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親日国「トルコ共和国」/トルコ地震に係る義援金募集

2011年10月29日 20時44分19秒 | お願い

 美しい国 からの転載です。トルコが地震で大変な被害が発生しています。トルコはとても親日国です。

この記事にもありますように、イラン・イラク戦争の時にイラクのフセイン大統領は3月19日以後はイランの上空は戦闘空域とみなして、すべての航空機を撃墜すると宣言しました。各国は直ぐに救援機を飛ばして自国民を保護しましたが、日本は自衛隊機を飛ばすことができませんでした。理由は、当時の社会党が自衛隊の海外派遣は戦争につながるというので、自衛隊を向かわせることができず、またそういうことで政府専用機も持っていませんでした。民間航空は乗務員の安全が確保されない限りは飛ばせないというのです。

現地の邦人はまさに見捨てられた感じでした。その時に現地大使館からの依頼を受けた伊藤忠商事の森永堯さんの懇願に応えて、トルコ航空が日本人救援に向かってくれたのでした。しかもトルコは自国民を陸路で脱出させてまで、日本人救援を優先させてくれたのです。

それはなぜかというと、明治時代、 トルコからの使節団を載せたエルトゥールル号という船がその帰路台風で沈没し、600人近くが死亡しましたが、和歌山県沖の大島の島民の必死の救援で、70人が助けられたのです。その救援は困難を極め、岩礁の多い場所で、怒涛の襲う中、島民挙げて救援活動が行われ、救済した人を人肌で温め、精魂込めた手厚い看護がおこなわれました。また備蓄していた食料を惜しげもなく出して、トルコ人の回復に努めたのです。その後トルコ人たちは日本の船でトルコに送り届けられました。

トルコはこのことを非常に恩義に感じ、代々忘れることなく、語り継がれ、昭和の時代にこの時とばかりに、かつての恩を返してくれたのです。

この歴史的な両国の友情を育んだ、その親日国のトルコが地震被害に逢っているのです。ぜひ支援をお願いしたいと思います。エルトゥールル号事件の歴史的な地である、和歌山県が支援を名乗りでており、その1つとして義援金募集を行なっています。記事の中にその詳細が出ておりますので、何卒よろしくお願い申しあげます。

 

 

 

 

イメージ 1
トルコ共和国
 
 
我国の友好国が次々と未曾有の災難が襲っています。
タイ王国の洪水被害、トルコ共和国を襲った大地震。
一人でも多くの方々が助かり、終息を願うばかりです。
 
 
 
我国と「トルコ共和国」との結びつきは多くの方々が紹介されていますので詳しくは動画をご覧ください。

 
 
トルコ共和国 デニズリ出身で日本に留学、東京大学で学ばれたソネル トプタイさんが、早稲田大学学生部が発行する『早稲田ウィークリー』のインタビューにトルコ人から見た日本について簡潔に答えられていますので以下に引用します。
 
 
トルコはとても親日的な国だと言われている。
「トルコで日本人が好きですか?と聞かれたら、99.9%が好きだと答えるでしょう。でも、理由を聞かれてもきっと答えられない」

しかし、なぜ親日的なのか? ソネルさんによればその答えは、トルコ・日本の友好的な歴史関係が根底にあるようだ。

日本・トルコの友好秘話としては、感動的なエルトゥールル号遭難事件が有名だ。1890年にオスマン皇帝が日本に派遣した特使一行を乗せたエルトゥールル 号が暴風雨に遭い、和歌山県串本町沖で遭難するという事故が起きた。村人たちは、自分たちの食べ物がなくなっても遭難したトルコ人を助けた。それから約 100年後のイラン・イラク戦争の際にイラン上空が閉鎖されたときに、どの飛行機も危険性が高いため、イラン在住の日本人救出に向かえなかった。唯一トル コ航空の飛行機が、日本人救出に飛んだ。トルコは、エルトゥールル号の遭難の際の恩を忘れていなかったからだという。「トルコ人の国民性から言って、助け てあげても恩返しは期待しません。でも親切にされたら、必ず恩返しはします」

「他にも、第一に、日露戦争での日本の勝利が、瀕死状態のオスマン帝国にとって、東洋の方から日が出づるかのごとく希望を与えました。第2に、朝鮮戦争に トルコも参戦しましたが、負傷したトルコ兵が日本で手厚く看護されたことが口コミで拡がり、日本に対する好印象をもつようになったんです」

 トルコ人は、親切な国民だとよく言われている。「もてなしを大切にする民族です。例えばトルコでは、見ず知らずの家でも、『Tanri Misafiri(直訳で、神様のお客ですが、の意)』と言って訪ねていけば、大体の家では暖かく迎え入れてくれます」

トルコは寛容な国である。国民の大多数がイスラム教徒で、その教義では、飲酒は禁止されている。しかし、「トルコにはラキという強いお酒があります。アルコールを飲んでもいい。大切なのは、心です。それから、女性の社会進出も進んでいます」。

「日本は、いくら不景気だといっても経済大国ですね。先進国だから、住みやすい。日本で定職がなくてもアルバイトで生活していけるのが分かったとき、トル コにはアルバイトはあまりないので、先進国ってこんなものかなって感じました。だから早大生の皆さんには、自分の国の価値をよく分かってほしい。こんなに 豊かな国はありません。日本人であることを誇りに思って、国のために何かやってください!」
 
自信と誇りを失ってしまった日本人に「日本人であることを誇りに思って、国のために何かやってください!」と結ばれています。
まさにそのとおりです。
筆者が付け加える言葉など見つかりません。
 
このトルコ東部地震の支援に一早く立ち上がったのは、トルコと日本の友好の原点。「和歌山県」です。
和歌山県は、9月2~3日の台風12号に伴う被害が甚大でした。
被災地であるにも関わらず、古き友人に寄せる「こころ」は大変嬉しく、誇りに思います。
 
以下に和歌山県HPより引用します。
 

トルコ東部の地震に係る和歌山県の支援について

10月23日(日)にトルコ共和国東部ワン州において発生した地震により、甚大な被害が出ているとの報に接し、犠牲となられた方々のご冥福をお祈りするとともに、被災された方々に対し心よりお見舞い申し上げます。
 121年前のエルトゥールル号事件以来、日本とトルコ両国は困難が生じた時はお互いに助け合ってきました。その友好関係は政府間にとどまら ず、草の根レベルへ広がり、固い絆となって今日に至っており、先般の台風12号災害では、トルコに縁のある方々から支援物資の送付や義援金の募集を行って いただきました。
 日本トルコ両国友好の原点である和歌山県として、被災された方々のお力になりたいと考え、和歌山県では下記の支援を行います。
  1. 和歌山県として医療チームを派遣する用意があります。
  2. 駐日トルコ共和国大使館を通じ、お見舞い金を贈呈します。
  3. トルコ地震支援に対する義援金を県として募ります。
 なお、10月25日、和歌山県職員が駐日トルコ共和国大使館を訪問し、お見舞金として100万円を贈呈いたしました。
  トルコ共和国の皆様が一刻も早くこの惨事から立ち直られることを心よりお祈り申し上げます。

トルコ地震に係る義援金募集

平成23年10月23日にトルコ共和国東部ワン周辺において大規模な地震が発生し、甚大な被害が発生しました。
 121年前のエルトゥールル号事件以来、日本とトルコ両国友好の原点である和歌山県として、友好国トルコの皆様に県民の皆様の支援の気持ちが伝わるよう下記のとおり義援金を募集します。
  1. 義援金名  2011トルコ大地震災害義援金
  2. 受付期間  平成23年10月24日~平成24年3月30日
  3. 振込先   金融機関  紀陽銀行 県庁支店
            口座番号 (普)396915
            口座名義 和歌山県トルコ震災支援の会
  4. 留意事項  領収書の発行を希望される方は、文化国際課国際班
            (電話:073-441-2057)へ申し出てください
  5. その他    「紀陽銀行本店・支店」の窓口での振込については、手数料は無料です。
 
<トルコ地震に係る義援金の受付状況について>
       多くの皆様から、義援金が寄せられています。
       寄託者の皆様に心からお礼申し上げます。
    ・義援金の受付状況は次のとおりです。
         義援金額計 2,647,705円 (311件) 【平成23年10月26日 15時現在】
 
 
ブログ友のナオミ様の友人の桃実さんが、在日トルコ大使館の義捐金受付の口座番号を調べてアップされていました。桃実さんの記事によると、通貨 はトルコリラ、米ドル、ユーロの3種で、日本の銀行口座の開設もなければ日本円での送金もできないと紹介くださっていますので、ご希望の方々は、上記のト ルコと日本の友好の原点、「和歌山県」を通じられるのが一番早いと思います。
政府系の義援金募集は、東日本大震災で対応の遅さが露呈しています。
 
 
上記のアドレスで随時更新されていますので、ご参考までに・・・
 
 
災害に遭われた、トルコ共和国、タイ王国の国民の皆様にお見舞い申しあげます。
そして、一刻も早い終息を願い、一人でも多くの人命が救われることを願ってやみません。
 
 
 

転載元 転載元: 美しい国


 


復興への3万3千キロ

2011年10月29日 15時49分43秒 | 無題
昭和天皇の御一生を思うと、国民へのこれほど深い愛があるだろうかと、涙が止まらなくなりそうです。私の中では、まさに聖天子という言葉が浮かぶくらいに、昭和天皇陛下は国民への献身の御一生だったと思います。マッカーサーとの会見から、全国巡幸と、ほんとうに国民を守ろうとされた慈父でした。

昭和天皇が佐賀県の基山町にある印幡寺の洗心寮を訪ねられた時のこと、そこには中国やフィリピンで親を亡くし、引き揚げた子が多かったそうで、四九人の孤児たちがいました。

「天皇陛下は”苦しかっただろうねさびしかっただろうね。立派な子供になるんだよ”とおっしゃって、じっとボクたちを見つめておられました。その目に涙がキラリと光っていました。ボクたちも思わず泣きました」

そして陛下は、孤児たちの生い立ちを綴った作文集を大事に抱え、見送る子供たちを何度もふり返りながら帰途につかれたといいます。




■1.石のひとつでも投げられりゃあいいんだ■

 ヒロヒトのおかげで父親や夫が殺されたんだからね、旅先で石のひとつでも投げられりゃあいいんだ。

 ヒロヒトが40歳を過ぎた猫背の小男ということを日本
人に知らしめてやる必要がある。神さまじゃなくて人間だ、ということをね。

 それが生きた民主主義の教育というものだよ。

 昭和21年2月、昭和天皇が全国御巡幸を始められた時、占領軍総司令部の高官たちの間では、こんな会話が交わされた。


 しかし、その結果は高官達の"期待"を裏切るものだった。昭和天皇は沖縄以外の全国を約8年半かけて回られた。行程は3万3千キロ、総日数165日。各地で数万の群衆にもみくちゃにされたが、石一つ投げられたことはなかった。

 イギリスの新聞は次のように驚きを率直に述べた。

 日本は敗戦し、外国軍隊に占領されているが、天皇の声望はほとんど衰えていない。各地の巡幸で、群衆は天皇に対し超人的な存在に対するように敬礼した。何もかも破壊された日本の社会では、天皇が唯一の安定点をなしている。

 イタリアのエマヌエレ国王は国外に追放され、長男が即位したが、わずか1ヶ月で廃位に追い込まれた。それに対して、日本の国民は、まだ現人神という神話を信じているのだろうか?
欧米人の常識では理解できないことが起こっていた。

■2.全国を隈無く歩いて、国民を慰め、励ましたい■

 昭和天皇が全国御巡幸の決意を示されたのは、敗戦直後、昭和20年10月であった。宮内府次長加藤進氏に次のように指示された。

 この戦争により先祖からの領土を失ひ、国民の多くの生命を失ひ、たいへん災厄を受けた。この際、わたくしとしては、どうすればよいのかと考へ、また退位も考えた。しかし、よくよく考へた末、全国を隈無く歩いて、国民を慰め、励まし、また復興のために立ちがらせる為の勇気を与へることが自分の責任と思ふ。このことをどうしても早い時期に行ひたいと思ふ。ついては、宮内官たちはわたくしの健康を心配するだらうが、自分はどんなになってもやりぬくつもりであるから、健康とか何とかはまつたく考へることなくやってほしい。宮内官はその志を達するやう全力を挙げて計画し実行してほしい。

 御巡幸の打診を受けた占領軍総司令部は、冒頭で紹介したような魂胆もあって、許可した。

■3.「食べ物は大丈夫か」「家はあるのか」■



 昭和21年2月19日の最初のご訪問の地は、昭和電工・川崎工場であった。食糧増産に必要な化学肥料の硫安を生産していたが、空襲で70%の設備が破壊され、社員は必死で復旧に努めていた。

 一列に並んだ工員たちに、昭和天皇は「生活状態はどうか」、「食べ物は大丈夫か」「家はあるのか」と聞かれた。感極まって泣いているものも多かった。案内していた森社長は、天皇が身近な質問ばかりされるので、宮中で安楽な生活をされていたら、こんなことは口だけでは言えまい、と急に深い親しみを感じた。

 二度目の御巡幸は、2月28日、都内をまわられた。大空襲で一面、焼け野原である。新宿では、昭和天皇の行幸を知った群衆が待ちかまえ、自然に「天皇陛下、万歳」の声が巻き起こった。昭和天皇が帽子をとってお応えになると、群衆は米兵の制止も振り切って、車道にまでなだれこんだ。これ以降、巡幸される先々で、このような光景が繰り返された。

■4.あつさつよき磐城の里の炭山に■

 昭和21年には、関東、東海地方の各県を廻られ、22年6月には、大阪、兵庫、和歌山。そして8月の酷暑の中を東北全県の巡幸を希望された。側近が驚いて、涼しくなってからでは、と延期を願ったが、「東北の運命(食料の増産)は、真夏にかかっている。東北人の働くありのままの姿を是非この目に見て激励してやりたい」と許されなかった。

 敗戦直後で、宿舎がままならず、列車の中や、学校の教室に泊まられた事もあった。「戦災の国民のことを考へればなんでもない。十日間くらゐ風呂に入らなくともかまはぬ」と言われて、行幸を続けられた。

 出炭量の40%を占める重要なエネルギー供給基地福島県の常磐炭坑では、地下450mの坑内を歩かれ、40度の中を背広、ネクタイ姿で、上半身裸の鉱夫たちを激励された。深い坑内で万歳の声が轟いた。この時の御製(お歌)である。


あつさつよき磐城の里の炭山にはたらく人をををしとぞ見


■5.浅間おろしつよき麓にかへりきて■

 この2ヶ月後には休む暇なく、甲信越地方9日間の御巡幸に出られた。最初に浅間山の初雪の中を2キロも歩かれて、山麓の大日向開拓村を訪問された。大日向村は満洲への分村移民を全国で最初に実行した村である。しかしソ連の満洲侵略により、移民694名中、ようやく半数の323名が生き残って、村に帰ってきた。そして標高1095mの荒れ地を切り開いて、入植していたのである。

 天皇をお迎えした開拓団長堀川源雄の奏上は、幾度となく涙でとだえた。昭和天皇のお顔も涙に濡れた。

浅間おろしつよき麓にかへりきていそしむ田人とふとくも
あるか 

■6.老人(おひびと)をわかき田子らのたすけあひて■



 この年、11月から12月にかけてには、さらに鳥取、島根、山口、広島、岡山をまわられた。島根県では新川開拓村で3万人の奉迎に応えられた後、伊波野村で農作業をご覧になられた。農業会長が、働いている老夫をさして、「我が子を二人とも失いましたが、村人の助けも得て、屈することなく働いております」と説明すると、天皇は次のようなお言葉とお歌を賜った。

 この度は大事な二人の息子を失いながら、猶屈せずに食糧増産に懸命に努力する老農の姿を見、一方又、これを助ける青年男女の働きぶりを見て、まことに心うたれるものがあった。このやうな涙ぐましい農民の努力に対しては深い感動を覚える。いろいろ苦しいこともあらうが、努力を続けて貰ひたい。

老人(おひびと)をわかき田子らのたすけあひていそしむ
すがたたふとしとみし

■7.ああ広島平和の鐘も鳴りはじめ■
  12月5日、広島に入られる。広島市では戦災児育成所の原爆孤児84名に会われた。原爆で頭のはげた一人の男の子の頭を抱えるようにして、目頭を押さえられた。周囲の群衆も静まりかえって、すすり泣く。

  爆心地「相生橋」を通過されて、平和の鐘が鳴る中を元護国神社跡で7万の奉迎を受けられた。周囲には黒こげの立木、あめのように曲がった鉄骨が残る中で、天皇はマイクで次のように語られた。

  このたびは皆のものの熱心な歓迎を受けてうれしく思ふ。本日は親しく市内の災害地を視察するが、広島市は特別な災害を受けて誠に気の毒に思ふ。広島市民は復興に努力し、世界の平和に貢献せねばならぬ。

ああ広島平和の鐘も鳴りはじめたちなおる見えてうれしか
りけり  

    この中国地方行幸にお目付役として同行していた占領軍総司令部民政局のケントは、原爆を落とされた広島の地ですら誰一人天皇を恨む者がいないことに、ただただ驚くばかりであった。もともと天皇制廃止を目論んでいた民政局は、兵庫県で小学生達が禁止されていた日の丸を振ってお出迎えしたのを「指令違反」であるとして、以後の御巡幸中止を命じた。

 しかし、御巡幸を期待する九州、四国地方からの嘆願や議会決議が相次ぎ、昭和天皇も直接マッカーサーにお話しされた模様で、翌々年に再開が許可された。

■8.子らに幸あれ■

 昭和24年5月18日から6月10日にかけては、九州全県を巡幸された。5月22日に立ち寄られた佐賀県基山町の因通寺には、40余名の戦災孤児のための洗心寮があった。孤児たちの中に、位牌を二つ胸に抱きしめていた女の子がいた。

 昭和天皇は、その女の子に近づかれて、「お父さん、お母さん?」と尋ねられた。「はい、これは父と母の位牌です」とはっきり返事をする女の子に、さらに「どこで?」。

 「はい。父はソ満国境で名誉の戦死を遂げました。母は引き上げの途中病のためになくなりました。」

 天皇は悲しそうな顔で「お寂しい」と言われると、女の子は首を横に振って、「いいえ、寂しいことはありません。私は仏の子です。仏の子供は亡くなったお父さんとも、亡くなったお母さんともお浄土にいったら、きっともう一度会うことができるのです。・・・」

 昭和天皇は、すっと右の手を伸ばされ、女の子の頭を2度、3度と撫でながら、「仏の子供はお幸せね。これからも立派に育っておくれよ」と言われた。数滴の涙が畳の上に落ちた。「お父さん」、女の子は小さな声で昭和天皇を呼んだ。

みほとけの教へまもりてすくすくと生い育つべき子らに幸
あれ

■9.天皇陛下さまを怨んだこともありました■

 因通寺の参道には、遺族や引き揚げ者も大勢つめかけていた。昭和天皇は最前列に座っていた老婆に声をかけられた。「どなたが戦死をされたのか」

「息子でございます。たった一人の息子でございました」声を詰まらせながら返事をする老婆に「どこで戦死をされたの?」

「ビルマでございます。激しい戦いだったそうですが、息子は最後に天皇陛下万歳と言って戦死をしたそうです。・・・天皇陛下様、息子の命はあなた様に差し上げております。息子の命のためにも、天皇陛下さま、長生きをしてください」

 老婆は泣き伏してしまった。じっと耳を傾けていた天皇は、流れる涙をそのままに、老婆を見つめられていた。

 引き揚げ者の一行の前では、昭和天皇は、深々と頭を下げた。「長い間遠い外国でいろいろ苦労して大変だったであろう」とお言葉をかけられた。一人の引き揚げ者がにじり寄って言った。

 天皇陛下さまを怨んだこともありました。しかし苦しんでいるのは私だけではなかったのでした。天皇陛下さまも苦しんでいらっしゃることが今わかりました。今日からは決して世の中を呪いません。人を恨みません。天皇陛下さまと一緒に私も頑張ります。

 この言葉に、側にいた青年がワーッと泣き伏した。「こんな筈じゃなかった。こんな筈じゃなかった。俺がまちがっておった。俺が誤っておった。」

 シベリア抑留中に、徹底的に洗脳され、日本の共産革命の尖兵として、いち早く帰国を許されていた青年達の一人であった。今回の行幸で、天皇に暴力をもってしても戦争責任を認めさせ、それを革命の起爆剤にしようと待ちかまえていたのである。天皇は泣きじゃくる青年に、頷きながら微笑みかけられた。

■10.復興のエネルギー■

 九州御巡幸では約190カ所にお立ち寄りになり、各県とも6、7割の県民が奉迎したので、約700万人とお会いになった。

 御巡幸はその後も、四国、北海道と昭和29年まで続き、8年半の間に昭和天皇は沖縄をのぞく、全都道府県をまわられ、お立ち寄り箇所は1411カ所におよんだ。奉迎者の総数は数千万人に達したであろう。

戦のわざはひうけし国民を思ふこころにいでたちてきぬ
わざはひをわすれてわれを出むかふる民のこころをうれし
とぞ思ふ
国をおこすもとゐとみえてなりはひにいそしむ民の姿たの
もし (*なりはひ=しごと)

 大日本帝国が崩壊して、始めて国民は間近に天皇を拝する機会を得た。驚くべき事に、それは人々と共に悲しみ、涙を流す天皇であった。一人ひとりが孤独に抱えていた苦しみ、悲しみに、天皇が涙を流された時、人々は国民同胞全体が自分達の悲しみ、苦しみを分かち合ってくれたと感じ、そこからともに頑張ろう、という気持ちが芽生えていった。戦後のめざましい復興のエネルギーはここから生まれた。



 昭和63年9月、昭和天皇が病床につかれると、全国の御平癒祈願所に約9百万人が記帳に訪れた。40数年前の御巡幸で昭和天皇に励まされた人々も少なくなかったであろう。

 昭和天皇は病床で「もう、だめか」と言われた。医師たちは、ご自分の命の事かと思ったが、実は「沖縄訪問はもうだめか」と問われたのである。御巡幸の最後の地、沖縄に寄せられた昭和天皇の御心は、今上陛下によって平成5年に果たされた。



国際派日本人養成講座から転載