「境界に生きた心子」

境界性パーソナリティ障害の彼女と過ごした千変万化の日々を綴った、ノンフィクションのラブストーリー[星和書店・刊]

証拠認定の重大さ

2010年12月12日 00時21分16秒 | 死刑制度と癒し
 
 鹿児島夫婦強盗殺人事件では、 被害者宅の物色された場所のうち、

 一部からは 被告のDNAや指掌紋が 発見されましたが、

 他の場所からは見つかりませんでした。

 弁護側は、 偽装工作の疑いがあると 訴えています。

 僕は、 共犯がいて、

 被告は 何かかばっている可能性も あるのではないかと思ってしまいました。

 それはさておき、 今回の事件では、

 「被告が犯人でなければ 説明できない事実」 が ありませんでした。

 判決は、  「被告が犯人なら発見されるはずの 痕跡がない」 という、

 消極証拠も取り上げるべきとまで 述べています。

 まして 死刑が求刑されている 裁判であれば、 それも当然だと 僕は思います。

 ところが 今回の判決で、 有罪認定のハードルは 高くなったと言われます。

 ある検察幹部も、 状況証拠を積み重ねで 立証する事件では、

 これまで以上に 丁寧な立証が必要だと 述べています。

 ということは、 従来は 上記の当然の判断材料も

 充分に踏まえられていなかった ということでしょうか。

 だとすれば、 幾つもの死刑冤罪事件が 生まれたように、

 職業裁判官の裁判は 恐ろしいものですし、

 裁判員の 良識的な感覚による 判断が活かされるのは、 とても願わしいことです。

 一方、 争点を絞った迅速化を 危ぶむ声もあります。

 裁判員裁判では 公判前手続きによって、 提出される証拠も限定されますが、

 従来の精緻主義の裁判では、 重箱の隅をつつくような 裁判が行なわれていました。

 それが 裁判を長引かせる 原因になっていた反面、

 その重箱の隅をつつくことから、 初めて見えてくる 真実というのもあります。

 僕も、 裁判員制度が始まる前に 書いたことがありますが、

 精緻主義に与するものではあります。

 精密な事実認定と、 市民による迅速な裁判、 その狭間で揺れるものがありますが、

 両者のバランスを 保っていくべきなのかと思います。

〔 参考文献 : 読売新聞, TBS 「報道特集」 〕
 
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