「境界に生きた心子」

境界性パーソナリティ障害の彼女と過ごした千変万化の日々を綴った、ノンフィクションのラブストーリー[星和書店・刊]

あとがき(1)

2006年01月18日 21時48分50秒 | 「境界に生きた心子」
 
 二〇〇一年一月十七日、心子は逝った。


 それから三年半余りの間、本稿に加筆を重ねてきた。

 書くという作業が僕にとって、心の整理をすることに役立ってくれた。

 そしてやっと少し、心子のことを客観的に描けるようになったのかもしれない。


 当時はまだ、心子を充分に把握して包み込むことができていなかった。

 嵐の只中にいるときは暴風雨をしのぐのに目一杯で、嵐の成り立ちや治め方を学んだり、落ち着いて考え合わせる余裕がなかった。

 境界例の知識についても、彼女が世を去ってから出版された本が多々あり、あとになって知ったことも少なくない。

 僕には遅すぎる情報だった。

 もっと早く手にできていれば、彼女にまた新たな対応を試みることもできたのだろう。

 何が最善のやり方かは今でも分からないが、別の可能性もあったのかと思うと、誠に無念でならない。


 そういう意味でも、境界例に関する理解が少しでも早く広まることを、心から望むばかりだ。

 境界例の人と連れ行く人たちやこれから出会う人たちが、境界例に心を用いることによって、お互い無益ないさかいができるだけ減っていくことを切望している。

 そしてこの先も境界例の治療研究が進み、臨床の経験が積み上げられていくことを衷心より祈っている。


 今後も増えるであろう境界例の人が身近にいたら、本人の責任ではない生育歴によって心に傷を負っているのだということに、どうか思案を巡らせていただきたいと思う。

 境界例の人が親からふさわしい愛情を手に入れられなかったのだとしても、その親自身もまた適切な境遇で育ってくることができなかったのかもしれない。

 その悲劇の連鎖のシナリオを書き換え、境界例の人および境界例的素質を共有する我々自身が、問題にどう向かい合えばいいのかということを宿題にしていきたい。

 境界例の人と実際に行き来するのはなかなか大変だとしても、双方が幾らかなりとも生きやすい社会になっていくよう願ってやまない。

(続く)

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