蛾遊庵徒然草

おこがましくもかの兼好法師にならい、暇にまかせて日頃感じたよしなし事を何方様かのお目に止まればと書きしるしました。

ここにも見た、行政の無定見・無責任!-明野処分場反対総決起集会に参加してー

2006-09-07 00:58:17 | 田舎暮らし賛歌
 9月6日(水) 曇り時々雨。日中19度前後。

 先日の、3日の日曜日、この地に移り住んで3年余り、地元の人々が懸命に反対運動をくりひろげてきた明野廃棄物最終処分場建設反対の総決起集会に初めて参加した。

 今までは、どちらかといえば、この運動に対して、距離をおいてきた。ゴミは自分たちも出すものである。どこかに無くてはならない施設である。
 せっかく、日本一の良い所に移り住んだと思ったら、近くにそんなものができようとしているのか、嫌だな、でもしかたないか。行政が造るのだからそんな好い加減なものは出来ないだろうし…と、思ってきた。

 そして、どこの地域でもそうであるが、この種の施設が生活上不可欠の施設であるにも拘らず、総論賛成、各論反対、自分の近くは嫌だ!というのが通り相場だ。
 それには、賛成しかねると考えてきた。このような地域エゴとも思えることを、声高に主張するのには、諸手をあげて賛同する気にならなかった。

 だが、先日の国民健康保険税の碌な事前説明も無い、やらずぶったくりに等しい、大増税のやり方を見て、急遽、これまでの行政への信頼感が消え失せた。
 行政という奴、黙っていたら、おとなしくして居たら何をしでかすかわかったものではない。このことである。

 そんな時、反対運動のビラ配りの人が、決起集会開催のお知らせを持ってやってきた。もう何回も熱心にビラ配りに来られている。
 そうだ、これはいい人が来てくれた。私は、ここぞとばかり、この日頃溜めてきた国民保険税高騰のことを、こちらから切り出してみた。「皆さん、そう言っている。役場は苦情対応でてんやわんや」とのこと。

 そうだ、自分の関心のある問題だけ騒いでもしょうがないや。ここは共闘だ!今度の集会は出てみようと強く思った。こう考えたら、三日の開催日が楽しみになった。

 9月3日、日曜日午前10時、秋晴れの上天気である。軽トラに飛び乗って、3キロ近く離れた会場へ向かった。真正面には南アルプス鳳凰三山が、南には霊峰富士が、北には八ヶ岳が一望できる日本一かと思う景観の地だ。思いのほか参加者が多かった。炎天下だというのに、脚の不自由そうなお年寄りの姿もあった。何故か目頭があつくなった。自分のこれまでの高見の見物みたいな態度が恥ずかしくなった。若い人の姿もちらほらあった。しかし、多いのは私同様の中高年齢者だった。

 10時半、軽トラの荷台を数台横に並べた演台(これは初見、名案だと感じ入った)で司会者の挨拶が始まった。経過報告を聞く。集会は12時までしか許可されていないという。短時間で小気味良く進行する。若い頃、職場の労組の空疎で決まりきったこの種の集会運営に比べて、手際がいいのに正直新鮮で驚かされた。

 そうかもしれない。これは大人の集会である。だらだらやっていたら誰もついてこない。動員費を貰っての義務感で参加しているわけではないのだ。腹の底からの怒りのエネルギーで参加しているのだ。

 聞けば、埋め立て予定総量7万トン。瓦礫、プラスチック廃材、建築廃材等99.5%は、産業廃棄物だという。私たちに身近な一般廃棄物の焼却灰は、0.3%ととか。
 しかも、今や、プラスチック類は、再資源化が時代の潮流となっており、逆に再資源化業者間で奪い合いになり、ここへ捨てにくるほどあるだろうかという事態が想定されるとか。
 そうなると百億余りの建設費をかけて作っても赤字施設となり、その負担はまた、我々に税金として還ってくるという。まさに、踏んだり蹴ったりとはこのことだ!

 今、問題のダム等の大型公共事業がそうであるように、それが計画された頃と、現在では状況が刻々と変わっていくにも係わらず、その状況に柔軟に対応していく努力をしようとしない。地域住民の声など録に聞かずに、一度こうと勝手に決めたら、後は遮二無二何が何でも猪突猛進あるのみだ。何のことは無い破滅型旧大日本帝国陸海軍の思考回路は、現在の国・地方を問わず行政官僚のなかに牢固として健在なのだ。

 11時半から近くのフラワーセンターまで、1キロ近くのデモに移る合間に、会場の直ぐ脇、100mほど東にある処分場予定地を見た。
 現場は、我が母なる愛してやまない茅ケ岳山麓標高約900メートルの、4、5千年前には縄文人の水のみ場であった湯沢川の沢筋を挟んだ、オオタカも棲むという喬々と赤松の美しい林である。
 それが無残にも一面に伐採され、獣の腸(ハラワタ)のような赤い地肌がむき出しになっていた。

 みるみる無性に、腹の底から言い知れぬ怒りの焔(ホムラ)がが込み上げて来た。何でこんな美しい場所を切り刻んでそんなものを造らなければならないのか?
 聴けば、むき出しにした地べたに厚さ僅か1.5ミリのビニールシートを敷いてその上にドカドカと硬質な廃棄物をぶちこんでいくのだとか。
 雨ざらしにして風化を待つ。だが沁みこんだ水に廃棄物からの毒液が混じり、それが薄いシートの劣化した亀裂から地中深く浸透し、やがては地下水を汚染し、下流の水道水源井戸や田畑を汚染することは容易に想像される。
 
 山梨県知事も当選直後には、この現場を視察して、首を傾げたそうな。だが何時の間にやら、県官僚の口車に乗って、今は、ひたすら、既定路線を再選目指しての手柄のメニューのお一つとばかり、そんな初心はどこかにポイ捨て、エッサカホイサカ、担がれたお神輿に振り落とされまいとしがみ付いての一散走りだ。

 地元市長は、知らん顔。それでその名も、しらばっくれてのシラクラか?一体誰のための首長か?これまた、お神輿担ぎに、だんまり決めての一目散だ。

 遥かな悠久の昔、人影少なく住む地の選定に困らなかった縄文人が、よりによって此処こそわが神聖な故郷と選び抜いたその土地に、遥かに人知の進んだ筈の現代人は、あろうことかゴミ捨て場にして恥じないとは、評す言葉も見当たらない。


 もうここまで事が進んでは、誰の目にも覆水は盆に還らずの敗北感が身にしむが、それでも何とかならないものかと、茅ケ岳大明神の怒りの呻きが聞こえてくるようだ。

 ことの起こりは、美しい佇まいときれいな水源であるほかは、人間様には、他に目に見えての一銭にもならない入会地を、過疎対策とかなんとか飴をちらつかされての目先美味しい話に、一部の旦那衆が、事がこんなに大きくなるなんて思いのほかに軽く見て、談合しての結果とか…、と漏れ聞いた。
 
 我が山梨県の売りは唯一、果物と観光資源とか。それが日本一の景観の地に最終処分場を造っておいて、「週末はやまなしで!」「東京の皆さんいらしゃいませ」なんて、よくも抜け抜け言えたものである。こんな感性で観光立県が聞いて呆れる天の川である。

と思うこの頃、さて皆様はいかがお思いでしょうか?
参照: http://ameblo.jp/akeno/ (明野★通信)