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靖国神社とは、

2011年09月14日 23時06分38秒 | 無題
しい国からの転載です。靖国神社というものについて、正しい知識をお持ちでしょうか。
政治家が靖国参拝をするしないというニュースはよくありますが、靖国神社とはどういうものかをきちんと述べている報道は意外とありません。国家のために戦ってなくなった方をお祀りしてあるのだとは知っていても、いつ建てられ、いつからの人々を祀っているか、どういうまつり方かということを詳しく解説した番組もなく、みな漠然とイメージをもっているだけではないでしょうか。日本人として、この靖国神社というものを、もっとしっかり知ることが大切です。きちんと知れば、参拝することは、日本人として当然の行いであることがよくわかります。

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靖国神社
 
 
 
靖国神社は、明治二年(皇紀2529年)、明治天皇陛下によって、現在の東京都千代田区九段に創建されました。当初は「東京招魂社」と呼ばれましたが、明治12年(皇紀2539年)に靖国神社と改称されました。
その淵源は、文久三年(皇紀2523年)高杉晋作の発議により、奇兵隊専属の招魂場として、元治元年(皇紀2524年)下関に桜山招魂場が完成し、現在は桜山神社となっています。全国で最初に招魂社として建てられた招魂社です。
  
  
靖 国」という名称には「国の平和を願う」という思いが込められています。その淵源は古く、「日本書紀」のの神武天皇の条に「安国」の文字が見えます。「昔伊 弉諾尊(いざなぎのみこと)、此の国を目(なづ)けて曰(いわ)く、日本は浦安国(うらやすくに)、細(くはし)戈千足国(ほこちたるくに)、磯輪上秀真 国(しわかみのほつまくに)」とあります。「浦安国」の「うら」は心を意味し、「安国」は安らかに治まる国、泰平の国の意味であり、『延喜式祝詞』の「祈 念祭」には、「四方(よも)の国を安国と平らけく」とある。国の内外の平和を祈る言葉として、「安国」が使われています。
 「浦安国」とは、古の日本を意味します。神祇の安寧慰撫と国の平穏無事 を祈り現在でも「浦安の舞」は各地の神社の例大祭などで舞われていす。靖国神社の名称を「安国」ではなく「靖国」と表したのは、わが国では重要な漢語は、中国の古典に典拠を求める慣習により、『春秋左氏伝』に、「吾は以て国を靖んずるなり」「以て国を靖んぜんと曰へり」とあり、これが出典とされています。 
このように、「靖国」という名称には、平和への願いが込められている。命名は、明治天皇陛下によるとされています。
  
靖国神社とは別に、千鳥ヶ淵戦没者墓苑がある。東京都千代田区にあり、靖国神社からは徒歩5分ほどの場所である。
千鳥ヶ淵戦没者墓苑は、国立の合葬墓地として昭和34年(皇紀2619年)に建設されました。ここは昭和12年に勃発した支那事変以降の戦没者を対象としています。戦没者の遺骨のうち、名前が解らなかったり、あるいは名前は分かっていても遺族が解らないため引き取り手のなかったりする遺骨を収容しています。
記 事の冒頭にもありますが、靖国神社は、明治維新以来の内戦・事変・戦争等で亡くなった人々を対象としています。千鳥ヶ淵戦没者墓苑は墓であるから、遺骨が 納められているが、靖国神社には遺骨は納められていません。位牌もなく、戦没者の氏名が記載された霊璽簿(れいじぼ)が置かれているいます。遺骨は各家族 が自家の墓地に納め、位牌は主に家庭の祭壇で祀っています。
靖国神社は遺骨を収容する場所ではありませんから、別に氏名・遺族不明の戦没者のための墓苑が必要です。千鳥ヶ淵に埋葬されている人々の霊も靖国神社に祀られている。それゆえ、靖国神社と千鳥ヶ淵戦没者墓苑は、どちらも必要な施設なのです。
筆者の住んでいる姫路市にも、護国神社があります。
護国神社は全国各地にあります。これは、東京招魂社を前身とする靖国神社とは別に、各地方の藩などが創建した地方招魂社を起源とします。
上記の桜山神社とは別に山口県では護國神社があります。
靖 国神社と護国神社は、本社と分社の関係ではありません。分社とは、本社以外にその分霊を分け祀った神社をいいます。しかしながら、靖国神社と護国神社は、 ともに国事殉難者の霊を祀っており、靖国神社は全国、護国神社は主としてその地域を対象としており、祭神を一部同じくするので、提携しながら、慰霊・顕彰 のための活動を行っているのです。
  
現在、靖国神社には、246万6千柱の御霊が祀られている。御霊は神社の祭神(さいじん)であり、柱という単位で数えられます。
祀られている人々のうち、特に多いのは大東亜戦争の戦没者であり、現在、213万3915柱です。現在も、新たに身元が判明した戦没者の遺族から合祀の依頼が続いています。
  
祀られているのは、軍人ばかりでなく、大東亜戦争に限ると、戦死、戦傷死、戦病死もしくは公務殉職した軍人、軍属、およびこれに準ずる者が、合祀の原則。軍属とは、軍人(武官)以外の軍に所属する文官・文官待遇者のことをいい、従軍看護婦なども含まれます。
 また軍人・軍属以外に、主婦、小中学校の児童・生徒、それに2歳にも満たない童女も、祀られている。
女性も約5万7千人含まれている。例 えば、沖縄から鹿児島へ強制疎開する途中、撃沈された輸送船「対馬丸」に乗っていた生徒達、沖縄戦のひめゆり部隊、白梅学徒隊、終戦後、「氷雪の門」で知 られる、ソ連軍の侵攻を内地に通報し自ら命を絶った樺太真岡(まおか)の女性電話交換手、ソ連軍の侵攻で虐殺された満州開拓の従事者といった人々も祀られ ています。
当時は日本国籍だった朝鮮人約2万1千柱、台湾人約2万8千柱も含まれています。
 
極 東軍事裁判で「A級戦犯」と断罪され、処刑された昭和殉難者も祀られています。わが国は、昭和20年(皇紀2605年)8月15日昭和天皇陛下の「ご聖 断」により戦闘は停止しましたが、昭和27年4月28日に主権を回復するまでは、引き続き国際法上の戦争状態にあり、極東軍事裁判以外にも「B・C級戦 犯」の軍事裁判が国内外で行われました。この時期に連合国によって有罪・処刑された者は、公務に殉職した法務死と国が決議しました。その基準に基づいて、 昭和殉難者も合祀されています。
 
戦 没者の慰霊・顕彰は、どこの国にみられる普遍的儀礼です。どこの国でも、祖国を守るために命を捧げた人々に敬意を表する場所があります。アメリカのアーリ ントン国立墓地、イギリスのウェストミンスター寺院、台湾の忠烈祠、韓国の国立墓地等、形は様々ですが、国民の魂のより所ともいうべき場所になっていま す。
 
慰 霊の方法は、国によってその国の宗教的伝統に基づいて行われています。アメリカのアーリントン国立墓地には、「無名戦士の墓」があり、その前で年3回、大 統領が参加して、ユダヤ・キリスト教式の戦没者追悼式を行っています。戦没者の中に、ユダヤ・キリスト教以外の信者が含まれていても、国家による公的行事 として行われています。異教徒であっても、国家の行事として、アメリカ国民は受け容れています。国民として当然だからです。
わが国においても、儀礼である戦没者の慰霊が、国家による公的行事として行われるべきであり、また、国家が靖国神社を護持するのは当然です。単一民族である我国は、独自の宗教的伝統に則って行うべきです。
 
 
 
 
投稿文字数に制限がありますので、次回に続きます。
 
 
 
 

  
 
 

転載元 転載元: 美しい国

 

 


反日日本人(五)

2011年09月14日 22時21分31秒 | 現代日本

美しい国からの転載です。今回は日教組について述べられています。日教組の教員の中には、異常な思い込みや、生徒の一部への異常な敵視、またそれによる異常な行動が見られる教師もあります。こんな先生にたまたま当たった生徒は、時には登校拒否に陥り、時には転校を余儀なくされ、あるいは進路を妨害されてしまいます。このような生徒の人権を踏みにじる人間が、自分の都合よく人権という言葉を振り回すことに、本当に違和感を感じます。


過去記事参照 ↓↓

密室の中の独裁者  偏向教師が女子中学生を登校拒否にまで追い詰めた記録

 

 
 
 
日教組(にっきょうそ)というのは、日本教職員組合の略で、 日本最大の教職員労働組合です。
日教組は、GHQによって、作られました。GHQは、勇敢で聡明な日本人の団結を弱め、 愛国心やモラルを剥奪することによって日本人を骨抜きにし、日本を弱体化させるため 、日本の歴史と道徳を抹殺しようと企てました。アメリカは、日本の進出によって欧米列強がアジアに築いた植民地や権益を奪い取られたことを恨み、また蔑視の対象であった東洋の小国が大国アメリカを敵に回して果敢に戦ったことを恐れ、  日本が二度と脅威とならないよう徹底的な「精神的武装解除」をおこなった のです。
まず、それまで教育界で重きをなしていた教職員を1946年(昭和21年5月)公職追放します。
そのためには、教育の現場で、占領政策にしたがって、従米的反日的な教育を実行する日本人が必要です。そこで、それを担う教師を組織する労働組合を創出しました。それが日教組です。
1945年(昭和20年)12月の連合国軍 最高司令官総司令部(SCAP)の指令に基づき、全教(全日本教員組合)・教全連(教員組合全国同盟)などの教員組合が発足。 日本国憲法の公布(1946年11月)/施行(1947年5月)・教育基本法制定(1947年3月)に呼応して、全教・教全連などが、1947(昭和 22)年6月、日本国憲法/教育基本法の理念普及と、階級闘争を運動方針とする統一的な教員組合として日教組を結成。マルクス主義歴史学者の羽仁五郎が代 表に就任しました。
後にGHQはこれを後悔してアカ狩りに転じるのだが、まだ庇護の対象であった社会主義者はGHQの後ろ盾を得て、猛烈な勢いで情宣活動を開始する。
 
「広く全日本および全世界の労働者農民諸君と手をたずさえて我国に残存するあらゆる悪秩序と闘い、これを徹底的に打破して、豊かな民主主義教育・文化の建設に邁進することを厳粛に誓う」(1947(昭和22年)年、日教組結成大会での宣言)

もはや労働組合の域を脱し、政治結社のようなものです。
日教組が発足する前年の1946(昭和21年)年から約十年間は、過激な自虐贖罪教育が徹底的に行われた時期で、この期間に学童/学生期間を過ごした者は、現在に至るも非常に偏った反日的思想傾向を持つとされ、所謂、団塊の世代です。
一部の団塊の世代は、日本の社会主義化を目指して、後に安保闘争へと突き進んでいきます。
55年体制がスタートした、1955(昭和30)年頃から教育正常化運動が始まり、ようやく日教組の横暴に歯止めがかかったが、その影響力は現代に至るまで長く続いています。
日教組 は、社共両党の影響の下で、教育の場で、労働組合運動、社会主義運動を行ってきました。日教組は日本の社会主義化を目指して、青少年の洗脳を担ってきまし た。その影響には重大なものがあります。発足当時は、100%近い高い組合加入率でしたが、近年は30%前後と下ってきてはいるものの依然として侮りがた い組織力があります。
しかも、解放同盟とも連携しています。
解放同盟はヤクザと関わりが強く、元公安調査庁第二部長の菅沼光弘氏は  「日本のヤクザの60パーセントが(解放同盟)である」 と明言しています。
 
人権、平和を高らかに叫ぶ日教組ですが、教え子たちに拉致事件にはなぜ口を閉ざします。
それは、日教組が社会党と同じく、革命を唱え、北朝鮮を賞讃しているからです。
産経新聞の阿比留瑠比氏は、自身のブログで、
ミスター日教組と呼ばれた槙枝元日教組委員長のことを次のように述べています。
 
 
 
この人は、 日教組の委員長を12年間も務めた その世界では有名人ですが、現在の知名度はどうなのでしょうか。いろいろなエピソードがありますが、とにかく 北朝鮮のことが大好きだった ようで、1974年の著書「チュチェの目、朝鮮を訪ねて」の中で、次のように書いています。
《この国には泥棒がいない。泥棒とは、富の片寄ったところに発生する。この国には、泥棒の必要がないのである。泥棒も殺人犯もいないから、警察官もいない》
ある時期、北朝鮮をユートピアであるかのように礼賛した人々がいたようですが、その典型的な1人だったのかもしれません。 1991年には、北朝鮮から「親善勲章第1級」も授与されています。 まあ、日教組の関係団体には、 日本教職員チュチェ思想研究会連絡協議会などというところもありますしね。槙枝氏は、わずか5年前の2002年2月には、「金正日総書記誕生60周年祝賀」に寄せて、こんな文章も書いています。
《わたしは訪朝して以降、 『世界のなかで尊敬する人は誰ですか』と聞かれると、真っ先に金日成主席の名前をあげる ことにしています。(中略)主席に直接お会いし、朝鮮人民が心から敬愛し、父とあおぐにふさわしい人であることを確信したからでした》(「キムイルソン主義研究」第100号)
拉致事件のことなどは、まったく頭になかったのでしょうね。なんだかなあ、という感じです。…話がずれましたが、私が槙枝氏にインタビューしたのは1995年8月11日のことでした。当時、 村山政権下で日教組と文部省が歩み寄り 、日教組執行部が「日の丸・君が代強制反対の棚上げ」「学習指導要領の是認」などの運動方針を打ち出していたので、果たして日教組は変わるのかについて見解を聞いたのです。結果は、まあ国会開会中の国会前に座り込んでいる教育労働者の姿を見れば分かることですが。
 
 
ソ連・東欧での共産主義体制の崩壊、地上の楽園と鼓舞し、賞讃した北朝鮮も経済は破綻し、日教組への新規加入者が減り、勢力は後退しました。しかし、今日もなお、一部の組合員たちは共産主義そのものへの根本的反省を行っていないようです。
イ ギリス・イタリアでも議会主義的左翼政権の結果は、総じて経済活力の喪失、国家の「病」の悪化、青少年犯罪の増加、無気力・無職能の若年失業者の増大を生 みました。共産党という名称も、多くの先進国では消え去りました。しかし、教育界においては、今なお、歴史の法則的必然性によって資本主義の次の段階には 社会主義が実現する、という旧観念が根強く保たれているのです。
  そして、今日も、日教組の一部の頑迷な教師たちは、青少年に旧観念を教え込み、反日日本人を製造しています。
   
 
戦 後日本を占領したGHQは、占領初期において、こうした反日日本人を誕生させることによって、日本を弱体化しようとしました。そして日本人が分裂し、自ら 自国の国益に反することをするように、日本の社会に仕掛けを行いました。但しそれは、米国の国益を損ねない限度においてであったはずですが、しかし、一 端、誕生した反日日本人は、米国の思惑を超えて成長・増大し、想定外となったのです。その大部分は旧ソ連や共産中国を利する勢力となりました。その一方、 占領政策や共産主義の謀略に目覚め、「国際常識としてのナショナリズム」を取り戻した人々が、インターネット等の普及により、闇の部分が明るみになり、近 年は増えてきてはいますが、道のりは遥か遠いです。
 

転載元 転載元: 美しい国


尊皇愛国人ー坂本龍馬

2011年09月14日 14時19分08秒 | 歴史

サイタニのブログからの転載です。幕末が非常な国難であったことは、日本人は自国の歴史としてもっと認識しなくてはいけないでしょう。単に学校で習った知識で、ペリーの軍艦を見てびっくりした日本が右往左往して、末期症状をあらわしていた幕府を不平をもった下級武士が倒したというように思っている人もあるようです。

しかし当時世界の情報はけっこう正確に日本に入ってきており、支那がアヘン戦争でイギリスにやられた話や、植民地にされたアジアの国々の情報などがもたらされていて、武士たちは危機感を抱いていたのです。孝明天皇はこの国難を非常に憂慮されて、石清水八幡宮に行幸して祈願されましたが、その際元冦以来、二度目の金銀の御幣を奉納されました。それほど、危機感は切迫したものだったのです。(ちなみに三度目の金銀の御幣奉納は今回の震災後に、今上陛下が奉納されました)

そんな国難に、NHKが放送した坂本龍馬像のような民主的な開明主義の龍馬、そのような維新の志士たちで、本当に乗りきれたでしょうか。もしかすれば、自分の国が植民地にされかねないという時に、狡猾な西洋列強が日本を狙っていると考える時に、西洋的な自由平等を掲げた民主主義、その思想が個人を大切にする素晴らしい思想だというだけで、国家を救うことができるでしょうか。

吉田松陰も多くの志士も、もちろん龍馬も、自分が捨石として死んだとしてもこの国を守りたいという強い愛国心が志士たちの心を結集させたからこそ、維新はほとんど内乱に陥ることなく達成できたのです。この志士たちの心を結集させ、更に幕府側さえも、大政奉還に応じる気持ちにさせたものこそ、尊王愛国の思想です。

 


平成の国難を乗り超えるもの
日本の偉人、先人の生き方に学ぶ
 
                            日本政策研究センター主任研究員
                                岡田幹彦
尊皇愛国人ー坂本龍馬
 
私はよく維新の志士の一人、坂本龍馬をとりあげます。龍馬は昨年のテレビでも
大変な人気でしたが、NHKの創る坂本龍馬像は、当世風坂本龍馬、民主主義
者龍馬、開明主義者龍馬になっています。これは大間違いです
 
坂本龍馬の本当の姿はそんな所にはありません。
龍馬の本当の精神は尊皇愛国です。龍馬の真面目をあらわす言葉は、
次の手紙の中にあります。

この数ならぬ我々なりと、何とぞして今上(きんじょう)様(孝明天皇)の御心を
安めたてまつらんとの事、御案内の通り朝廷というものは国(土佐藩)よりも
父母よりも大事にせんならんというはきまりものなり
 
すごい言葉です。何よりも大切なお父さん、お母さん、そして当時侍にとって
全ての全てであったお国、藩ですが、それらと比較を絶して大切なご存在が、
天皇・ご皇室であるというのです。
 
 
この天皇、ご皇室を戴いて、龍馬は祖国日本を守り抜くために、いのちを
捧げたのです。
 
その坂本龍馬が一番尊敬した人物は楠木正成です。維新の志士達は例外なく
楠木正成を尊敬しました。また龍馬は、和歌をこよなく愛し自ら詠んでいます。
「新葉和歌集」が座右の書だったのです。
 
 
この「新葉和歌集」は、後醍醐天皇をはじめ吉野朝方の天皇と、吉野朝に尽くした
臣下達の赤誠の和歌集です。この新葉和歌集の代表的名歌が、編者でもある
後醍醐(ごだいご)天皇の皇子宗良(みこむねなが)親王の歌です。

君のため世のため何か惜しからむすててかひあるいのちなりせば
 
天皇陛下のため、この日本の国のため、自分のいのちを捧げることこそ自分の
本望、本懐であるということを歌ったのです。
 
これが坂本龍馬の心であり、同時に維新の志士達の心であったのです。
本当の日本人の心です。

天皇・ご皇室を上に戴き仰ぐ天皇国日本を守り抜く。この精神のある限り
平成の危機も必ずや乗り超える事が出来ると確信いたします。

転載元 転載元: サイタニのブログ

 

 


日本人が忘れてきたこと、「修身」について

2011年09月14日 02時42分04秒 | 無題

さくらの花びらの「日本人よ、誇りを持とう」からの転載です。戦後のGHQによる占領政策が、全くの善意であるように日本人は思い込まされました。GHQが恰も日本の古い封建思想から日本人を解放した救世主のように洗脳されて、教育もそういう教育をするように命令されて、それが独立後もずっと今に至るまで続いています。

しかしアメリカが二度と日本がアメリカにとって強敵とならないように、また復讐して来る事のないようにと、用意周到に考えられた日本弱体化政策が取られたのは、ハッキリと記録に残る事実です。そして、そのためにウォーギルトインフォーメーションプログラムと名付けられた自虐史観を叩き込む政策を行なったのも事実なのです。

その国の歴史、地理を学ぶことはその国を愛する心を養うことです。また日本の修身は更に歴史、地理を補う授業であり、より詳しく先人を学び、日本人らしい道徳、生き方を学び、高い人格を目指す教育でした。滅私奉公ということが、戦後はあたかも非民主的なことであり、国家のために個人を犠牲にするための教育のように悪く言われて否定されましたが、実際に滅私奉公というのは、よほど強い人格を身につけた人しかできないものです。西洋社会がイエスの生き方を礼賛するならば、この滅私奉公こそ、そのイエスの生き方に相当するものです。

日本人の滅私奉公という美徳は、日本の国家だけでなく、外国に移民した人などが、その国の現地の民族の生活に貢献しようと、私財をなげうって貢献したという例も多くあります。

それが侵略戦争に利用されたというのは、アメリカなどの連合国からの視点であり、侵略戦争ということ自体が、アメリカの押しつけた史観です。人がその国ために命をも投げ出すというのは、「人その友のために生命を捨つる、これより大なる愛はなし」とイエスも言っていることと同じです。

自分たちの都合のいい史観を日本人に植えつけて、日本の歴史地理修身の授業を廃止させるなど、占領軍がやったのは明らかに国際法に違反したことです。更に自分たちにいいように書き換えた歴史地理を教育するように命令したのですから、本当に悪質な占領政策であり、日本弱体化を目指したものであることは、冷静な目で検証すれば一目瞭然のことなのです。いまだにそれがもとに戻せないのは、それを戻させないようにしている反日日本人の存在があるからです。「美しい国」から転載した記事にもあったとおりです。



 

修身について 
 
 
修身について八木秀次氏がいいことを書いています。 
一部加筆して掲載しておきます。 
・・・・・ 
 
「修身」は戦前の教育にあったものです。 
大東亜戦争後の昭和20年10月22日、 
GHQは『日本教育制度に対する管理政策』という第一の指令を手始めに、 
次々教育に関する指令を日本政府に命じました。
これらの指令は軍国主義教育の解体を目的としたもので、極端な国家主義、神道主義、
軍国主義教育の禁止と教材の排除、それらの提唱者と実践者の教職からの追放、
民主主義教育の奨励、自由主義者や反軍国主義者の復職を命じたものでした。
 
さらに12月31日、GHQは日本政府に『修身、日本歴史及び地理停止に関する件』という指令を出し、
修身、国史(日本歴史)、地理の授業停止とこれらの教科書の回収を厳命しました。
教科書は地区ごと回収され、中央に送られた後、全て廃棄処分にされて製紙の原料となりました。
その後、地理と歴史はGHQの承認を得た教科書が作成されて授業が再開されましたが、
修身の教科書は編集さえなされませんでした。
 
修身はこのようにして葬り去られ、その後、日本の教育ではまともに取り扱われることはされませんでした。
GHQ同様に日本人自身も「修身」を国家主義の軍国主義のイデオロギーの宝庫とみなし、頭ごなしに否定してきました。
しばしば修身教育の復活ということが恐れられ、道徳教育さえ忌避されました。
その結果、学校の「道徳」の時間はホームルームと化し、
ある場合には「同和教育」や「人権教育」、「平和教育」の名のもとに日教組の教職員やそれと連携関係にある民間団体のイデオロギーを子供たちに教え込む時間となったのです。
「道徳」をあえて「人権」と言い換えている学校もあったくらいです。
道徳を「価値観の押しつけ」、「強制」だとと、くだらない理屈をつけて教えたがらない教師たち。
そういう教師に限って自己中心で我がままで、自分の価値観は子供たちに押し付けているのです。
 
「修身」は日本人が思うほど怖いものでしょうか。
多くの人は修身の教科書さえ見ないまま修身を恐れているのでしょう。
修身の題材は今まで記事で書いてきたように我が国の歴史から採られているものが多いのです。
我が国の歴史の中には活きた教訓や愛情があふれています。
その多くは感動的な話が多く、日本人として我が国に自信と誇りを持つことができます。
それが子供たちの夢や希望、勇気となるのです。
それほどまでに先人達は自らを律し、正しい生き方のためには命を賭けて生真面目に向き合ってきたのです。
 
修身の廃止とともにこれらの立派な話は消された現在の日本。
今の子供たちは自分が「こういう人間になりたい」という具体的な人物像を失っているといいます。
戦後のある時期までは修身に変わって努力、忍耐、勇気、責任、友情、根性などの大切さを子供たちに教えていたのはスポーツ漫画でした。
それが80年代以降は「まじめの崩壊」と言われ、努力、忍耐、責任、勤勉、根性など大真面目に語ること自体恥ずかしいこととされたのです。
その結果はどうだろうか。
 
今日の教育荒廃の原因にはさまざまあるはずです。
しかし、その大きな一つに子供たちの個性や自主性を強調するだけで、
努力や忍耐、責任、勤勉などの徳目を含む道徳教育を怠ってきたことがあることは間違いないはずです。
子供たちは「尊敬できる人格」や「優れた人格」を示されることなく、
マスコミを通じて「崩れた姿」ばかり見せられているのです。
すでに子供の親たちにさえ道徳やモラルの欠如は甚だしい限りです。
戦後消された真実の「歴史」とともに「修身」を教育に取り戻さなければいけないのではないか。
・・・・・
  
「ふくしゅう」
 
よい日本人になるには、忠義の心を持たねばなりません。
   
お父さんやお母さんには孝行を尽くし、兄弟とは仲良くし、友達には親切にし、
   
召使いを憐れみ、近所の人にはよくつきあわねばなりません。
   
何事も正直で、心のとがめるようなことはせず、
   
勇気があって、辛抱強く、物事にあわてんようにし、
   
自分のことは自分でし、そして、難儀をこらえねばなりません。
   
また、体を丈夫にし、倹約を守って、仕事に精を出さねばなりません。
   
その他、礼儀を守り、自慢をせず、恩を受けては忘れんようにし、
   
人をそねむようなことなく、度量を大きくし、人のものを大事にせねばなりません。
   
かように、自分のおこないを慎んで、よく人にまじわり、
   
その上、世のため人のために尽くすように心がけると、
   
よい日本人になれます。
   
(第一期(明治三十七年)尋常小学第三学年より)
 
 
 

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