9月23日(日) 晴れなれども雲多し。涼、暑さ寒さも彼岸まで…。
世はまさに、小泉政権から安倍政権へ看板換えの真っ最中。一体何が始まるのか。
そんな中、私事で恐縮ながら、自身も本日、節目の歳を迎えた。これで晴れて高齢者のお仲間入りとなった。これで掛け値なしの隠居となった。
節目には、山家の隠居は隠居なりに、やはりある感慨を覚える。
それは、人の年齢と業績、とくに我ら庶民の生殺与奪の権を、お握りになり、政(マツリゴト)に携われる偉い方々についてだ。
先ず思うのは、安倍政権になって、この国の政(マツリゴト)も随分と若返ったものだ。今後、何があってもこの流れだけは、確かなものとなるのでは…。
これからは、総理大臣が60歳以上なんて聞くと、もうそれだけで、カビの生えた正月の鏡餅に見えてしまうのではなかろうか。
しかし、若返ったと言われる、安部お坊ちゃま閣下にしても、もう50の大台をお超えになっている。この歳、安倍お坊ちゃま宰相生みの親とも言うべき、小泉閣下がお慕いになる、織田信長は、天下布武を目前に、惜しくも油断が災いして、本能寺の火炎の中に焼亡したのだ。
そして今、ちょいと遡って、明治維新の元勲の生没年をあたってみると、伊藤博文は、1885年44歳の若さで、初代内閣総理大臣に就任するも、68歳(1909年)で安重根の凶弾に倒れている。
次に維新の三傑の一人、大久保利通は39歳で参議、1873年43歳で初代内務卿(実質的には首相)になり、有司独裁とまで称され、1878年48歳の若さで、暗殺された。
さらに維新最大の人気を博す、西郷隆盛は、奇しくも1877年の明日、9月24日に、西南戦争に敗れ、城山の露と消えている。時に50歳。
ついでに三傑の一人、木戸孝允は、西郷と同じ1877年、5月、43歳の若さで病死している。
こう見てみると、いかに時代相が違うとはいえ、僅かに100年余り前の人々が、若くして大業を為し、確固たる存在感を歴史に留めていることか、改めて驚く。
そして、何をバカなを、承知で言わせていただけば、彼らの誰一人、東京帝国大学卒の秀才では無いのだ。全て自分の頭で考え、決断した方々ばかりだ。
それに比べて、今の政治家の何と軽やかで、坂田三吉の名セリフ「吹けば飛ぶよな将棋の駒よー」だ。
維新の英傑が、今のわが国の体たらくを見たら、何と慨嘆するだろうか?
欧米列強からいかに国家・民草を守り、対等の国家たらしめんことを願い、粉骨砕身、文字通り身命を賭して、官民ともに努力して、独立自存・世界の1等国にまでしたというのに。
その子や孫どもは、帝大、陸大出の秀才揃いにも拘らず、父祖の大業過信して、先の計算も立たない大戦争をぼっぱじめた。
国家・国民を奈落の底に突き落とし、塗炭の辛酸を舐めさせ、幾百万の大御宝(オオミタカラ、天皇の臣民)を異国の果てに投げ捨てた。
挙句の果てが新爆弾の人体実験に、世界で初めて、二十万余の同胞が供された。
ところが、その恨みも忘れ、敵(カタキ・米国)の袖に縋り寄り、暴虎(米帝国主義)の威を笠に着て、わが身の愚行を省みもせず、世界中に恥をさらし、軽蔑されることにも気づかない、愚かしさ、意気地なさの情けなさ。
総理の年齢だけは、幾分、若くはなったものの、果たして中身はいかに。ますますおやりになることも、先の、前原前代表のごとく、おっちょこちょいの徳利がえりとならなきゃいいがと、転ばぬ先の、心配が先にたってはしまうというものだ。
と、思うこの頃さて皆様はいかがお思いでしょうか?
―追記―
この記事を書くにあたり、我が杖とも頼む“ウィキペディア”で「西郷隆盛」調べたら、その事跡、人柄を知れば知るほど、懐かしく偲ばれた。
明日、129年目の命日にあたり、西郷「南州翁遺訓」を引用しておく。
「敬天愛人―道は天地自然の物にして、人は之を行ふものなれば、天を敬するを目的とす。天は人も我も同一に愛し給う故、我を愛する心を以って人を愛するなり。」
上野の銅像、製作するにあたり写真等の生前の肖像が、一枚も無く、関係者は随分苦心したそうだ。一番困ったのは、その「唇」とのこと。西郷の唇は、何とも言えない魅力と、情愛に弱いところが同居していたという。
ついでに、蛇足ながら、西郷の政敵、大久保利通の玄孫(クロマゴ、5代目)が、今回の対抗馬、麻生氏だとか。少しはご先祖にあやかってもらいたいものである。
世はまさに、小泉政権から安倍政権へ看板換えの真っ最中。一体何が始まるのか。
そんな中、私事で恐縮ながら、自身も本日、節目の歳を迎えた。これで晴れて高齢者のお仲間入りとなった。これで掛け値なしの隠居となった。
節目には、山家の隠居は隠居なりに、やはりある感慨を覚える。
それは、人の年齢と業績、とくに我ら庶民の生殺与奪の権を、お握りになり、政(マツリゴト)に携われる偉い方々についてだ。
先ず思うのは、安倍政権になって、この国の政(マツリゴト)も随分と若返ったものだ。今後、何があってもこの流れだけは、確かなものとなるのでは…。
これからは、総理大臣が60歳以上なんて聞くと、もうそれだけで、カビの生えた正月の鏡餅に見えてしまうのではなかろうか。
しかし、若返ったと言われる、安部お坊ちゃま閣下にしても、もう50の大台をお超えになっている。この歳、安倍お坊ちゃま宰相生みの親とも言うべき、小泉閣下がお慕いになる、織田信長は、天下布武を目前に、惜しくも油断が災いして、本能寺の火炎の中に焼亡したのだ。
そして今、ちょいと遡って、明治維新の元勲の生没年をあたってみると、伊藤博文は、1885年44歳の若さで、初代内閣総理大臣に就任するも、68歳(1909年)で安重根の凶弾に倒れている。
次に維新の三傑の一人、大久保利通は39歳で参議、1873年43歳で初代内務卿(実質的には首相)になり、有司独裁とまで称され、1878年48歳の若さで、暗殺された。
さらに維新最大の人気を博す、西郷隆盛は、奇しくも1877年の明日、9月24日に、西南戦争に敗れ、城山の露と消えている。時に50歳。
ついでに三傑の一人、木戸孝允は、西郷と同じ1877年、5月、43歳の若さで病死している。
こう見てみると、いかに時代相が違うとはいえ、僅かに100年余り前の人々が、若くして大業を為し、確固たる存在感を歴史に留めていることか、改めて驚く。
そして、何をバカなを、承知で言わせていただけば、彼らの誰一人、東京帝国大学卒の秀才では無いのだ。全て自分の頭で考え、決断した方々ばかりだ。
それに比べて、今の政治家の何と軽やかで、坂田三吉の名セリフ「吹けば飛ぶよな将棋の駒よー」だ。
維新の英傑が、今のわが国の体たらくを見たら、何と慨嘆するだろうか?
欧米列強からいかに国家・民草を守り、対等の国家たらしめんことを願い、粉骨砕身、文字通り身命を賭して、官民ともに努力して、独立自存・世界の1等国にまでしたというのに。
その子や孫どもは、帝大、陸大出の秀才揃いにも拘らず、父祖の大業過信して、先の計算も立たない大戦争をぼっぱじめた。
国家・国民を奈落の底に突き落とし、塗炭の辛酸を舐めさせ、幾百万の大御宝(オオミタカラ、天皇の臣民)を異国の果てに投げ捨てた。
挙句の果てが新爆弾の人体実験に、世界で初めて、二十万余の同胞が供された。
ところが、その恨みも忘れ、敵(カタキ・米国)の袖に縋り寄り、暴虎(米帝国主義)の威を笠に着て、わが身の愚行を省みもせず、世界中に恥をさらし、軽蔑されることにも気づかない、愚かしさ、意気地なさの情けなさ。
総理の年齢だけは、幾分、若くはなったものの、果たして中身はいかに。ますますおやりになることも、先の、前原前代表のごとく、おっちょこちょいの徳利がえりとならなきゃいいがと、転ばぬ先の、心配が先にたってはしまうというものだ。
と、思うこの頃さて皆様はいかがお思いでしょうか?
―追記―
この記事を書くにあたり、我が杖とも頼む“ウィキペディア”で「西郷隆盛」調べたら、その事跡、人柄を知れば知るほど、懐かしく偲ばれた。
明日、129年目の命日にあたり、西郷「南州翁遺訓」を引用しておく。
「敬天愛人―道は天地自然の物にして、人は之を行ふものなれば、天を敬するを目的とす。天は人も我も同一に愛し給う故、我を愛する心を以って人を愛するなり。」
上野の銅像、製作するにあたり写真等の生前の肖像が、一枚も無く、関係者は随分苦心したそうだ。一番困ったのは、その「唇」とのこと。西郷の唇は、何とも言えない魅力と、情愛に弱いところが同居していたという。
ついでに、蛇足ながら、西郷の政敵、大久保利通の玄孫(クロマゴ、5代目)が、今回の対抗馬、麻生氏だとか。少しはご先祖にあやかってもらいたいものである。