サイタニのブログの大楠公の物語の続きです。楠木正成公という大将がすごい人であれば、その家来にもやはりすごい人がいるものです。類は友を呼ぶと言うか、大将の資質がその軍の心意気を左右するのでしょうか。
村上義光父子の忠義の心
二月二十日も過ぎると、赤坂城への猛攻撃がはじまりました。
しかし赤坂城も幕府軍をよく防ぎ、一向に落ちる気配がありません。
この時、幕府軍の一人が、火矢におしげもなく水をかけて消しているよう
だが、城内の水はどうしているのであろう?
戦の前に、楠木正成は赤坂城の大将に山から水を引いていたら、水を止め
られる危険があるから城内に井戸を掘るように言っていたのが、正成の
意見を聞かなかったのである。
さっそく人夫が集められ、山から城へ続く地面を掘り返してみると、地下
深くに水を通している樋(とい)が見つかりました。たちまち樋は壊され
、正成が心配した通りのことが起こり、正成の大切な拠点の一つ、
赤坂城は落とされました。
元弘三年(一三三三年)二月末、鎌倉幕府の大軍は護良親王(もりよし
しんのう)のおられる吉野と楠木正成の千早城へ攻め寄せて来ました。
護良親王(もりよししんのう)は、三千騎の兵と共に城を構え、何万と
いう幕府軍を迎え撃たれたのです。七日間戦いが続きましたが、二月一日
両方から幕府軍に攻められ吉野の城はもはやこれまでと護良親王は死を
覚悟されましたが、その時、これまで親王を守り、行動を共にして来た
村上義光(むらかみよしてる)が駆けつけ、宮様の鎧(よろい)を
着け、身代わりとなり、護良親王を助けたのです。
義光は、櫓(やぐら)の囲い板を切り落とし、身をあらわにすると、
大音声をあげて叫びました。
「われこそは後醍醐天皇(ごだいごてんのう)の皇子護良(おうじ
もりよし)なりー、逆臣どもに亡ぼされ、ただ今自害する。わが
有様を見て、汝らが自害する時の手本とせよー!」
義光は親王の緋縅(ひおどし)の鎧をぬいで櫓から投げ落とすと着物の
前をおし開き、左の脇腹に刀を突き立てると間一文字に引き切りました。
あまりにも凄まじくみごとな最期に、押し寄せた幕府軍の兵達は皆
言葉を失ったのです。
一方、城を逃れた護良親王にも五百騎の追手がかかり、危機が迫って
いました。義光の息子義隆は、親王と供の者を先に行かせると、細い
山道にただ一人止まり、道端の草むらに身を隠すと、山道を駆けてきた
敵の馬の足を刀でなぎ払い、次々に倒してゆき、たった一人で五百騎を
相手に鬼神(きじん)のような義隆の凄まじい戦いは、一時間にも
及んだのです。
この間に、護良親王は落ちのびることができたのでした。
後日、幕府軍は、護良親王がまだ生きていることを知りました。けれど、
身代わりとなって自害した義光の深い忠義の心と、護良親王を守る
ため、五百騎を相手にたった一人で戦った義隆の健気(けなげ)さに
、敵も味方も心打たれぬ者はなかったのです。
続く
楠木正成
後藤久子著より抜粋
転載元: サイタニのブログ