米国同時多発テロ・1年目のその日市民行進で現場に(2006.9.11)

2006-09-11 12:45:05 | Weblog

今日は、9月11日。書くまいと決めていたのですが、少しだけ書くことにします。
5年前の米国同時多発テロです。犠牲者の数とか、衝撃の大きさとかだけでなく、この日から、世界は大きく変わったように思う事件です。世の中、ほんとにすっかり変わりました。

5年前の今日、午後10時ごろ、私は、テレビをつけて食事をしていた。今思うに、水曜(平日)の、この時間に家にいることは不思議だった。ニュース周辺の仕事をしていたので、会社にいたら徹夜対応だったことは間違いない。すぐに会社に電話をして、朝までテレビを見ていたにすぎません。

この事件で知り合いに犠牲者がいたわけでもない。強弱はあるが、まきこまれた知人は何人もいる。日本で、非常時の消防への電話は119番。米国では、911番である。すなわち、9・1・1である。その日、携帯電話での非常時(911)対応について、米国事情視察と打ち合わせ会議を持ってワシントンにいた知人が、しばらくたって話してくれた。

半年ほどして、春に、私は仕事を失った。人生のリセットだった。そして大学4年生だった息子が、夏休みにユースホステルとグレイハウンド・バスを使う“アメリカ横断貧乏旅行”を計画しているのを知った。
私は、“9月11日には、ニューヨークにいろ”と言った。1年目のグランド・ゼロの現場にいたい、と思っていたのだ。日本のいくつかの音楽グループが、追悼というか、祈念というか、ニューヨークで時期をあわせてコンサートや集いを開き、参加者募集のうわさも聞いた。私は、ただの観光客で行きたかった。ニューヨークにいる知人にも連絡したくなかった。

8月16日。息子は、小さなザックを背負って出発した。サンフランシスコの入管で、かなりシボられたらしい。私がタイプした日程表に、“9月11日に、ニューヨークに集まる”ことを書いていたことも、原因だったかもしれない。あらゆる検査がきびしくなっていたアメリカだった。誰でも臆病になる初めてのひとり旅初日である、気分真っ青になっただろう。そして開放され、一挙にアメリカ慣れ・旅慣れしただろう。

9月7日。私は、日焼けした息子と合流した。グランド・ゼロの現場に立った。グリニッチ・ビレッジのフォーククラブのステージで歌いそうになった。ヤンキース・スタジアムにヤンキースの応援に行った。7回だったか総立ちで歌う“God Bless America”を直立不動で聞いていた。同時多発テロ1年目の9月11日前夜のことである。

 深夜ホテルに帰って、息子に言った。“明日は9月11日。4時起きで行進に参加するぞ”。行進は、5方向から現場に8時30分到着をめざす市民行進のひとつである。

まだ夜の明けない朝、私らは、窓を開け、バグパイプの音色とざわめきを聞き、ホテルを出た。6時ごろ、市民行進の中に入った。息子は、昨夜買ったニューヨーク・ヤンキースのTシャツを着ていた。紺色地にジータの背番号2は、ひときわ目立っていた。

 

*1;カットの写真は、庄和町(現春日部市に)に配られた2001年9月12日の朝刊13版です。モノクロ紙面がよけいに衝撃をさそいます。

*2;息子は、米国横断貧乏旅行中に、毎日絵はがきを書いて送ってきていた。私の別のブログ 地球あちこち旅あるき に、絵はがき(私信ですが)をそっくり、そして写真を載せてみました。4年前の旅行日と今年の掲載日を揃えてみようと思ったのです。