました。
また、それまで、どちらかというと人を寄せ付けないような暗い雰囲気だった障害者施設も、
両陛下のご訪問をきっかけにして新しく整備されるなど、障害者を取り巻く環境も今では随分変わりました。
 
日本身体障害者団体連合会会長の小川榮一さんはこう語っています。
「障害者に対する理解が進まず、胸の痛む思いをしてきましたが、
そんな私どもを一貫して支えて下さったのが天皇皇后両陛下でございました。
正確に申し上げれば、両陛下のお陰で障害者施設が大きく前進したといっても過言ではありません。
・・・・ハンディがあっても国民の一人として尊重して下さり、
障害者とその家族・関係者に勇気と自信を与えて下さっている皇室こそ、
日本の素晴らしい国柄を代表されていると思っております」
 
 
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・・・・・・・・・・・・・・・・・
 
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転載元 転載元: さくらの花びらの「日本人よ、誇りを持とう」



 


日本人よありがとう

2011年10月25日 17時42分34秒 | 歴史

美しい国からの転載です。この記事は過去記事の投稿ということです。このブログでもその時に転載したかも知れませんが、このマレーシアの上院議員は戦前の日本を知っていて、その過去の日本と戦後の日本を比べて書いておられる詩ですから、私たちは謙虚に耳を傾けて、今の自分達の姿を反省するべきです。

この方はかつて日本は清らかで美しかったと言われています。自分たちの歴史と伝統に誇りをもって、そして亜細亜を何とかしたいと同じアジア人の意識を持って戦った日本人を美しいと言ってくださっています。

私たちの習った歴史と、こうした、東南アジアや南アジアの国々の方々の持つ日本のイメージがあまりに違うことに、日本人は気付こうとしません。侵略戦争と教えられて、信じ込んだままの日本が、ペコペコと謝る姿は、こうした国の方々には、何か見苦しく、堕ちた日本、経済繁栄のみ重視する我欲の塊のような情けない姿に映るようです。戦前の日本の美しさに憧れた人々には特にその思いが悔しさをもって感じられるのでしょう。

 

 

マレーシアの元上院議員が書いた詩の一部です。
みなさんは、どんなことを感じるだろう。
他の国から
こんな風に見られているなんて…

戦争を起したあの頃の日本人を否定する今がある。
しかし、他所の国の方々は、あの頃の日本人の方が
清らかで心美しかったと書いているのだ。
重く受け入れなければいけません。
 
ご来訪の皆様、どう思われるでしょうか?



  

ラジャー・ダト・ノンチック

(南方特別留学生、ASCOJA初代会長、元上院・下院議員、ASEAN設立)





日本人よありがとう

 


 
かつて 日本人は
清らかで美しかった
かつて 日本人は
親切でこころ豊かだった
アジアのどの国の誰にでも
自分のことのように
一生懸命つくしてくれた

*

 
何千万人もの 人のなかには
少しは 変な人もいたし
おこりんぼや わがままな人もいた
自分の考えを おしつけて
いばってばかりいる人だって
いなかったわけじゃない
 *

 
でも その頃の日本人は
そんな少しの いやなことや
不愉快さを越えて
おおらかで まじめで
希望に満ち明るかった
 

 
戦後の日本人は
自分たち日本人のことを
悪者だと思い込まされた
学校でも ジャーナリズムも
そうだとしか教えなかったから
まじめに
自分たちの父祖や先輩は
悪いことばかりした残虐無情な
ひどい人たちだったと 思っているようだ
 *

 
だからアジアの国に行ったら
ひたすら ペコペコあやまって
私たちはそんなことはいたしませんと
言えばよいと思っている
 *

 
そのくせ 経済力がついてきて
技術が向上してくると
自分の国や自分までが
えらいと思うようになってきて
うわべや 口先では
済まなかった悪かったと言いながら
ひとりよがりの
自分本位の えらそうな態度をする
そんな
今の日本人が 心配だ
 

 
本当に どうなっちまったんだろう
日本人は そんなはずじゃなかったのに
本当の日本人を知っているわたしたちは
今は いつも 歯がゆくて
くやしい思いがする
 *

 
自分のことや
自分の会社の利益ばかり考えて
こせこせと
身勝手な行動ばかりしている
ヒョロヒョロの日本人は
これが本当の日本人なのだろうか
 *

 
自分たちだけで 集まっては
自分たちだけの 楽しみや
ぜいたくに ふけりながら
自分がお世話になって住んでいる
自分の会社が仕事をしている
その国と 国民のことを
さげすんだ眼でみたり
バカにする
 

 
こんな ひとたちと
本当に仲よくしてゆけるだろうか
どうして
どうして日本人は
こんなになってしまったんだ
1989年
クアラルンプールにて
ラジャー・ダト・ノンチック

(土生良樹氏著『日本人よありがとう-マレーシアはこうして独立した』)より) 
2010年11月2日に投稿した記事の再投稿記事です。
 
 
 

転載元 転載元: 美しい国

 

 

 


ミシマ自刃による、フランスの戦慄

2011年10月25日 02時48分42秒 | 無題

竹本忠雄先生の『パリ憂国忌』の文章から引用しました。三島由紀夫自刃から十年後くらいに出版された本です。一部、文章を書き直したり省略をしています。戦後の日本が進歩的文化人達によって、どういう姿勢で文化が発信されようとしていたかがよく分かります。

それにしても、この日本的なるものを、隠そうとする姿勢には驚くばかりです。敗戦による占領統治が、ここまで、日本人に日本的であることを嫌悪させるようになっていたことが、ショックですね。いまではこれほどではないでしょうが、武道も禅も、もうそれは古い日本で、そういう伝統的な文化は日本人の中の何かをよみがえらせるかもしれないと恐れたのでしょうか。そうしたものを切り捨てて、新しい日本は欧米的な文化のみを発展させようとしたのでしょう。自分の個性を否定する国民となった日本、何か痛ましい思いが強いですね。たしかに三島自刃があってから、このタブーが少しづつなくなってきた気がします。

 

 一九七〇年十一月十二日、パリにいた私は一個の小包を受け取った。差出人は
三島由紀夫……
私は、三島由紀夫と出会ったことがなかった。いぶかしい思いで包みを解くと、華麗な箱入りの『豊饒の海』三冊が現れた。三冊とも「竹本忠雄様  三島由紀夫」と雄勁な筆致で献辞が入れられていた。

私は、感想でも書き送らねば申し訳ないと、一日延ばしに返事を怠っていたところ、二週間後に、日本大使館から電話がかかった。電話は三島由紀夫の自刃を知 らせてきて、フランスのジャーナリストが殺到して、大使館としては当事件にコメントする立場に無いので、竹本さんを紹介してもいいですかというのである。

私はフランスに住んで七年、常に日本の立場で、発言してきた。文化の「交流」なるものは、決して見かけほどには、優雅でも生やさしいものでもなく、時と場 合によっては「交戦」の様相をさえ呈しうるものである。事は、文化の優雅ではなく、武の果断に関わっている。事件の真相は窺うべくもなかったが、そこに 「暴力」を感じとったが最後呈されるであろうこの国の良識家の批難攻撃は、潮の遠鳴りにも似て、不安な矢ぶすまの音を遠く響かしめている。私は、自分が危 い一線に立っていると感じた。

しかし、ためらいはなかった。のみならず、昂揚の気持ちが涌然として身うちに興りつつあるのを感じた。
死を決した人が、その死の決行に先んじて、わざわざ航空便で畢生の大作を一面識もない異国の日本人に送りよこしたということは、なにごとかそこに託したい念願があったればこそではなかろうか?
「分かりました……」
と、思わず答えていた。


三島由紀夫の自決の知らせを聞いて、パリで見た反応の第一は日本人画家たちだった。その中の一人の言葉は、私の胸に太釘を打ち込んだようなショックを残した。
「なんという破廉恥なことをしてくれたもんだ!」と吐き出すように言った。
「これからは、もう恥ずかしくって、フランス人と顔を合わせる事もできやしない……『豊饒の海』なんか、ありがたがって読んでいたけど、今夜、セーヌ川に持っていって、どんぶりこと捨ててしまうんだ!」

その後、もっと知的なパリ派の日本人の何人かが、「三島」の名を聞くたびに露骨に示した嫌悪の情は、けっして、この「どんぶり氏」に劣るものでもなかった。

フランス側からの反応で最初に見たのは、「ル・モンド」紙のニュースだった。
「失敗したクーデター」という見方が大半だった。「これを機会に日本の右翼が台頭してくることが恐れられている」との結語は、おそらく日本のマスコミの反応をコピーしたものであろう。

「気でも狂ったか」という佐藤首相の言葉も引用され、以後、三島事件が論じられるたびに繰り返され、事件に対する日本の世俗的見方の代表格として印象づけられていった。

そのうち日本からの詳細が届くにつれ、予想された以上に批判、ときには悪態に近い批難が、いかに世上に満ちみちているかを知った。「平和日本」の「茶の間 の良識」なるものを否応なしに感じさせられた。切腹によって終結したクーデターなるものは、つまるところ「グロテスク」であり「アナクロニズムの極致」で あるというのが、要するにそれら石打つ人々の嘲笑の的であるように思われた。

まして、十分な事情を知らぬ一般のフランス人のあいだで、この出来事が、当初、なによりもまず「ファナティックな暴力」として受けとられたとしても、まっ たく致し方のない反応というべきであったろう。そして程無く、私は全フランス注視の公開テレビ番組で、真っ向からこうした反撃に立ち向う立場に置かれた。

事件後何日目かのことだった。フランス国営テレビから電話が鳴った。毎週のレギュラー番組「文芸討論会」でミシマを取り上げたいから出席してくれというのだった。

放送当夜、私は風邪で高熱を出し、参加は諦めることにしたが、スタジオ入り三〇分前になったとき、ゆえ知らぬ力に引っ張り上げられるかのように、ガバと跳 ね起きた。何のために三島由紀夫はあれほどの苦しみに耐えて死を選んだのか、との考えがよぎるや、ベッドの上に起き上がってしまっていた。そしてスタジオ に駆け込んだ。

「ユキオ・ミシマの死は、単に政治的なものとして捉えられるべきではなく、われわれの文明にとって聖なるものの中心がいかに必要であるかを伝統的死の儀式にのっとって主張したものと見てしかるべきでありましょう……」
すぐ真向かいで炯々と目を光らせていたエティアンブル氏が、待ってましたとばかり噛みついて来た。
「しかし、ミシマは、結局のところ、ヒトラーの礼賛者ではなかったんですか?」
「なるほど、『わが友ヒットラー』という作品を彼は書いていますからね」と応じ、「だが、この題名は逆説なんですよ!」
相手の目をじっと視つめながら、私は切り込んだ。
「それでは、あなた方の作家、ジャン・ジュネのナチズム礼讃のほうは、いったい、どうなんですか?……」
思いがけない反撃にエティアンブル氏は不敵な面魂をびくりとさせた。そしてなにごとか呪文のように早口で口のなかでつぶやくと、こう締めくくろうとした。
「まあ、ミシマは、才能(デュ・タラン)の持主ではあるけどもね……」

どっこい、逃がさじ、と私は意を決していた。
今宵、何百万人ものフランス人がこの光景を見守っているであろう。ましてテーマは、いま話題騒然たる日本の作家ミシマであり、「ハラキリ」であり、大多数 の彼らの目からすれば、さらにそれは「カミカゼ」というも同義語なのである。ただそれが、彼らの危惧する日本のファシズムの再来を意味するか否かの一点に かかっている。このままここで引き下がれば、「何だミシマとは要するにヒットラーの追随者にすぎなかったのか」との印象をもって落着してしまうだろう。

ともあれ、一歩も退かじとの決意を、そのとき私は固めていた。
そこで、こんなこともあろうかと懐に用意してきた“ウルトラC”――ただし一枚の紙片をおもむろに取り出すと、ずらりと一座を見まわして、こう言った。
「なにゆえの、このたびの、日本作家の不可解な挙であったか?
ここに、ミシマの高弟である詩人、ムツオ・タカハシ(高橋睦郎)が、本放送のため、フランスの心に宛てて書いてよこした証言があります……」

私は読んだ。
「詩人はこう言っております――
『ユキオ・ミシマの死の意義は、イエスの十字架上の死がその《受肉の完成》をもたらしたことを考えれば、おのずから明らかでありましょう……』」
一座は粛然とした。
「カトリックの国フランスの人々にはこの思想は分かってもらえるでしょう」と断って、私の畏友とする高橋氏が書き送ってきてくれた一言は、さすが有効なカウンターブローを相手にきめる上に決定的だったようである。

放送翌日に出た「パリ・テレ」紙に、次のような寸評があった。
「かんかんがくがくの、いつもの無意味な文芸討論会のなかで、昨夜、光っていたのは、あの日本人参加者のもたらした証言のみ……」

それまで7年間の滞欧生活を通じて、日本がヨーロッパと接触するその仕方について、時と共にある疑問を深めていた。
私は、接触の中心地パリにあって、ありとあらゆる祖国の文化流入と活動ぶりを見たが、そこでは「新しい日本」を打ちだそうとする外交姿勢と、文化的国際主 義を旗印とする「進歩的文化人」の欧米風エリート意識がつねに大勢を制しているために、われわれ日本人の血脈中にあって否定しようのない、ある本質的特異 性の面については、これを自覚し主張することを恐れ、ときにはこれを積極的に対決の白刃として繰り出すほどの勇気を欠いてきたのではないか――との疑問で ある。

交流の水路を往来する人士の言動を見ると、「われわれはこんなにも現代的です」と滑稽なほどにまで肩をいからせているようにさえみえる。在欧大使館が、「演武」などと聞くとアレルギー症状を起こしがちなのも、その一例である。
こんな事もあった。あるベルギー人が日本フェスティバルで武道を紹介したいから武道家を世話していただきたいと、在ベルギー大使館に頼んだところ、大使館文化部の外交官はこう答えたという「いまの日本に武道なんてありませんよ!」
こういった例は枚挙にいとまがない。

最近でこそややその風潮は改まってきたが、ヨーロッパで合気・空手・少林寺拳法などを教える日本の武芸家は、一般に、日本人側から冷飯を食わされてきたの が通例であって、彼の地の国々の大衆が三顧の礼をとってこれらの師範を奉迎する実態ときわだたしい明暗二相をなしてきたのである。ある意味で――文字通り 身を張って――日本文化の発揚に勤め、かつ最大多数の碧眼の弟子たちの尊敬を集めてきた在外日本人は武道家をもって筆頭格とすると私は信じてきたくらい で、こうした日本側からの不認識にはいつも大いに憤懣をかこってきたのであった。

禅、神道に関しても同様であった。
その後、あの達磨のごとき面魂を持った永平寺の弟子丸泰仙師が渡仏して禅の実体験をフランス人にほどこし、かつこれに大成功を収めるに至って、自分の敵はフランスではなく日本にあったと嘆じたときも、まことにむべなるかなと共感を禁じえなかった。

こうした面の日本が強調されるのは困ると感ずる人がいることは、したがって明らかである。しかもどこよりも、われわれ日本人自身のあいだにいるのである。 そのような反応が、終戦後、西欧的合理精神に学んだ日本の知識人の大半の姿勢を決してきた、と言っても過言ではないだろう。

こうまでしてわれわれが「古い日本」に目をつぶりたがっている謂れは何だろう。フランスの国営テレビが、制作した野心的フィルム「アンドレ・マルローとの 旅日記――日本篇」が1979年にパリで試写されたときの光景が、胸によみがえる。ジャン・マリー・ドロー監督によるこのフィルムは、京都・奈良をとおっ て熊野の那智滝、伊勢神宮にいたるまでのマルロー最後の来日時の足跡を着実にたどることによって、マルローのいうところの「永遠の日本」と西欧精神の対話 を忠実に再現せしめようとしている。

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アンドレ・マルロー

私は、このように深く高雅な意図をもったフランス国民の芸術的創造性なるものを永遠に讃美してやまない者 である。ちなみにこの作品は、フランスで全国放映され、三十数紙の新聞がこれに賛辞を呈するほどの注目の的となった。ところでこの試写を見終わった日本外 務省の文化担当官はなんと言ったか、「新しい日本が全然出て来ませんな。まあ、新幹線が、ちらりとは出てくるけれども、……」

この困惑、この激怒は、かりに口にこそ出さね、敗戦によって条件付けられた戦後日本のタブーの領域を犯すことを、誰もが大なり小なりおそれているという事実に、歴然と由来している。

三島由紀夫の自刃は、人がどのようにそれを受け取ろうと、私には、何よりもまず、このタブーの封印を一挙に切裂いた「侵犯」の行為と見えたのであった。そ してこの侵犯によって、そこの封じ込まれた日本の神聖なる恥部、もしくは恥部の神聖を白昼にさらけ出した行為という意味において、しかもこの行為の切っ先 を、自己の身肉をとおして日本のみならず現代的世界の喉元に扼したという意味において、まことにもって驚天動地の「荒ぶる神」の出来事と見えたのである。

最も密やかな心奥の疑問にこたえてくれた鬼神の行動としてそれは私を震撼せしめたが、同時に、剣尖を突きつけられたヨーロッパのエスプリの側も深くこれに 戦慄し、事件直後の皮相的一部の反撥をこえて、たちまちにして共感、礼讃の声々が広がっていく光景を見て、はたせるかなと感慨に打たれずにはいられなかっ た。

少なくとも、フランスにあっては、エティアンブル氏流の攻撃は、ほうはいとして興る讃嘆の念によって、たちどころに取って代わられていった。ときには同一 人物のなかで、当初その口からほとばしった「野蛮」を非難する声が、真相を知るや、実に驚くべきことに、感動の涙にまで変化していく光景を目にしたのであ る。三島氏の遺言的一作『憂国』に感じた詩人、エマニュエル・ローテンの反応がそうであったように。


『パリ憂国忌』竹本忠雄著から


「日本人の誇りを持った子供をどうやって育てるか」

2011年10月25日 01時08分21秒 | 現代日本

サイタニのブログからの転載です。高橋史朗先生の講演の記録のようです。和文化が子供の感性を育てる力はいかにも有りそうですね。太鼓の音など、何か聞いていると胸の奥からわきあがってくるような気がしますものね。

そういえば今年の春の彼岸に私の家の菩提寺であるお寺の供養の行事に行った時に(これは檀家としての義務でもあるので、以前は義理で仕方なく行っていたのですが、最近はけっこう説教のお坊さんが上手なのでそういやではありません)、ちょうど東北の震災の直後だったので、その供養も兼ねて、お坊さんたちが特に念入りにお経を読みながら、鐘などを鳴らしておられました。その澄んだ響き渡る鐘の音がほんとうに美しくて、読経の声とともに、何かとても荘厳な響きが不思議な時空間を作っているような気がしました。鐘の音と言うかその空気の振動に自分の心が溶けこむような気がしました。そして、これこそほんとに供養というものだと思ったものです。これは不思議な体験でした。

 

転載開始

 

和文化が子供達の感性を育てる
 
  
ある不登校の女子高生が、偶然にも触れた茶道によって、段々と心が落ち着いてくると、人との関わりもスムーズになったという例があります。
脳科学から見た子供の発達では、様々な場面で、子供の脳を測定し、その活性度を
見るのですが、茶道を幼稚園児に学ばせると、脳の前頭前野に、良い影響を及ぼす
ことが証明されています。
 
  
また小学生の子供の和太鼓練習の中で、特徴的なことは、最初に太鼓を叩く子供に
続いて、次の子がその音に合わせて太鼓を叩く、つまり共鳴して「共感性」が育つ
ということです。
最近では、重度の障害児に対して和太鼓の指導を施し、太鼓の音に手が動き出し、
段々と脳が活性化していったという例があります。
子どもたちの「感性」を育てる時、心に落ち着きを持たせ、人間性知性の育成や、
共感性を育むという面で、日本の伝統文化は、大変に役立つのです。


「三つ子の魂 百までも」
「しっかり抱いて 下に降ろして 歩かせる」

  
岡潔(おか きよし)が「日本人は心の民族」と言ったようにこの国の人々は、心や
情緒といったものを大切にしてきたのに、それがどんどん崩壊している事が、近年
相次いで起きています。その意味で教育基盤そのものを、どうやって変えていくのか
という事を今、考えていく必要があるのではないでしょうか。
  
親が親らしくなくなってしまえば子供は「優しさ」を学ぶチャンスを失う事に
なります。「育む」という字は「羽で含む」というのが語源で、親鳥が子供を抱きしめる
愛着によって、心が育つという事なのです。まず親に対する
  
  
一番目のメッセージは「しっかり抱いて下に降ろして歩かせる」子供への
   関わり方の基礎基本だという事です。
二番目は「脳には臨界期がある」ということ。
三番目、は千利休の残した「守破離(しゅはり)」という言葉です。
  
子供は一番信頼出来る大人に甘え、依存して、やがては反抗しながら自立していきます
。この甘えて依存するという段階が愛着で、「三つ子の魂、百までも」と言ってきたのです。また「しっかり抱いて下に降ろして歩かせる」という意味は、「しっかり抱く」という
段階は「愛着」で、「下に降ろす」は「分離」、そして「歩かせる」は「自立」でこれが
子供の発達過程なのです。
  
しかし家庭で抱きしめられる事がないのに、学校で思いやりを持ちましょう、
人権を尊重しましょうと言われても
右の耳から左の耳へと抜けるだけなのです
  
今、日本の子供達は、十分に親に甘える事が出来ないし依存出来ない、それから
反抗出来なくなっている子供が増えています。それは昔から比べると、母性的な
関わり、父性的な関わりを持つ事の出来るお父さんやお母さんが少なくなってきて
いることが影響しています。
 
  
また脳の臨界期とは、三歳までに脳細胞は六割程度が完成してしまうということで、
「三つ子の魂、百までも」という諺が、最先端の科学によって再発見されたのです。
日本人が古くから言ってきた知恵というのは、実は脳科学の問題提起と繋がって
いるのです。その意味で日本の伝統、子育ての知恵というものを、創造的に再発見
する事も課題なのではないかと思います。
  
千利休の残した「守破離(しゅはり)」についてですが、形から入って躾をすると
いう事が、教育界では、押し付けだとか、強制になるという方もいますが、
歴史文化の中で受け継がれてきたもの、形の奥にある心に気付かせる事が大切な
ポイントなのではないでしょうか。
「規矩作法、守り尽くして破るとも、離るるとても本を忘るな」、
「離れる」という段階が自分らしさや個性、創造性の段階なのです。
  
戦後は個性尊重と言ってきましたが、そのベースとなるものは「守」なのです。
日本の伝統文化には、「形」というものが貫いています。茶道、華道、剣道、柔道と
「道」の付くものは、最初に形の継承から始めますが、それは子供の興味関心で
選択する事は出来ないのです。「俺流で受身は嫌だ」と思っても、それは無理な話で、
必ず基本の型というものを継承しなければならないこれが教育の出発点
なのです
  
家庭においても、形の継承である「躾」というものを、親がしっかりと教えなくては
ならない。「身を美しくする」というのは形から入る訳ですが、その形を守り、
破り、そして形から離れる・・・というのが本当の個性や創造性なのです。

  
  
父の役割、母の役割
 
父親は、子供を産む事も授乳する事も出来ません。胎児期と乳幼児期は、特に母親に
よって子供の心が安定し、その子の大きな基盤となります。
一般に子供は母親から心の安定を、父親には外部世界の知的好奇心と刺激を期待
しています。数々の科学的実験によっても、父親と母親に対する子供の反応は、
初めから異なっている事が明らかにされています。
 
例えば母親が相手をしている時、子供は穏やかな反応をするのに対し、父親が相手
をしている時、子供は強い好奇心を発揮して激しい反応を示します。
父親には子供の心を活性化し、自立を促し、社会のルールなどを教えるという独自の
役割があります。基本的には、母性的な役割を母親が担い、父性的な関わりを父親が
担うという事が人の進化の歴史から見ても自然であると言えます。
 
もちろん父子家庭、母子家庭において、一方の親が、母性及び父性的関わりの両方の
役割を果たす必要もありますし、一般家庭でも、時には父親が母性的関わりを、母親が
父性的関わりをする事も求められますが、やはり子供にとって、父親と母親の役割を
認識する必要があります。
 
この点を踏まえた上で、何が子供のアイデンティティを育むのか?
男らしさ女らしさというものを、形から入って教える事はアイデンティティを育むためには
必要不可欠なのです。それを差別だと言ってしまってはアイデンティティを育む事が
出来ない。
 
 
 
日本文化と「男らしさ・女らしさ」
 
私は学生達に、尾形光琳の『紅白梅図』を見せるのですが、紅梅と白梅の間に広い川
が流れている・・・これが日本人の感性、バランス感覚なのです。
一見対立する男と女、お父さんとお母さん、教えると育てる、叱ると褒めるなど様々な
ものがあります。
 
男と女の関係は陰陽の相補う関係、補完関係と言います。
教育者の神様と言われる森信三先生は、男らしさ・女らしさの否定に関して
「大宇宙の神秘に対する重大な冒涜だ」とおっしゃっています。
 
保田与重郎という人は、「女性の気品というものはかつて日本歴史の華だった」と
言っていました。しかし今はこの国から失われた「品格」が、親にも教師にもそして
子供も含めた日本人の中に失われているのです。
 
日本文化は、男女の間に和の文化が成り立っていました。
夫婦雛、夫婦松、夫婦箸、夫婦杉、夫婦茶碗、夫婦岩、相生の松、おしどり夫婦、
お袋の味、お上さん・・・、夫婦は「夫」が上ですが決して男性上位という事では
ないのです。
 
イギリスのジョージ・サンソム外交官の夫人は、
「日本の男女の間には、不思議な調和が見られます。妻であり母である女性が、
その家族の代弁者。陽気な女性にとって主人や家族を管理する事は何でもありません
。女性が、母のように優しく献身的である事は、日本の社会にとって計り知れない
貴重な財産です」と言っています。

 
注:幼児期から貴女は女の子だからと躾けますと、女性は弱いと云う言葉の力によって、持っている能力を発揮できなくなりますので注意が必要です。(サイタニ)

今、日本で起きていること・・・「子育ては損」?
 
 
 
一つは若い女性の意識が変わった、例えば「子育てはイライラする」と答えた若い
お母さんは四分の三を超えています。その中で「自分の自由な時間がなくなるから」と
答えたのは二十代に圧倒的に多くいました。
 
 
つまり「子供を育てる事は、自分の自由時間が奪われてイライラする」と考えていて、
その背景には「子供を育てる事はタダ働き」という意識が出てきたのではないでしょうか
。子育ての時間によって失う所得や機会、楽しみを意識するようになったのです。
 
 
つまり保育所に預けて働いた方が得という損得勘定が出てきたのではないでしょうか
。TBSテレビが保育所に子供を預けているお母さんに「何故、生まれてすぐに子供を
預けたのですか」とインタビューをしていました。あるお母さんは「愛着心が起きない
うちに預けた方がいいと思ったから」と答えていましたが、正に愛着というものが、
この国の教育基盤であるというのに、それが自覚されていない、そして働いた方が
得という意識でいるのです。
 
 
それは幸福論ではなくて、経済論で行なわれている子育て支援、経済政策や
労働政策にも共通する教育です。税金を納めている労働者のみの子育て支援、
働いている親を支援するという政策なのです。
 
 
リッツアという人が『マクドナルド化する社会』(早稲田大学出版部)という本を出し
ましたが、世の中がどんどん効率化している。その意味は一言で言えば「合理化、
効率化」です。
 
 
しかし子供の心は、先程から申し上げているように手間暇かけて、心を込めて、
心を尽くして心を伝える、これを「心施」と言いますがそのプロセスを経ないと、
育たないものなのです。
 
 
東京辺りではカラオケボックスに、託児施設が出来ていて、親が楽しむ一方で子供が
犠牲になっているという事が起こっているのです。
 
 
あるいは子供の眠りが危ないとも言われていますが、夜十二時以降に寝る乳幼児の
数が日本は異常に多いのです。
 
 
生態リズムが乱れて、子供達の内なる自然がどんどん破壊されている、環境破壊より
もっと深刻な形で進んでいるという実態を私ども大人は知る必要があります。
早急に対応しないと、手遅れになってしまうのです。
 
 
 
 
 
注:子育ての手を抜いたぶん、将来子供が大きくなってその手を抜いたぶん、
   を親はその子供によって支払わされます。経済的問題等で堕胎すると
   必ず、子供を育てる分のお金を色々な形で支払わされるようです。
   昔流行ましたが、積み木くづしあれはその典型ですね。子供の問題は
   親の問題です。子供は親から逃げられても、子供からは逃げられません
   親の面倒を見ていない人はまず面倒見てもらえないと思った方がいいでしょう。
   自分が親にした通りを子供がやってくれますので。
   これを「心の法則」といいます。因縁因果と云われています。
   「原因結果の法則」ともいいます。  (サイタ二)
   
 


 


 
                                   高橋史朗先生講演より
 
 
 
 



転載元 転載元サイタニのブログ