小さな自然、その他いろいろ

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神社のお話(一)

2011年09月25日 14時36分12秒 | 歴史
美しい国からの転載です。農耕民族としての日本人の古来からの伝統習慣がとてもよくわかる記事です。

日本における稲作は、以前は、弥生時代に始まるとされていましたが、近年はすでに縄文時代に稲作が始まっていたという説が有力です。最近では「2005年、岡山県彦 崎貝塚の縄文時代前期(約6000年前)の地層から稲のプラントオパールが見つかり、縄文中期には稲作(陸稲)をしていたとする学説が出た。それに加え、 極東アジアにおけるジャポニカ種の稲の遺伝分析において、朝鮮半島を含む満洲からジャポニカ種の遺伝子の一部が確認されないことなどの複数の論拠から、水 稲は大陸(中国南部以南)から直接伝来したとする学説(対馬暖流ルート・東南アジアから南方伝来ルート)が見直されている。」そうです。
紀元前3世紀ころには、稲作が広く伝播して、国家形成と相まって、人口増加が始まります初代・神武天皇は九州から東征して、大和の地で即位したのですが、その過程で瀬戸内海の各地に長期間留まり、農業や漁業などを教えながら、移動したと言い伝えられているそうです。日本語には、稲作と関連した語源を持つ言葉も多いことですし、稲作は日本文化の根底をなすものであることは確かでしょう。

 

 

 

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伊勢神宮(内宮)
 
 
古来より我国は神の国です。
日本に昔からあった先祖まつり、春分と秋分の日を、中日とした七日間を彼岸といいます。
日本人にとって、「死ぬ」ということは、仏教で説いているように、十万億土 (おくど)のかなたに消え去っていくということではなく、死後人はやがて祖霊(それい)となり、さらに祖先神(そせんしん)へと昂(たかま)っていき、こ の世の子孫の生活を見守っていて下さると考えてきました。

多くの方々がお墓に詣で、ご先祖さまに感謝され、弔(とむら)われたことでしょう。
お墓参りは、ご家族みんなで出かけましょう。お墓は家族全員でお守りしていくべきものです。両親がご先祖様を祀る姿は後の世代に受け継がれてゆくことでしょう。
「祖先の神があってこそ生まれ出た自分、その自分もやがては祖先の神のもとへと帰っていくのだ。」というのが、日本人の昔からの考えかたです。
 
9月23日宮城(皇居)では秋季皇霊祭・秋季神殿祭でした。
畏くも天皇陛下、皇后陛下、皇族方におかせられましては、皇室の祖先、天神地祇(てんじんちぎ)の神々に祈り遊ばされました。
 
天神地祇(てんじんちぎ)とは、すべての神々の総称です。
天神地祇は二つのグループに分類されます。
皇祖、天照大御神 (あまてらすおおみかみ) の命をうけて、高天原から地上に降りたとされる(天孫降臨)瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)と天降った神々の総称を、天神(あまつかみ)、地祇は初めから葦原 中国(あしはらなかつくに)に誕生した神々の総称を地祇といいますが、高天原から天降った素戔男尊(すさのおみこと)の子孫である大国主神(おおくにぬし のかみ)などは国津神とされています。すなわち皇室は国のすべての神々を祭祀されておられるのです。
 
 
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出雲大社

 
我国の神々は、、『古事記』(こじき)や『日本書紀』(にほんしょき)に記載され、神社におまつりされている神々だけが、その全てではありません。
八百万(やおよろず)の神々がいらっしゃるといわれます。八百万とは、数え切れない程たくさんという意味です。八百八で「やおよろず」と読みます。
水の都大阪は、八百八橋、東京のことを、花の大江戸八百八町と呼びますが、これらも実際の橋の数、町の数ではなく、それだけ多いことを意味します。
 
四季の移りかわりに敏感に反応しながら生活のいとなみを続けてきた私たちの祖先は、農耕民族として太陽や雨などをはじめ、自然の恵みは、何よりも大切にしました。
自然界に起こる様々な現象、天変地異、それを神さまの仕業として畏(おそ)れ敬(うやま)ったことに信仰の始まりがあります。そして自然をつかさどる神々は、私たちの生活のすべてに関わる神として、人々に崇(あが)められるようになったのです。
例えば、山の神は、生産をつかさどる神です。それもありとある全てのものをつかさどっているといえます。なぜな ら猪、鹿などの獲物や山の樹木、銅や鉄、田を潤す水に至るまで、山からもたらされるものは全て山の神のお陰だと祖先は信じ、崇めてきました。狩猟や林業、 炭焼きなど山仕事をする人々にとっては、大切な生活の糧(かて)を与えてくれる神として厚く信仰されています。また、田の神と山の神は同じ神さまだともい われ、山の神は春になると人里に降りて田の神となり、稲を守り豊穣(ほうじょう)をもたらし、秋に収穫が終わると山に帰ると信じられています。
山におられた田の神さまが 春が訪れあたたかになる頃になると山から里の降りてきて桜の木のてっぺんにお座りになられます。
そして・・・「さぁ~~里の民たちよ 稲作の準備をするのじゃ」 と民たちに
お知らせするために桜を咲かせられるとも言われています。
さくら の 「さ」は 稲  「くら」 は 神座(かみくら)のくら で神さまがお座りになるところで、「さくら」 は田の神さまが宿る木と言われ、日本人が太古より桜を愛でた淵源とも言われています。
 
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日本三大桜の一つ山高神代桜、推定樹齢は1,800年とも2,000年とも言われ、日本武尊(ヤマトタケルノミコト)が東征の折に植えたと言われています。(山梨県北杜市武川町山高)
 
日本の農村において桜というものは、農事暦(カレンダー)の役割を果たしてきた。花芽が出る頃、花が咲く頃、花が散りはじめる頃、葉桜となる頃、それぞれに稲作作業の工程と結び付いているのです。
春先、桜の枝に花芽が見えると、田んぼを掘り起こし水が張られる。そこが苗床(なえどこ)となり、種籾(たねもみ)が蒔かれ、稲の苗が生育するのである。やがて種まき桜が開花し、花が散り始める頃、田植えが行われ、秋口まで続く稲作がはじまるのです。
 
五穀とは、古事記のおいては、稲・麦・粟・大豆・小豆をいい、日本書紀においては、稲・麦・粟・稗・豆をいいます。
それらが豊かにみのることを五穀豊穣といいます。
地方によって収穫の時期は違いますが、神々に五穀豊穣を祈るまつりがあり、五穀豊穣を神々に感謝するまつりが秋まつりの淵源です。
「秋祭り」は、「収穫祭」を意味しています。春から稲の成長を見守って下さった田の神に、苦労をねぎらい感謝を捧げるお祭りをします。
古来より「豊葦原瑞穂國」と称された我が国は、稲をはじめ穀物が実り豊かに実る国として遠く神話の昔よりお米で以って文化・伝統を育んでまいりました。
 
10月17日に宮中および伊勢神宮で行われる。五穀豊穣の感謝祭が、神嘗祭です。
神嘗祭(かんなめさい)とは天皇陛下がその年に収穫された新穀(しんこく)(初穂)を神宮に奉納され大御神(おおみかみ)さまの御神徳に感謝申し上げる重要なお祭りです。伊勢神宮の神職や伊勢の神領民はこの祭りが終わるまで新穀を口にしないといわれています。

11月23日にも、畏くも天皇陛下が五穀の新穀を天神地祇(てんじんちぎ)に勧め、また、自らもこれを食しあそばされ、、国民のため、その年の収穫に感謝あそばされる。宮中三殿の近くにある神嘉殿にて執り行われるのが新嘗祭(にいなめさい)といいます。。
現在のような、お金の流通が主でなかった時代、その年の収穫物は国家としてもそれからの一年を養う大切な蓄えとなることから、大事な行事として皇極天皇の御代に始められたと伝えられています。
現在でも、稀であるが、新嘗祭まで新米を口にしない風習も残っています。
 
神宮のお祭りの本義は、天皇陛下が親しく天照大御神をお祭りされるところにあります。また畏くも今上陛下が宮城で自ら稲作をあそばされ、その年の初穂を天照大御神に奉納され、ご神徳を称え奉り、ご神恩に奉謝されるとともに、そして「国平らかに、民安かれ」と祈られます。
 
次回に続く・・・・・
 

転載元 転載元: 美しい国

 



日教組、左翼マスコミが絶対に教えたくない人物 「楠木 正成公」

2011年09月25日 02時00分11秒 | 歴史

サイタニのブログからの転載です。「忠」という道徳は、昔の日本人には、最高の道徳と考えられてきました。現代人は、そんな忠だとか、孝だとかいう観念は、封建時代の遅れた古臭い考えのように思うようです。しかし、詳しく歴史を読んでゆくと、その時代に生きた人々の「忠」という誠心誠意の姿勢は、現代人には思いも寄らないくらいの強い精神力であり、圧倒されずにはいません。楠木正成とその一族の純忠を貫いた生き方は、戦前まで多くの日本人に、その美しさを心に焼き付け続けました。維新の志士たちが皆心に楠木正成を理想像として抱いていたことを御存知でしょうか。先日も坂本龍馬が最も尊敬する人物が楠木正成であるという手紙を書いていたという話を聞きました。そんな楠木正成も、戦後は歴史から消されて、習うことも、耳にすることさえほとんどなくなりました。

「七生まで只同じ人間に生れて朝敵を滅ぼさばや」と言いましたが、仏教では、臨終にあたっての執念が、後生の善悪の原因になるということで、妄念とされていますが、太平記では、その考え方をとらず、この章を「正成兄弟、節死する事」と記して、節に死する本懐の生き方と教えています。ここには日本人の国民宗教とでも言ったらいいほどの、美学が感じられます。

 

 

「七生報国(しちしょうほうこく)」
 
  
七度(ななたび)までも、ただ同じ人間界に、生まれ変わって、
国のため世の中のために力を尽くす
 
  
楠木正成(くすのきまさしげ)は天皇を守るため、ただ一人、千早城(ちはやじょう
)で幕府軍と戦い続け、「建武中興」への道を開きます。そして、正成(まさしげ)
正季(まさすえ)兄弟が最後に残した「七生報国」の精神は、時を超えて、その後
国を守るため命がけで起ち上がった人々の心の支えとなったのです。

楠木正成公(くすのきまさしげこう)が歴史上に登場されるのは、元弘元年(げん
こうがんねん)(一三三一年)九月、後醍醐天皇(ごだいごてんのう)に召(め)
されて笠置山(かさぎやま)に参向(さんこう)、深い信任を受け、身命を賭(と)
して国の大事に処(しょ)する決意を表明されたのに始まります。
 
そして延元元年(えんげんがんねん)(一三三六年)正成公が湊川(みなとがわ))
合戦で足利氏(あしかがし)を迎え撃ち、衆寡敵(しゅかてき)せず、遂(つい)
に敗れて、七生滅賊(しちしょうめつぞく)を誓って亡くなる迄の間が、正成公の
歴史上の一生といえます。「太平記」は、この六年間という正成公の短い生涯を、
純忠至誠(自分の欲がない純粋な忠義とまごころ)で終始した史上最高の人物として
称賛を惜しまないのです。
 桜井の別れ
 
太平記で良く知られた「桜井の父子の別れ」は、戦前青少年がよく歌った、青葉茂
れる桜井の、の歌と共に、多くの日本人に感動を与えた名場面です。正成公は、
その子、正行公(まさつらこう)に対して、
 
  
自分の死後も、なお帝(みかど)のために忠誠を励み、一家一族の
安全や栄達を望んではならない、と諭(さと)されます。自らの功名功利
(てがらや利益)だけでなく、子孫にも望まない純粋さであり、殉じても只々
大義(人の踏み行うべき大切な道)を貫き通すのみとする純忠そのものだった
のです。
 
 
更に太平記では、正成公の最後を記して
  
  
「智(ち)・仁(じん)・勇(ゆう)の三徳(さんとく)を兼ねて、
死を善道に守るは、いにしえより今に至るまで正成ほどの者は、
いまだ無かりつるに」
  
  
 と、人として最善の道を守るため、死をも省みない、そんな正成公ほどの人はいない
というのです。
 
笠置山で帝に決意のほどを示されてより、寝返りや逃亡などが常套手段(じょうとう
しゅだん)の時代に、戦いの勝敗も功業(てがら)を無視して、ひたすら自らの
信条に徹して、湊川の戦いに散っていかれた正成公の忠誠(ちゅうせい)の純粋
さに、日本人は感動しました。そしてこの精神が正行公(まさつらこう)に継承
され、三世五十余年、正成公の遺志は固く守られ、悉(ことごと)く一族一門が
滅びることとなる悲史にその忠誠の典型を見て、強く心を打たれたのです。
 
 
日本の精神史上には、忠義、忠誠、或いは忠というのが、最も美しく貴いと
信じられてきた伝統があります。忠は、まごころ(誠心)をもって、相手の
ために尽くすことです。それも終始一貫、成し遂げるまでする。もし成功しな
かったら、たとえ生命を犠牲にしても惜しまない態度、これが、忠なり、と
すれば、おのれ一代だけでなく数代に亘(わた)って、自らの信ずるところを
貫き徹(とお)そうとした正成公の忠ほど、純粋無比なものはないと言えます。
功業の成否や大小でなく、純粋な忠の精神に徹することを貴いとし、日本人が
特に理想として称(たた)えてきたのが、この楠木正成公とその一門の人々の
忠であったのです。
 
一般人ではとうてい到達し得ない、まごころ、の人、それ故に正成公は、神に祀られ
たのでありましょう。私共として大切なことは、正成公ほどでなくても、誠をもって
、また、まごころを込めて、人と接し、仕事をし、人生を全うすること、そのことが
最も大切なことではないでしょうか。それには、まず、信頼される、ことが前提です
。行動をもって、自らが本当に人に、信頼される存在、となるよう努力することです
。そのことに心掛けたいものです。


                  湊川神社宮司 栃尾 泰治朗執筆より抜粋



注:この精神こそ、幕末の志士を動かし、日清、日露、大東亜戦争を戦った英霊の
  大和魂でしょう。占領軍や日教組が絶対にこれだけは教えたくなかったことだと
  思います。



転載元 転載元:サイタニのブログ