小さな自然、その他いろいろ

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 「日本人の誇りを持った子供をどうやって育てるか」

2011年10月27日 21時31分55秒 | 無題

 サイタニのブログ からの転載です。少子化対策と子育て支援の議論で、かならず「親の責任をあまり言ってはいけない」というのには驚きました。しかしそれは、親の責任をもっと真の意味で理解し、その価値や素晴らしさを説かずに、まるで沢山の苦労を耐えるようなイメージで親の責任を言うからではないでしょうか。本来子育てというのは、無限の可能性をもった子供の個性や能力を引き出すことで、その素晴らしさや楽しさを説かないからストレスばかりのイメージになってしまうのだと思います。子供はほんとに可愛いもので、その子育ても親にとっては楽しいものです。もちろん全部が楽しいばかりではありませんが、楽しいという部分があることは確実なのです。子供のちょっとした仕草や成長していく過程の驚きなどは、母親には感動的なもので、それはまた母親にとっての癒しともなります。

 

  
この国で非常に問題になっている少子化対策と子育て支援ですが、
その支援について議論をすると、必ずこういう主張にぶつかる事に気付きました。
「親の責任をあまり言ってはいけない」という意見です。
  
子育ては社会が担うのだ、親の責任だと言うからストレスが溜まって虐待などが
起きているのだという主張もありますが、そんな時、私はいつも
  
「教育で一番大事なのは、一人からの教育再興で、自分が変わる事なのだ
親が「誰かが悪い」と言っている限り子供は変わらない、だから親が変わる事は
、子供が変わる近道なのだ。親の責任という事をちゃんと伝えないといけない」
申し上げます。
  
  
親の責任とは何なのか、明確なメッセージを伝えないといけないのではないでしょうか。
ところで、外国の子育て支援策は「親には子供を育てる権利がある」という教えに
基づいて書いています。
  
北欧では「在宅育児手当」を与えている国があります。
「労働者としての親」の支援ではなくて「教育者としての親」の支援をしている、
それが『親学』であり「親が親として育っていく事」を支える「親育ち」支援なのです。
親教育は世界のたくさんの国が、
 国策として取り組んでいるところです
 
 
少子化対策としては、経済政策のみで「幸せになれるのか」という事です。
少子化しない社会の共通点は、地域への愛着心、家の祖先に強い繋がりを感じる
といった「命の繋がり」を大事にしているところだという様々なデータもあります。
 
熊本のある地方では、五十歳になると、母校の小学校の運動会に全員が全国から
戻って来て参加するそうです。
 
そう考えると「子はかすがい」と言いますが、繋ぐ存在としての子供の価値を再発見
する必要があるのではないでしょうか。
 
ミヒャエル・エンデの『モモ』の中で、主人公モモが、時間貯蓄銀行の灰色の紳士から
街に時間を取り戻したように、人と人との繋がりから幸せを取り戻す鍵を握っている
のは子供ではないでしょうか。
 
 
 
 
 
注:自分は責任を取ろうとせず、他人の責任にばかりしていた総理大臣がいましたね。
  名前出すのもおぞましいので出しませんが、民主党の国会議員の言葉は他人事
  ですね。総理大臣はじめ与党の国会議員の先生方がこれですから、
  子育てのお母さん方も大変ですね。
  「民主党の総理大臣みたいに無責任な人間になってはいけませんよ!」
  躾けなければなりませんからね。
 
 
 
 

 
 
 
若いお母さんは、「自分の自由時間が奪われるからイライラする」と答えましたが
メイヤロフは著書の中で、「他から必要とされていないと感じているために自由だと
感じるのではなく、むしろ他から必要とされたり、他に身を委ねる何かがある時に
こそ自由だと感じる」と記しています。
 
 
タリウムでお母さんを毒殺しようとしていた高校一年生が、日記を残しています。
私は全部読みましたが、たった一日だけ人間的な記述がありました。
それは幼稚園児と関わった時のもので、幼稚園児が自分を必要としていた事で
存在価値を感じた、そして自分の悩みというものが癒されていったという内容でした。
 
 
人の世話をする事が、一番大切な人間力を高める事に繋がってく、HQ(人間性
知性)を高めるには乳幼児の世話が必要だと言った科学者もいます。
 
 
ある中学生が幼稚園に行って、どう子供と関わってよいか迷っていたら向こうから
園児が駆け寄ってきて「遊ぶか」と言ったという有名な話があります。
 
 
また、幼児の単刀直入な言葉や、シャボン玉を飛ばしながら無邪気に遊んでいる
子供の姿を見て幸せを感じたそうです。
 
 
子供と子供らしい遊びをしながら、その中に幸せを感じる事・・・、私達は合理化や
効率化の中で、幸福という事の原点を見失っているのではないでしょうか。
 
 
私は日本青年会議所で、「日本人の誇りを持った子供をどうやって育てるか」という
内容の講演をさせて頂いているのですが、開口一番、「皆さん、子供におはようと
いっていますか?」と尋ねるとほとんど手が上がらない。
 
 
「おはよう」と言わないで日本人の誇りは子供達に育ちようがありません。
まず家庭生活から変えないと、この国の教育は再生出来ないのです。
 
 
 
 
 
           「日本人の誇りを持った子供をどうやって育てるか」完
                 高橋 史朗先生講演より
 
 
 


 

転載元 転載元:  サイタニのブログ

 

 


パリ第一回憂国忌  ~竹本忠雄氏

2011年10月27日 17時32分51秒 | 歴史

竹本忠雄氏の『パリ憂国忌』の文章を抜粋して書いています。どの箇所も素晴らしく感銘を受けて、省略するのがもったいない感じです。

それにしても、フランス人という民族が、日本の文化に対し、これほど共鳴する感性の持ち主であることに驚きを禁じえません。





明けて一九七一年となった。

その年の六月にパリで開かれた《憂国忌》について、語らなければなるまい。
事の起こりは、まず、三島由紀夫の自作自演による有名な映画作品『憂国』を私自身が見たいということにあった。 

この企画が伝わるや、見たいという有志がぞくぞくと名乗りでてきた。

スポンサーは、詩人エマニュエル・ローテンがひきうけてくれた。

一つの偶然が、私のもくろんだ集いを大いに盛りあげることを助けてくれた。

作曲家、黛敏郎氏の参加を得たことである。氏とは初対面であったが、参加を快諾してくれた。この催しについて、同氏は、その翌年十一月、文芸総合誌「浪漫」創刊号に『美神への讃歌――パリの三島忌』と題して感動のこもった克明な記録を寄せている
黛氏は書いている。

凱旋門から放射状に拡がる大通りの一つ、アヴニュー・オシュに、小ぢんまりと したいかにも落ち着いたシネ・クラブがある。ここがパリの三島忌の第一会場だった。しのつく冷たい雨の中を、三々五々と夕刻にかけて集ってきた人たちの中 には、フランスの詩人、作家、画家、作曲家、映画人などの芸術家や、外交官、ジャーナリスト、実業家、一般のサラリーマン、学生たち、それに社交界の婦人 たちなど、かなり多様な顔が見えた。その数は、凡そ五十人ほどであったろうか。日本側としては、世話役の竹本氏のほかに、佐藤敬氏をはじめとする何人かの パリ在住者と、旅行者とが、ちょうど半々くらいの割合だった。
 (以下青字部分は挿入された黛氏の文章、黒字は竹本氏の文章)

これらの人々の中に、ヨーロッパの具現の士が少なからず混っていた。名著『挑戦』の著者マズネフ氏、作家にして映画監督のミシェル・ランドム氏、ユネスコ 文化局長パマット氏、・・・略。これらの人々は、呼びかけから呼びかけへと波のように応えて、いずれも深い共感をもって駆けつけてくれた人々ばかりであ る。

このうち、ミシェル・ランドム氏、は、『神道』と『武道』という日本の傑作映画の監督として知られる(フランス国営テレビ制作によるこれらのフィルムは世 界各国で争って公開され、知らぬは日本ばかりなりということになった)。ある意味で、日本の精神性の世界的使命なるものをわれわれよりも深く信じ、かつそ れを普遍化するうえに天賦の才をもって貢献した、深遠なる人物である。・・・

会は、まず竹本氏の短い挨拶と、主催者格の代用的存在、詩人のエマニュエル・ローテン氏の言葉で始まり、続いて映画『憂国』が上映された。

『憂 国』は以前フランスの短編映画祭に出品され、入賞した作品であり、出席者の中には、前に観た人も多かったようだ。この夜上映された『憂国』は、フランス語 板のプリントであり、三島氏自身の筆になると思われる毛筆書きのフランス文解説が、プロローグを初め随所に挿入されていたので、全く台詞がなくてヴァーグ ナーの『トリスタンとイゾルデ』が全篇に流れるだけというかなり異色なスタイルも、また、能舞台を模したシーンでは、現実の三島氏の事件への連想というよ り、まさに実際の氏の自刃もこの通りであったろうというドキュメンタリーな意味から、客席には異様な緊張感がみなぎった。
私自身のことを言えば、あの事件以来、この映画を観たのは初めてであったし、さまざまな思いが胸の中を去来して、到底あのシーンだけは正視することができなかったことを告白する。

かくいう私自身も衝撃を受けていた。ただし、私が考えたのは別のことであった。

いつの日か自分自身が実践するであろう行為を、このように、一挙手一投足、細心の注意をはらって確実に予行した一個の精神が存するというすさまじさに、髪の毛も逆立つばかりの思いを味わっていたのである。
それが、私の感じた恐怖であった。

映写が終わり、客席が明るくなってからも、暫くの間誰も声を発する者はいなかった。隣席のローテン氏は、ボロボロ涙を流しながら、私の手を強く握りしめたままだった……

ややあって、立ちあがったローテン氏は、声涙ともに下る短い演説をした。「いま皆さんが、スクリーンで観られた三島氏は、この映画さながらの古式に則った武士道の作法通りに切腹して果てた。このような天才的芸術家が、何故、このような行為に出たのだろうか?」

あとはもう言葉にならなかった。

私は、胸を打たれて、いかつい顔のこの人物が頬鬚を涙でぐしょぐしょに濡らしながら嗚咽を抑えるさまを、ただまじまじと視つめるのだった。
観客のすべてが別室に引き上げてからも、ローテンだけは、場内に一人佇んでいた。そして私の姿を見かけると、なお涕泣しつつこういうのだった。
「《愛と死の儀式》――私がここに見たものは、まさしく神ということなのです……」

当然、私は皆の質問攻めにあうことになった。私は、私に考えられる限りの、三 島氏の自刃に対する見解を述べた……。要するに三島氏は、大東亜戦争敗戦後の虚脱状態から一転して今日の経済的繁栄を手にした日本人たちが、芸術的にも、 精神的にも、日本古来の伝統を軽視し、それが天皇ご自身をも含めた日本人一般の風潮となって、日本がその文化のすべてのよりどころとしてきた天皇制の危機 を、誰よりも強く感じ始めたこと。そしてそれが、具体的に現行憲法を改正しない限り、救う途のない性質のものであること。そして更に、同じ現行憲法の解釈 のゴマカシニよって、かろうじて存在している自衛隊というもの自身に、その改正を促すべきだという自覚を与えない限り、それは不可能だと考えるに至ったこ と。・・・・・・省略


「ユウコク(憂国)とはどういう意味ですか?」と真っ先に私に尋ねてきたフランス人があった。批評家クリスチャン・シャパニエ氏である。

「それは、国の運命を憂うる、ということです」
「ああ、なんという美しいイデー(思い)だろう!」と相手は叫んだ!
「つまり、単なる愛国とは異なるんですね。愛国というと、なんだか……」
シャパニエはそこで言葉を呑み込んだが、その意味は明らかだった。「手垢に汚れている」と言おうとしたものであろう。
「しかし、憂国は違う。そこには、深く民族の帰趨を案じ、精神的にこれを指導する予言者の役を果たし、時いたらば人柱となって死するをも辞さじという、苦悩と殉教の精神が、より脈々とあふれでている……
ヒーローよりも、予言者の心情というべきではなかろうか。バビロンの流れ、ケバル河のほとりで、幽囚の民族の運命を嘆いた旧約の大予言者たちのように……」
どんなにか私は彼の手を握りしめたかったことであろう!
この打てば響くような素早い理解、深い共感……
地球の反対側で、ほかならぬ同胞のあいだで、犯罪者・精神錯乱者・エグジビショニスト、等々、ありとあらゆる罵声が浴びせられつつあるあいだに、ここではその「元凶」は、「予言者」の名をもって語られつつあったのだ。

(ここから会話が始まりますが、字数制限のため、地の文を省略しました。)

マズネフ「僕は、はっきりとローマ派の人間だが、つまり、高徳のストイシャンだったローマ人の生き様を全幅に肯定する人間だが、しかし、この僕にしてからが、このフィルムを観て、全く『シャッポ―(脱帽)』と叫ばざるをえなかったよ。
なるほどローマは自殺の理想像を残しはした。セネカは『賢者の行くべき限りのことにして、生きたかぎりのことにあらず』と述べて言行一致の見本を示したし……」
ランドム 「それが日本ではハガクレ(葉隠)なのだよ」
マズネフ 「ハガクレ?」
ランドム 「そう、日本武道のコード・ブックであり、かつ『武士道とは死ぬことと見つけたり』という信仰告白でもある……」
マズネフ 「とすれば、いよいよもって、それこそは古代ローマだよ!そのハガクレとやらをローマ人も書き遺しているからね。(中略)
ところで、この小カトーの自殺が割腹によるものだったことは、ごぞんじでしょう?」
竹本 「ええ『プルタルコス英雄伝』の、僕は熱読者ですからね」
マズネフ 「僕も同様…… 
剣はローマの武人たる以上、もっとも尋常の自殺の具だったんですよ。」 
パマット 「ちょっと待ちたまえ……
しかし、それら顕然たるローマの歴史的武将たちは、自決するときに、何らかの儀式にもとづいてそうしたかね?
なるほど、彼らの死も、勇気のあらわれには違いなかった。だが、日本のサムライの死は、勇気のあらわれというだけのものではないよ。プラスなにかが、そこにはある。それゆえの切腹の儀というべきではなかろうか?」
ローテン 「そうだとも!それこそはミシマの言いたかったことのはずだよ」
同時に、「セ・ジェスト(そのとおり)!」「ヴォアラ(しかり)!」「アプソリューマン(まったくそうだ)!」という声々が、あちこちから興った。
マズネフ 「だから……だから……さっき、こう言いかけていたんだよ。『シャッポ―』とね!
ローマ人の自殺は日本人の切腹と同じものではない!」
パマット 「つまり、ローマ的自殺には、なんというかフォルムがない。フォルム――カタ(型)ですね……」
ランドム 「つまり、文明全体のあり方に関わるかどうかということだと思うな……
日本で武士道と言われるものが、もし単に勇気と武技の結合したものであるだけなら、ローマと日本のあいだに何の差異もないことになるだろう……
こういうことを僕に教えてくれたのは、弓道のハンザワ(半沢)だった。ハンザワ先生といえば、『弓と禅』を書いたドイツのオイゲン・へリーゲルの師範――有名な東北の阿波研造名人の弟子にあたる人だけれどもね。
このハンザワ先生の全人格から放射してくるもの、これは、断じてヨーロッパには見当たらない何かだった。つまり、そこに浸っているかぎりは死は存在しないといった……
ハンザワ先生の弓を見ていて、僕はそれが単なる武技ではないと悟った。先生は、射るとき、目をつぶっておられたのだから……」
私はその光景を知っていた。ランドム氏のフィルム、『武道』のなかで、それはもっとも美しいシーンであったから。また私は、半沢師範の訃報に接して彼が子供のように泣いたということも聞かされていた。
いかにも、フランスにあってしばしば私は実見したことであるが、武道から神道、禅、密教にいたるまでの日本の精神性の諸領域の導師たちに対してフランス人 子弟が寄せる尊敬の念たるや、見ていて感動をもよおさせられるほどのものだったのである。なまなか今日の日本人では、及びもつくまいと思わせられるほど に。そのような基盤なくして、現代日本人の自刃の行為に対して寄せられるかくも深い理解はありえなかったことかもしれない。
会話はこうして、いつのまにやら日本とローマの自決比較論のようになってしまった。
「問題は、しかし、二千年前のそうした超越的死が、その後も脈々とわれわれの文明の頂点の一形式として伝えられてきたかどうかということだよ……」
声の主は、ふたたびミシェル・ランドムだった。
「日本にはそれがある。それがル・ブシドー(武士道)というものだ……」
ぴしりと決まった一言だった。
日本人自身がその持てる最上の伝統を擲ってかえりみないときに、西洋人の側からこうした信念の吐露がなされるということも、考えれてみれば奇妙なことでは あった。じっさい、われわれは、もはや接木された一本の木に過ぎず、根本の樹液の湧出は永遠にそれを失ってしまったのであろうか?それとも……
それとも、三島由紀夫の死は、まさにこの古株の生命の存続を示したとみるべきだろうか?存続を示したのみならず、クリスチャン・シャパニエ氏が言ったように、「予言者」の役割を果たしたものでさえある、と……