蛾遊庵徒然草

おこがましくもかの兼好法師にならい、暇にまかせて日頃感じたよしなし事を何方様かのお目に止まればと書きしるしました。

「政(マツリゴト)の若返り」に思う!

2006-09-24 02:15:39 | 時事所感
9月23日(日) 晴れなれども雲多し。涼、暑さ寒さも彼岸まで…。

 世はまさに、小泉政権から安倍政権へ看板換えの真っ最中。一体何が始まるのか。

 そんな中、私事で恐縮ながら、自身も本日、節目の歳を迎えた。これで晴れて高齢者のお仲間入りとなった。これで掛け値なしの隠居となった。
 節目には、山家の隠居は隠居なりに、やはりある感慨を覚える。
 それは、人の年齢と業績、とくに我ら庶民の生殺与奪の権を、お握りになり、政(マツリゴト)に携われる偉い方々についてだ。

 先ず思うのは、安倍政権になって、この国の政(マツリゴト)も随分と若返ったものだ。今後、何があってもこの流れだけは、確かなものとなるのでは…。

 これからは、総理大臣が60歳以上なんて聞くと、もうそれだけで、カビの生えた正月の鏡餅に見えてしまうのではなかろうか。

 しかし、若返ったと言われる、安部お坊ちゃま閣下にしても、もう50の大台をお超えになっている。この歳、安倍お坊ちゃま宰相生みの親とも言うべき、小泉閣下がお慕いになる、織田信長は、天下布武を目前に、惜しくも油断が災いして、本能寺の火炎の中に焼亡したのだ。

 そして今、ちょいと遡って、明治維新の元勲の生没年をあたってみると、伊藤博文は、1885年44歳の若さで、初代内閣総理大臣に就任するも、68歳(1909年)で安重根の凶弾に倒れている。
 次に維新の三傑の一人、大久保利通は39歳で参議、1873年43歳で初代内務卿(実質的には首相)になり、有司独裁とまで称され、1878年48歳の若さで、暗殺された。
 さらに維新最大の人気を博す、西郷隆盛は、奇しくも1877年の明日、9月24日に、西南戦争に敗れ、城山の露と消えている。時に50歳。
 ついでに三傑の一人、木戸孝允は、西郷と同じ1877年、5月、43歳の若さで病死している。

 こう見てみると、いかに時代相が違うとはいえ、僅かに100年余り前の人々が、若くして大業を為し、確固たる存在感を歴史に留めていることか、改めて驚く。
 そして、何をバカなを、承知で言わせていただけば、彼らの誰一人、東京帝国大学卒の秀才では無いのだ。全て自分の頭で考え、決断した方々ばかりだ。

 それに比べて、今の政治家の何と軽やかで、坂田三吉の名セリフ「吹けば飛ぶよな将棋の駒よー」だ。

 維新の英傑が、今のわが国の体たらくを見たら、何と慨嘆するだろうか?
欧米列強からいかに国家・民草を守り、対等の国家たらしめんことを願い、粉骨砕身、文字通り身命を賭して、官民ともに努力して、独立自存・世界の1等国にまでしたというのに。

 その子や孫どもは、帝大、陸大出の秀才揃いにも拘らず、父祖の大業過信して、先の計算も立たない大戦争をぼっぱじめた。
 国家・国民を奈落の底に突き落とし、塗炭の辛酸を舐めさせ、幾百万の大御宝(オオミタカラ、天皇の臣民)を異国の果てに投げ捨てた。
 挙句の果てが新爆弾の人体実験に、世界で初めて、二十万余の同胞が供された。
 ところが、その恨みも忘れ、敵(カタキ・米国)の袖に縋り寄り、暴虎(米帝国主義)の威を笠に着て、わが身の愚行を省みもせず、世界中に恥をさらし、軽蔑されることにも気づかない、愚かしさ、意気地なさの情けなさ。

 総理の年齢だけは、幾分、若くはなったものの、果たして中身はいかに。ますますおやりになることも、先の、前原前代表のごとく、おっちょこちょいの徳利がえりとならなきゃいいがと、転ばぬ先の、心配が先にたってはしまうというものだ。

と、思うこの頃さて皆様はいかがお思いでしょうか?

―追記―
 この記事を書くにあたり、我が杖とも頼む“ウィキペディア”で「西郷隆盛」調べたら、その事跡、人柄を知れば知るほど、懐かしく偲ばれた。
 明日、129年目の命日にあたり、西郷「南州翁遺訓」を引用しておく。
「敬天愛人―道は天地自然の物にして、人は之を行ふものなれば、天を敬するを目的とす。天は人も我も同一に愛し給う故、我を愛する心を以って人を愛するなり。」

 上野の銅像、製作するにあたり写真等の生前の肖像が、一枚も無く、関係者は随分苦心したそうだ。一番困ったのは、その「唇」とのこと。西郷の唇は、何とも言えない魅力と、情愛に弱いところが同居していたという。

 ついでに、蛇足ながら、西郷の政敵、大久保利通の玄孫(クロマゴ、5代目)が、今回の対抗馬、麻生氏だとか。少しはご先祖にあやかってもらいたいものである。