9月7日(木)曇り、薄日差すも一時雨。日中蒸し暑し。
今しがた、パソコン立ち上げたら、ヤフーのニュースで下記の記事をみた。
『妻の看病に専念、「居酒屋兆治」惜しまれ閉店
作家、山口瞳さんの小説「居酒屋兆治」のモデルとなった東京都国立市のモツ焼き店「文蔵」がこの夏、ひっそりと店を閉じた。
脱サラした店主が妻と2人で切り盛りし、勤め帰りのサラリーマンや地元商店主らに31年間にわたり、親しまれてきたが、妻が病に倒れ、看病のためやむなく決意したという。
店主の八木方敏(まさとし)さん(69)がサラリーマン生活を辞め、妻のかおるさん(64)と店を開いたのは1975年。
10人が座ればいっぱいになるカウンターがあるだけのこぢんまりとした店で、方敏さんは、1日に2万円を売り上げると、後は勘定を付けず、客と一緒に飲み始めた。客も端数の釣りは、受け取らず、方敏さんが帰った客を追いかけて返すこともあった。
(読売新聞) - 9月7日15時4分更新 』
高倉健、主演の映画「居酒屋兆次」を観た記憶がある。こまかな話の筋は忘れたが、寡黙な男の印象だけが今も何故か焼き付いている。
懐かしかった。「山口 瞳」、私の大好きな作家の一人というよりも、尊敬する人生の大先輩といった思いだ。私は父を戦争で失った。身近に男の生き方、出処進退、酒の呑み方を教えてくれる人がいなかった。「男性自身」はそれを示唆してくれた。毎週の男性自身が楽しみだった。木曜日の週刊新潮の発売が待ち遠しかった。
しかし、そこに書かれているものから、伺える瞳氏の人間観に、自分を照射してみると、いかに自分が卑しく物欲しげで知ったかぶりの嫌味な人間であることを思い知らされ。
私は、それが山間(ヤマアイ)の滝で水垢離(ミズゴリ)をしているようで気持ちよかった。
その瞳氏に、一度だけお会いしたことがある。氏が立川で水彩画の個展を開催されたときであった。
その頃、氏は月刊誌のシリーズでスケッチ紀行文を掲載されていた。毎回の標題が素晴らしかった。尾岱沼晩夏(オタイトウバンカ)、余呉残雪、…。その場所のイメージが目に浮かんだ。すぐにも行ってみたくなった。コミカルでどこか哀歓の漂う楽しい読み物であった。その時の個展は、その挿絵の原画展のようであったと記憶する。
会場に、瞳氏が居られた。私は、おそるおそる手持ちの氏の著書にサインをお願いしてみた。
氏は快く私の持参した本を手に取ると、「ああ、これ少し汚れていますね。取り替えましょう」と言いつつ、脇から同じ著書を取り出し「ありがとう。お名前は」と静かに問いかけ、表紙の見返しにさらさらと墨筆で、肉太の字で私の名を認め、「子鰯も鯵も一塩時雨かな」と自作の句に、筆を朱筆に換えて曼珠沙華(マンジュシャゲ、ヒガンバナ)の素描まで添えて、手渡してくださった。
私は著名な作家にサインなど貰うのは始めてだった。「ありがとうございます」と返事をするのがやっとなほど感激した。
瞳氏の文章に、しばしば出て来る日本橋三越傍の鉢巻岡田、そしてこの文蔵、一度は覗いてみたいと思った。だが、それは思い止まった。
其処は、瞳氏だけの世界であり、瞳氏が創作した空間だからと思った。そんなところへ無名の私如きが、ふらふら迷い込んだところで、儚く惨めな現実を味わうにすぎないだろうと想像した。
それというのも、それ以前に、偶然、職場近くの「ここのシュウマイは絶品」と瞳氏が賞賛されていた中華小料理店へ入ったことがあった。
しかし、私のその時の印象では、店の主人は無愛想で、そのシュウマイの味も取り立ててというほどではなかった。それ以来、私は著名人の推奨する場所は避けることに決めた。私は、飲み屋でも、蕎麦屋でも、鰻やでも、天麩羅やでも、自分の身にあった店を大切にすることを覚えた。
このこと一つにしても、瞳氏の「男性自身」から自ずと教わった私の処世の貴重な智恵かと思うのである。
山口瞳氏が、癌だったかで急逝されたあと、「男性自身」が誌面から消えた。臍の無くなった週刊新潮を、もう買うのは止めた。それから、11年が経っていた。
―参 照―
■ 山口 瞳【著】・重松 清【編】
[文庫 判] NDC分類:914.6 Price:THB339.00
昭和38年に直木賞を受賞した著者は同年末から週刊新潮で連載を始めた。
「男性自身」という奇妙な題名のコラムは、会社員兼作家である自身の哀歓、家族・友人のエピソード、行きつけの店での出来事などが綴られた身辺雑記だった。
それは独断と偏見が醸す力強さと、淋しさ・優しさが滲み出た独特の文体で、読者の心を掴んだ。
40代に書かれた作品を中心に、大ファンの重松氏が50編を選ぶ。
■ 山口瞳(やまぐち・ひとみ、本名同じ、男性、1926年(大正15年)11月3日 - 1995年(平成7年)8月30日)は、作家、エッセイスト。東京市麻布区に生まれ育つ。旧制麻布中学を経て旧制第一早稲田高等学院中退、兵役の後、1946年、鎌倉アカデミアに入学。在学中から同人誌に作品を発表。正式の大学を出ていないことに対するコンプレックスを指摘されて國學院大學文学部に入り直し、1954年に卒業。河出書房勤務などを経て、1958年、壽屋(現・サントリー)に入社。PR雑誌「洋酒天国」の編集や、コピーライターとして活躍。ハワイ旅行が当たる懸賞のコピー「トリスを飲んでHawaiiへ行こう!」が代表作。
「婦人画報」に連載した『江分利満氏の優雅な生活』で、1963年に第48回直木賞を受賞。受賞後、文筆業に専念するためにサントリーを退社。「週刊新潮」に33年間連載を続けた『男性自身』、自らの生い立ちを題材とした『血族』(第27回菊池寛賞受賞)、『家族』等が主な作品。競馬や将棋、野球に造詣が深く、全国の地方競馬場を巡る『草競馬流浪記』、プロ棋士と駒落ちで対戦した記録『山口瞳血涙十番勝負』、プロ野球から草野球まで、野球に関するエッセイをまとめた『草野球必勝法』などの著書もある。サラリーマン向けの礼儀作法についての作品も多く、サントリーの新聞広告での新成人や新社会人へのメッセージは、毎年成人の日と4月1日の恒例となっていた。
かねがね「山手線の外側には住まない」と発言していたが、サントリー退社後、東京郊外の国立に居を移す。この地が大変気に入り終生ここで過ごす。『男性自身』でも度々地元のことに触れていて、なかでも谷保天満宮(やぼてんまんぐう)はお気に入りの場所だった。
気さくな人柄で谷保駅前の居酒屋に夜毎顔を出し、地元の人々との交流を大切にしていた。『居酒屋兆治』はそんな経緯から生まれた作品。
筋金入りの反戦主義者であり、「人を傷つけたり殺したりすることが厭で、そのために亡びてしまった国家があったということで充分ではないか」「もし、こういう(非武装の)国を攻め滅ぼそうとする国が存在するならば、そういう世界は生きるに価しないと考える」など、強固な信念に基づく見解を『男性自身』等で述べている。
息子の山口正介も作家で映画評論家。
"http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E5%8F%A3%E7%9E%B3" より作成
今しがた、パソコン立ち上げたら、ヤフーのニュースで下記の記事をみた。
『妻の看病に専念、「居酒屋兆治」惜しまれ閉店
作家、山口瞳さんの小説「居酒屋兆治」のモデルとなった東京都国立市のモツ焼き店「文蔵」がこの夏、ひっそりと店を閉じた。
脱サラした店主が妻と2人で切り盛りし、勤め帰りのサラリーマンや地元商店主らに31年間にわたり、親しまれてきたが、妻が病に倒れ、看病のためやむなく決意したという。
店主の八木方敏(まさとし)さん(69)がサラリーマン生活を辞め、妻のかおるさん(64)と店を開いたのは1975年。
10人が座ればいっぱいになるカウンターがあるだけのこぢんまりとした店で、方敏さんは、1日に2万円を売り上げると、後は勘定を付けず、客と一緒に飲み始めた。客も端数の釣りは、受け取らず、方敏さんが帰った客を追いかけて返すこともあった。
(読売新聞) - 9月7日15時4分更新 』
高倉健、主演の映画「居酒屋兆次」を観た記憶がある。こまかな話の筋は忘れたが、寡黙な男の印象だけが今も何故か焼き付いている。
懐かしかった。「山口 瞳」、私の大好きな作家の一人というよりも、尊敬する人生の大先輩といった思いだ。私は父を戦争で失った。身近に男の生き方、出処進退、酒の呑み方を教えてくれる人がいなかった。「男性自身」はそれを示唆してくれた。毎週の男性自身が楽しみだった。木曜日の週刊新潮の発売が待ち遠しかった。
しかし、そこに書かれているものから、伺える瞳氏の人間観に、自分を照射してみると、いかに自分が卑しく物欲しげで知ったかぶりの嫌味な人間であることを思い知らされ。
私は、それが山間(ヤマアイ)の滝で水垢離(ミズゴリ)をしているようで気持ちよかった。
その瞳氏に、一度だけお会いしたことがある。氏が立川で水彩画の個展を開催されたときであった。
その頃、氏は月刊誌のシリーズでスケッチ紀行文を掲載されていた。毎回の標題が素晴らしかった。尾岱沼晩夏(オタイトウバンカ)、余呉残雪、…。その場所のイメージが目に浮かんだ。すぐにも行ってみたくなった。コミカルでどこか哀歓の漂う楽しい読み物であった。その時の個展は、その挿絵の原画展のようであったと記憶する。
会場に、瞳氏が居られた。私は、おそるおそる手持ちの氏の著書にサインをお願いしてみた。
氏は快く私の持参した本を手に取ると、「ああ、これ少し汚れていますね。取り替えましょう」と言いつつ、脇から同じ著書を取り出し「ありがとう。お名前は」と静かに問いかけ、表紙の見返しにさらさらと墨筆で、肉太の字で私の名を認め、「子鰯も鯵も一塩時雨かな」と自作の句に、筆を朱筆に換えて曼珠沙華(マンジュシャゲ、ヒガンバナ)の素描まで添えて、手渡してくださった。
私は著名な作家にサインなど貰うのは始めてだった。「ありがとうございます」と返事をするのがやっとなほど感激した。
瞳氏の文章に、しばしば出て来る日本橋三越傍の鉢巻岡田、そしてこの文蔵、一度は覗いてみたいと思った。だが、それは思い止まった。
其処は、瞳氏だけの世界であり、瞳氏が創作した空間だからと思った。そんなところへ無名の私如きが、ふらふら迷い込んだところで、儚く惨めな現実を味わうにすぎないだろうと想像した。
それというのも、それ以前に、偶然、職場近くの「ここのシュウマイは絶品」と瞳氏が賞賛されていた中華小料理店へ入ったことがあった。
しかし、私のその時の印象では、店の主人は無愛想で、そのシュウマイの味も取り立ててというほどではなかった。それ以来、私は著名人の推奨する場所は避けることに決めた。私は、飲み屋でも、蕎麦屋でも、鰻やでも、天麩羅やでも、自分の身にあった店を大切にすることを覚えた。
このこと一つにしても、瞳氏の「男性自身」から自ずと教わった私の処世の貴重な智恵かと思うのである。
山口瞳氏が、癌だったかで急逝されたあと、「男性自身」が誌面から消えた。臍の無くなった週刊新潮を、もう買うのは止めた。それから、11年が経っていた。
―参 照―
■ 山口 瞳【著】・重松 清【編】
[文庫 判] NDC分類:914.6 Price:THB339.00
昭和38年に直木賞を受賞した著者は同年末から週刊新潮で連載を始めた。
「男性自身」という奇妙な題名のコラムは、会社員兼作家である自身の哀歓、家族・友人のエピソード、行きつけの店での出来事などが綴られた身辺雑記だった。
それは独断と偏見が醸す力強さと、淋しさ・優しさが滲み出た独特の文体で、読者の心を掴んだ。
40代に書かれた作品を中心に、大ファンの重松氏が50編を選ぶ。
■ 山口瞳(やまぐち・ひとみ、本名同じ、男性、1926年(大正15年)11月3日 - 1995年(平成7年)8月30日)は、作家、エッセイスト。東京市麻布区に生まれ育つ。旧制麻布中学を経て旧制第一早稲田高等学院中退、兵役の後、1946年、鎌倉アカデミアに入学。在学中から同人誌に作品を発表。正式の大学を出ていないことに対するコンプレックスを指摘されて國學院大學文学部に入り直し、1954年に卒業。河出書房勤務などを経て、1958年、壽屋(現・サントリー)に入社。PR雑誌「洋酒天国」の編集や、コピーライターとして活躍。ハワイ旅行が当たる懸賞のコピー「トリスを飲んでHawaiiへ行こう!」が代表作。
「婦人画報」に連載した『江分利満氏の優雅な生活』で、1963年に第48回直木賞を受賞。受賞後、文筆業に専念するためにサントリーを退社。「週刊新潮」に33年間連載を続けた『男性自身』、自らの生い立ちを題材とした『血族』(第27回菊池寛賞受賞)、『家族』等が主な作品。競馬や将棋、野球に造詣が深く、全国の地方競馬場を巡る『草競馬流浪記』、プロ棋士と駒落ちで対戦した記録『山口瞳血涙十番勝負』、プロ野球から草野球まで、野球に関するエッセイをまとめた『草野球必勝法』などの著書もある。サラリーマン向けの礼儀作法についての作品も多く、サントリーの新聞広告での新成人や新社会人へのメッセージは、毎年成人の日と4月1日の恒例となっていた。
かねがね「山手線の外側には住まない」と発言していたが、サントリー退社後、東京郊外の国立に居を移す。この地が大変気に入り終生ここで過ごす。『男性自身』でも度々地元のことに触れていて、なかでも谷保天満宮(やぼてんまんぐう)はお気に入りの場所だった。
気さくな人柄で谷保駅前の居酒屋に夜毎顔を出し、地元の人々との交流を大切にしていた。『居酒屋兆治』はそんな経緯から生まれた作品。
筋金入りの反戦主義者であり、「人を傷つけたり殺したりすることが厭で、そのために亡びてしまった国家があったということで充分ではないか」「もし、こういう(非武装の)国を攻め滅ぼそうとする国が存在するならば、そういう世界は生きるに価しないと考える」など、強固な信念に基づく見解を『男性自身』等で述べている。
息子の山口正介も作家で映画評論家。
"http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E5%8F%A3%E7%9E%B3" より作成