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警神たちへ・・

2011年09月30日 17時28分33秒 | 無題

美しい国からの転載です。今回の東日本大震災では、多くの殉職者を出しました。この方たちは、多くの人が逃げていく方向と逆向きに進んで行って、ひとりでも救える人を救おうと最後の最後まで努力された方々です。命をかけて職務を全うされた方たちです。ほんの少し早く職務を切り上げて逃げれば、逃げられないことはなかったでしょうに、まだ逃げ遅れている人がいると思うと、その方たちを見捨てては、自分が逃げられないお気持ちで、結局最後まで職務を遂行されたのでしょう。職務に対する誠実な日本人の心、これがこの災害で、たくさん見られました。自衛隊の方々もそうでした。まるで真岡交換手の方たちを思い起こさせるような未希さんの最後まで響いた放送の声、ほんとうに素晴らしい日本人魂でした。

この職務に殉職された方々の姿は、先の大戦で戦死された多くの英霊の方々の姿でもあったのではないでしょうか。硫黄島のお話は映画以来その実態が世に知られるようになりましたが、あのひどい状況で、自分の苦痛を長引かせるような、アメリカ軍への命の限りの抵抗で、本土への爆撃を遅らせ、疎開出来る人をひとりでも多くしようと時間を作り出そうとしたあの英霊達の思い、その姿と重なってきます。私たちは、冷静な気持ちになって、あの大戦で亡くなられた多くの英霊の方々を思い起こしてみる必要があるのではないでしょうか。勝者の歴史で塗り替えられた侵略者という汚名を拭い去って、あとに残るものを少しでも生き残らせ、将来生まれるもののためにと、国のために亡くなられた英霊の方々へ、感謝の心を捧げるべきなのではないでしょうか。


 

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花や飲み物の供え物が絶えない港町交番=岩手県宮古市
 
 
多くの同胞の生命と財産を奪った東日本大震災の発生から、もうすぐ7ヶ月になろうとしています。
震災発生直後、多くの警官、役場職員、消防署員、消防団員、民間人が一人でも多くの方々に助かっていただきたいと、自らの命も顧みず、避難誘導、救助等に命を賭されました。
それらすべての方々を民間人であっても、私は殉職と呼びたい。
人としての天命を全うされたのだと・・・・
殉職された方々にも家族はあっただろう。
最後まで、役場の放送で避難を呼びかけた女性職員もあったし、
命を懸けて、職務を全うした人が多いのに、今の国会を見ていると悔しさがあふれてきます・・・・・
今の政治家など瓦礫(がれき)以下だと・・・
 
昨日の産経新聞に、「警神」たちへ 無残な交番に感謝の合掌という素晴らしいコラムが記載されていたので引用したい。
 
「大きな津波が来ます。高台に避難してください」「津波が来ます。急いで避難してください」
 震災発生直後のようすをとらえた映像で、轟音(ごうおん)や悲鳴に混じって途切れ途切れに聞こえる拡声器の警察官の声が耳に残る。最後の最後まで住民に避難を呼びかけていた、あの警察官は無事でいるのだろうか。
 映像には、車のない港の堤防沿いの道を走るパトカーもあった。アナウンスしながら逃げ遅れた者がいないか確認しているようだった。あのパトカーは津波から逃げ延びたのだろうか。
                   ◇
 岩手県宮古市鍬ケ崎(くわがさき)の宮古漁港は損壊した跡は残るものの、魚の積み込み作業が行われ、活気が戻っていた。その傍らにある宮古署港町交番は今も無残な姿をさらしている。
 勤務していた2人の警察官は津波にのみ込まれ、殉職した。
 交番には花束が手向けられ、国旗が掲げられている。誰が津波で汚れた国旗を洗ったのだろう。
 「お勤め、お疲れさまです。安らかにお眠りください」。折り鶴とともに高校生のメッセージ。「鍬ケ崎のためにありがとうございました」という書き置き。 一つ一つ読んでいると、がれきの向こうから路線バスがゆっくりと走ってきた。前から2列目に座る老女が窓越しに交番に向かって、静かに手を合わせるのが見 えた。
5人体制の港町交番で、中村邦雄さん(54)と村上洋巳さん(43)は、その日非番だった。地震発生で2人は官舎から自主参集で署に上がった。制服に着替えた中村さんは家族に「じゃあ、行ってくる」と軽く声をかけた。
 2人は津波警報でごった返す署からパトカーで漁港周辺に向かった。小野寺勝善副署長は「自らの判断で持ち場の住民誘導を行っていたのでしょう」。
 中村さんと村上さんが激しい口調で高台への避難を呼びかける姿が多くの人に目撃されている。港に防潮堤はなく、第1波で周辺が浸水した。
 立ち往生した救急車から搬送中の病人を救助しているところを第2波が襲った-。
 3月14日パトカー発見、4月4日に村上さんの遺体が発見された。中村さんの遺体はいまだに見つかっていない。
 住民が供える花や飲み物が絶えぬ港町交番。すでに取り壊しが決まっている。
                   ◇
 2年前の夏、佐賀県唐津市肥前町高串の増田神社を訪ねた。JR唐津駅からレンタカーで山道を抜けると、目の前は海を挟んで長崎県だ。山にへばりついたよ うな高串は小さな漁港と温泉以外、何もないように思えた。中学生だろうか、釣り竿(ざお)を持つ男の子に増田神社の場所を聞くと、「『増田さま』は先の二 股を右です」と教えてくれた。
明治28(1895)年、新米の増田敬太郎巡査はコレラが流行していた高串に赴任する。当時は防疫も警察の任務だ。現場を一目見た増田巡査は感染拡大の原 因は隔離の不徹底と判断した。すぐさま感染者を隔離し、交通を遮断、誰も手を出そうとしない遺体を背負い、埋葬した。そして、赴任3日目に発病する。
 「村人の世話をするために来た私がかえってお世話になるようになり、申し訳ありません。高串のコレラは私が背負っていきますからご安心ください」。その翌日、増田巡査はこう言い残して死亡、25歳だった。
 遺言通りコレラは収束、以来、高串で伝染病の流行はなく、地元の人々は感謝の思いで巡査を神様とあがめるようになった。巡査を火葬した小松島は神聖な島とされ、漁師は島に一礼してから沖合に向かう。
 毎年7月の夏祭りでは、白馬にまたがる巡査の山車が繰り出される。最期まで住民の命を守る使命を全うした巡査は「警神」と呼ばれている。
                   ◇
 今回の震災で多くの警察官が警神となった。死亡・行方不明は宮城県警14人、岩手県警11人、福島県警5人。女性警察官もいる。多くは避難する住民の最後尾で任務を全うした。
 私たちは、父を失った子に、夫を失った妻に、子を失った父母に何ができるだろうか。神社とは言わないが、最後の任務をできる限り詳細に記録し、遺族に残しておきたい。
 「みんなを助けようとして最期まで『みんな逃げて』と叫んでいたんだよ。最期まで警察官だったんだよ」。遺(のこ)された幼い子にそう言い聞かせること ができるように。警察官だった父を、夫を、子を自慢できるように。いつまでも遺族や住民の胸に残る警神であってほしい。いくら感謝しても足りない一国民の 願いである。(将口泰浩
 
冒頭にも述べているように、震災発生直後の我身を顧みぬ尊い行動。
震災後も、自衛隊、海上保安庁、警察、消防、役場職員の決死の救助、捜索活動。
彼らの獅子奮迅の活躍は、世界からも賞讃されました。
それを支えたのは、「天命」であったとしか言葉が見つかりません。
 
戦後復興の歩みを半世紀以上にわたって見続けた政治評論家、三宅久之氏は、「日本人はつらい時にこそ耐え抜いて力を発揮する。東北は必ず立ち直る」と述べています、しかしこうも述べられています。
「だからといって政府が怠慢でいい訳がないじゃないか。敗戦から高度成長期、国民は政治を信頼し、政治家も一心不乱に邁進(まいしん)した」と、現在の政治状況に対し深い危惧を感じておられます。
 
「政治家としての良心に忠実に、大震災がもたらした国難に立ち向かう」
 9月13日、野田佳彦首相は臨時国会での所信表明演説の最初にこう述べた。
確かに言葉だけは頼もしい・・
しかし、三宅久之氏は、「今や政治家の言葉は鴻毛(こうもう)より軽い」と揶揄されておられます。
何度もぶれる震災の復興増税や脱原発などの政府方針、失言で就任まもない閣僚が辞任する茶番劇の繰り返しに、「政治家は自らの発言に責任を持たねばならない。これはいつの時代も変わらない」。
 
上述した、震災発生直後の我身を顧みぬ尊い行動をされた多くの方々、震災後復旧、捜索に天命を全うされた方々に、恥じぬ政治が行われる日が果たしてくるのでしょうか?
 そして、政治家だけではなく、日本国民すべてが、殉職された方々に恥じぬ行いをしなければなりません。
 
 
 
 
 

転載元 転載元: 美しい国