9月13日(水) 終日、秋雨。日中16度、肌寒し。
夜、9時から10時50分、番組を視終わって、何とも言えないやりきれない思いに沈んだ。国家による、棄民。国策の大義名分の下での、大ペテン、無責任さである。
NHKの番組紹介記事には、
『これまで全体像が描かれたことのなかった満蒙開拓団を、新資料によって行政側そして開拓民の側から立体的に描き、日中の間に横たわる重い年月の意味を問い直す。』とあった。
ここで、新資料とあるのは、NHK総合8月11日(金)に放送された、
『満蒙開拓団はこうして送られた~眠っていた関東軍将校の資料~
今から75年前の1931年、満州事変勃発。その翌年から第一次満蒙開拓団の移住が始まる。それは、構成員が銃砲を装備した武装開拓団だった。ソ連との国境付近に配置された防衛軍の役割も担っていたのである。
この派遣計画は、「満蒙開拓の父」といわれた関東軍将校東宮鉄男らを中心に練られた。その東宮の移民計画書や直筆の日記など、貴重な資料の公開が遺族から許可された。王道楽土や五族協和、夢の別天地の名のもと、満州に27万人が渡り、中国残留孤児など多くの悲劇を生んだ開拓団の移住は、日本の国策としてどのように計画され、どのように実行に移されたのだろうか。
当時の政府と軍の計画決定の過程を新資料と証言で検証していく。(※同番組紹介文)』のことらしい。
なお、この番組は、8月10日(木)放送された、『NHK、HV特集「取り残された民衆」―元関東軍兵士と開拓団家族の証言―』に関連した内容であった。私は、その感想を8月11日付けでアップした。それで、今回も目が離せないと思って視た。
■ 画面は、ソ満国境近くの最前線のハタホ開拓団で唯一人生き残り、残留孤児となって帰国した内海忠志氏(68歳)の当時の回想で始まった。
氏は、その開拓団で生まれ育ち、昭和20年8月9日、ソ連軍の急襲に遭い、急遽逃げる途上、ソ連軍の猛攻の前、脱出を諦め集団自決することとなったという。数人の日本兵に母は胸を打ちぬかれ、兄弟は銃剣で刺されその場で死んだ。氏も同様に頭を銃剣で刺されたが、ショックで気を失った。気がついたら、母の胸の下で、姉と二人だけ生きていた。他の460人以上のほとんどの人々は、皆、その場で死んだという。(痲山事件)
残された、姉、弟は近くの畑からトウモロコシを盗んで食べ、夜は、母の死体の傍で眠って数日を過ごした。そこへ、日本人の遺留品を探しに来た、貧しい中国人に夫婦に保護された。その際、姉とは生き別れになったまま、今もその消息は不明という。
養父母は、実の娘がありながら、中学にまで進学させてくれた。しかし実子の義姉がいかないのに養子の自分だけが中学で勉強するのが済まなくて、たった3ヶ月で退学した。その後は電気工の資格をとって生活っしてきた。
自分が、日本人の子であることは知ってはいた。何とか自分のルーツをさがしたかった。しかし、養父母を憚ってできなかった。45歳の時漸く自分たち家族のことを知っていた人に巡り合い、父が日本に帰国して生きていることを知った。
日本政府に帰国できるよう申し出たが、当時、残留孤児といえども外国人同様難民扱いで、日本での身元保証人がいなくては駄目だという。実の父は、既に別の家庭をもっていた。その平安を乱したくなかった。
1984年漸く父と再会し、1987年(S62)永住帰国が適った。48歳、それから就職し60歳で定年。現在厚生年金が月5万5千円とか。僅かの退職金は、養父母への最後の見舞いで使い果たした。この先どうやって暮らしていけというのか。
今、同様の境遇の仲間と、日本国政府の謝罪と、生活保障を求めて裁判を起こしている。
昨年、大阪地裁でその判決が出た。判決は、日本政府の非は認めた。しかし、保障については、あの戦争の被害者は、満州開拓移民ばかりではない。皆がそれぞれに被害を受けたのだ。国にその被害を補償する義務はないとのことだった。
だが、内海さんたちは納得できない。日本にいた人たちは、戦後お互いにいろいろな形で助け合い、慰めあって暮らすことができた。自分たちは、20年8月31日付け、政府声明で、中国在留日本人は、現地に留まり忍苦の耐えてくれと告げられ、故意に敵国内に置き去りにされてきたのであると。
この裁判の原告支援者に、菅原幸助という元関東軍憲兵だった方が居る。氏は、ソ連軍侵攻を聞いた関東軍が、高級将校の家族のみを乗せた列車の護衛を命ぜられ、その一行とともにいち早く日本に帰還してきた。だが、その際、奉天(瀋陽)駅には、避難民が群れていた。皆、列車に乗せてくれと叫ぶ。だが、窓を遮蔽した列車は、そんな多くの一般人を置きざりにして東へ走った。氏は、その置いてきぼりにした人々のことを思うと耐えられず、せめてもの罪滅ぼしの気持ちで今、裁判を支援しているという。
では、いったい誰がこの棄民、満州移民開拓を考えたのか?
画面は、群馬県前橋市の旧家の土蔵に転じた。そこから取り出された数冊の日誌にその全貌の端緒が、長く秘められきたのだ。
その日記の著者、東宮(トウミヤ)鉄男、「満蒙開拓の父」といわれた関東軍将校がその人である。
彼は、1920年代末、ソ満国境の守備隊勤務を命じられるや、どうしたら、対峙して南進を目論むソ連軍と、中国東北部に跋扈する軍閥や匪賊から、恒久的に国境を守れるかを必死に考えた。そこで、ヒントを得たのが、知り合ったソ連兵から聞かされたコサック屯田兵のことだった。
武装した、農民を国境に配置し、開拓と同時に国境の守りの一端を担わせる、このことだ。
当時、日本は不況のさなか、東北では娘が売られ、農家の次、三男は耕す田畑も無く行き場に困っていた。東大の農学者、加藤教授もこの問題の対策に苦慮していた。彼は、寒冷地の耕作の権威だった。東宮大尉と加藤教授とが意気投合した。二人が喧々諤々して満州移民計画を立案し、紆余曲折を経て関東軍、政府の承認のもと、昭和7年8月30日、賛成多数で国策と決定した。
計画の概要とは、500人の青年を一団とし、農作業と軍事教練を施し、ソ満国境地域に入植させることだった。それは、無限の希望に満ちた新天地のはずだった。
だが、現地に連れていかれた彼らは、それが甘い諫言の誘い言葉だったことに直ぐに気づかされた。そこは、農業のできる限界に近い極寒の地だった。10月直ぐに冬がきた。粗衣粗食。重労働。しかも与えられた土地は、中国人の僅かな耕地を二束三文(一戸当たり現在価格で2万円とか)で強制的に買い叩き、収奪した土地だった。
しかも、彼らを周囲の匪賊から連絡を絶つように囲い込むように日本人入植者を配置した。行き場を失った、彼らを小作人にとした。
入植後。3ヶ月で500人のうち、300人が病気やストレスになり、強姦、強奪事件が頻発し終に幹部追放の決議文が関東軍に送られた。
事態の深刻さに驚いた、関東軍では、当時、世界各地の移民問題に精通していた、永田氏を招聘して現地を視察、提言させた。
彼は、18項目80頁に及ぶ報告書で、満州移民計画の杜撰さを指摘した。彼が、強調したのは中国人との融和策であった。病院や耕作機器、肥料工場の設置の必要性も訴えた。
だが、それは、東宮等関東軍幹部の聞き入れるところではなかった。永田氏は匙を投げて去った。
そうした中で、昭和11年、計画は拡大され、満州国の人口の1割を日本人とすることを目指して、100万戸、今後20年間で500万人を移住させる計画が策定された。日本内地の1.7倍の耕地面積の確保をめざした。
昭和11年2月26日、所謂2.26事件の反乱決起は、軍部支配を決定的なものとした。その後の広田弘毅内閣は、国防内閣となった。
昭和12年7月日中戦争勃発。満州への移住規模拡大が図られた。同年、青少年義勇隊が全国規模で徴募された。これは、14歳から19歳の青少年を満州に銃と鍬を持たせて、入植させようとするものであった。
農村部の学校に文部省から通達が出され、校長には各校当り何名とノルマが課せられた。
だが、海も見たことも無い、長野などの山間の農村の親にとって、見当もつかない僻遠の地に可愛いわが子を、はいどうぞ差し出すものはいなかった。
すると、勉強のできない、次三男で健康だけが取り柄という子に目がつけられ、うんというまで毎日、登校すると校長室に立たされたという。
教師も各家庭を回ってきてどうして行かないのか責める始末。
これは、誇張では無く、そうして行かされて、からくも命からがら帰ってきた老人二人が、両角(モロヅク)中隊の碑(同村から徴募されて亡くなった仲間の名を刻んだ慰霊碑)を擦りながら、訥々と語った。
こうして、終戦までに8万人の青少年が送りこまれたのである。そして三人に一人が亡くなったという。
大陸花嫁として、写真だけの見合いで満州の地に送り込まれた若い女性たち。
合計約27万人が送り込まれ、そして置き去り同様に関東軍、ひいては日本国家から捨てられたのである。その内の約8万人が亡くなった。帰国できた残留孤児2500人。今、なお不明者いくたりか?
私たちは、この愚挙、国家の暴挙を決して忘れるべきではないだろう。国家とは、「五族共和・王道楽土の別天地建設」をスローガンとした、このような無責任な施策、行為を、合法な国家政策の名の下に、本来は国民の平和と福祉に資すべきシステムであるにも拘らず、平然と行って、その結果には我関せずの知らぬ顔の半兵衛を決め込むこともあるのだということをである。
最後に、「満蒙開拓の父、東宮鉄男」は、昭和13年8月、転属を命ぜられたに中国戦線で戦死した。彼は、200年も続く旧家の出として、農村の疲弊を目にし、彼なりに一生懸命その救済策を研究したのだろう。そのために、中国語を学び、匪賊の横行する危険地域に単身潜入し、現地状況の詳細な把握に努めている。しかし、惜しむらくは、その努力が身内、同胞の利益にしか眼中になく、現地の中国人が同じ人間であることを忘れた、視野狭窄の陥穽に陥っていることを自覚できなかったところに、自他ともに悲劇の淵に落とし込んだ要因があったかに思える。
東宮鉄男大佐、彼の葬儀は盛大を極めた。その記帳者の中には、東条英機の名とともに、満州国建国こそわが生涯の傑作と回顧、豪語したと言う後のA級戦犯にして、内閣総理大臣、岸信介の署名もあった。
その孫君が、今、まさに次期宰相の座を前にして、「私は祖父を尊敬します。美しい日本を作ります。そのためには命も惜しみません。皆さん私たちの国、この日本を愛しましょう」と、の給う。
この言葉を、私たちは、どのような思いで受け止めるべきだろうか。
と、思うこの頃、さて皆様はいかがお思いでしょうか?
― 参 考 ―
● 満蒙開拓団:ja.wikipedia.org/wiki/満蒙開拓団
ja.wikipedia.org/wiki/満蒙開拓団
● 内海忠志氏の裁判での意見陳述書:www.jicl.jp/now/saiban/pdf/chinjutu2.pdf
www.jicl.jp/now/saiban/pdf/chinjutu2.pdf
夜、9時から10時50分、番組を視終わって、何とも言えないやりきれない思いに沈んだ。国家による、棄民。国策の大義名分の下での、大ペテン、無責任さである。
NHKの番組紹介記事には、
『これまで全体像が描かれたことのなかった満蒙開拓団を、新資料によって行政側そして開拓民の側から立体的に描き、日中の間に横たわる重い年月の意味を問い直す。』とあった。
ここで、新資料とあるのは、NHK総合8月11日(金)に放送された、
『満蒙開拓団はこうして送られた~眠っていた関東軍将校の資料~
今から75年前の1931年、満州事変勃発。その翌年から第一次満蒙開拓団の移住が始まる。それは、構成員が銃砲を装備した武装開拓団だった。ソ連との国境付近に配置された防衛軍の役割も担っていたのである。
この派遣計画は、「満蒙開拓の父」といわれた関東軍将校東宮鉄男らを中心に練られた。その東宮の移民計画書や直筆の日記など、貴重な資料の公開が遺族から許可された。王道楽土や五族協和、夢の別天地の名のもと、満州に27万人が渡り、中国残留孤児など多くの悲劇を生んだ開拓団の移住は、日本の国策としてどのように計画され、どのように実行に移されたのだろうか。
当時の政府と軍の計画決定の過程を新資料と証言で検証していく。(※同番組紹介文)』のことらしい。
なお、この番組は、8月10日(木)放送された、『NHK、HV特集「取り残された民衆」―元関東軍兵士と開拓団家族の証言―』に関連した内容であった。私は、その感想を8月11日付けでアップした。それで、今回も目が離せないと思って視た。
■ 画面は、ソ満国境近くの最前線のハタホ開拓団で唯一人生き残り、残留孤児となって帰国した内海忠志氏(68歳)の当時の回想で始まった。
氏は、その開拓団で生まれ育ち、昭和20年8月9日、ソ連軍の急襲に遭い、急遽逃げる途上、ソ連軍の猛攻の前、脱出を諦め集団自決することとなったという。数人の日本兵に母は胸を打ちぬかれ、兄弟は銃剣で刺されその場で死んだ。氏も同様に頭を銃剣で刺されたが、ショックで気を失った。気がついたら、母の胸の下で、姉と二人だけ生きていた。他の460人以上のほとんどの人々は、皆、その場で死んだという。(痲山事件)
残された、姉、弟は近くの畑からトウモロコシを盗んで食べ、夜は、母の死体の傍で眠って数日を過ごした。そこへ、日本人の遺留品を探しに来た、貧しい中国人に夫婦に保護された。その際、姉とは生き別れになったまま、今もその消息は不明という。
養父母は、実の娘がありながら、中学にまで進学させてくれた。しかし実子の義姉がいかないのに養子の自分だけが中学で勉強するのが済まなくて、たった3ヶ月で退学した。その後は電気工の資格をとって生活っしてきた。
自分が、日本人の子であることは知ってはいた。何とか自分のルーツをさがしたかった。しかし、養父母を憚ってできなかった。45歳の時漸く自分たち家族のことを知っていた人に巡り合い、父が日本に帰国して生きていることを知った。
日本政府に帰国できるよう申し出たが、当時、残留孤児といえども外国人同様難民扱いで、日本での身元保証人がいなくては駄目だという。実の父は、既に別の家庭をもっていた。その平安を乱したくなかった。
1984年漸く父と再会し、1987年(S62)永住帰国が適った。48歳、それから就職し60歳で定年。現在厚生年金が月5万5千円とか。僅かの退職金は、養父母への最後の見舞いで使い果たした。この先どうやって暮らしていけというのか。
今、同様の境遇の仲間と、日本国政府の謝罪と、生活保障を求めて裁判を起こしている。
昨年、大阪地裁でその判決が出た。判決は、日本政府の非は認めた。しかし、保障については、あの戦争の被害者は、満州開拓移民ばかりではない。皆がそれぞれに被害を受けたのだ。国にその被害を補償する義務はないとのことだった。
だが、内海さんたちは納得できない。日本にいた人たちは、戦後お互いにいろいろな形で助け合い、慰めあって暮らすことができた。自分たちは、20年8月31日付け、政府声明で、中国在留日本人は、現地に留まり忍苦の耐えてくれと告げられ、故意に敵国内に置き去りにされてきたのであると。
この裁判の原告支援者に、菅原幸助という元関東軍憲兵だった方が居る。氏は、ソ連軍侵攻を聞いた関東軍が、高級将校の家族のみを乗せた列車の護衛を命ぜられ、その一行とともにいち早く日本に帰還してきた。だが、その際、奉天(瀋陽)駅には、避難民が群れていた。皆、列車に乗せてくれと叫ぶ。だが、窓を遮蔽した列車は、そんな多くの一般人を置きざりにして東へ走った。氏は、その置いてきぼりにした人々のことを思うと耐えられず、せめてもの罪滅ぼしの気持ちで今、裁判を支援しているという。
では、いったい誰がこの棄民、満州移民開拓を考えたのか?
画面は、群馬県前橋市の旧家の土蔵に転じた。そこから取り出された数冊の日誌にその全貌の端緒が、長く秘められきたのだ。
その日記の著者、東宮(トウミヤ)鉄男、「満蒙開拓の父」といわれた関東軍将校がその人である。
彼は、1920年代末、ソ満国境の守備隊勤務を命じられるや、どうしたら、対峙して南進を目論むソ連軍と、中国東北部に跋扈する軍閥や匪賊から、恒久的に国境を守れるかを必死に考えた。そこで、ヒントを得たのが、知り合ったソ連兵から聞かされたコサック屯田兵のことだった。
武装した、農民を国境に配置し、開拓と同時に国境の守りの一端を担わせる、このことだ。
当時、日本は不況のさなか、東北では娘が売られ、農家の次、三男は耕す田畑も無く行き場に困っていた。東大の農学者、加藤教授もこの問題の対策に苦慮していた。彼は、寒冷地の耕作の権威だった。東宮大尉と加藤教授とが意気投合した。二人が喧々諤々して満州移民計画を立案し、紆余曲折を経て関東軍、政府の承認のもと、昭和7年8月30日、賛成多数で国策と決定した。
計画の概要とは、500人の青年を一団とし、農作業と軍事教練を施し、ソ満国境地域に入植させることだった。それは、無限の希望に満ちた新天地のはずだった。
だが、現地に連れていかれた彼らは、それが甘い諫言の誘い言葉だったことに直ぐに気づかされた。そこは、農業のできる限界に近い極寒の地だった。10月直ぐに冬がきた。粗衣粗食。重労働。しかも与えられた土地は、中国人の僅かな耕地を二束三文(一戸当たり現在価格で2万円とか)で強制的に買い叩き、収奪した土地だった。
しかも、彼らを周囲の匪賊から連絡を絶つように囲い込むように日本人入植者を配置した。行き場を失った、彼らを小作人にとした。
入植後。3ヶ月で500人のうち、300人が病気やストレスになり、強姦、強奪事件が頻発し終に幹部追放の決議文が関東軍に送られた。
事態の深刻さに驚いた、関東軍では、当時、世界各地の移民問題に精通していた、永田氏を招聘して現地を視察、提言させた。
彼は、18項目80頁に及ぶ報告書で、満州移民計画の杜撰さを指摘した。彼が、強調したのは中国人との融和策であった。病院や耕作機器、肥料工場の設置の必要性も訴えた。
だが、それは、東宮等関東軍幹部の聞き入れるところではなかった。永田氏は匙を投げて去った。
そうした中で、昭和11年、計画は拡大され、満州国の人口の1割を日本人とすることを目指して、100万戸、今後20年間で500万人を移住させる計画が策定された。日本内地の1.7倍の耕地面積の確保をめざした。
昭和11年2月26日、所謂2.26事件の反乱決起は、軍部支配を決定的なものとした。その後の広田弘毅内閣は、国防内閣となった。
昭和12年7月日中戦争勃発。満州への移住規模拡大が図られた。同年、青少年義勇隊が全国規模で徴募された。これは、14歳から19歳の青少年を満州に銃と鍬を持たせて、入植させようとするものであった。
農村部の学校に文部省から通達が出され、校長には各校当り何名とノルマが課せられた。
だが、海も見たことも無い、長野などの山間の農村の親にとって、見当もつかない僻遠の地に可愛いわが子を、はいどうぞ差し出すものはいなかった。
すると、勉強のできない、次三男で健康だけが取り柄という子に目がつけられ、うんというまで毎日、登校すると校長室に立たされたという。
教師も各家庭を回ってきてどうして行かないのか責める始末。
これは、誇張では無く、そうして行かされて、からくも命からがら帰ってきた老人二人が、両角(モロヅク)中隊の碑(同村から徴募されて亡くなった仲間の名を刻んだ慰霊碑)を擦りながら、訥々と語った。
こうして、終戦までに8万人の青少年が送りこまれたのである。そして三人に一人が亡くなったという。
大陸花嫁として、写真だけの見合いで満州の地に送り込まれた若い女性たち。
合計約27万人が送り込まれ、そして置き去り同様に関東軍、ひいては日本国家から捨てられたのである。その内の約8万人が亡くなった。帰国できた残留孤児2500人。今、なお不明者いくたりか?
私たちは、この愚挙、国家の暴挙を決して忘れるべきではないだろう。国家とは、「五族共和・王道楽土の別天地建設」をスローガンとした、このような無責任な施策、行為を、合法な国家政策の名の下に、本来は国民の平和と福祉に資すべきシステムであるにも拘らず、平然と行って、その結果には我関せずの知らぬ顔の半兵衛を決め込むこともあるのだということをである。
最後に、「満蒙開拓の父、東宮鉄男」は、昭和13年8月、転属を命ぜられたに中国戦線で戦死した。彼は、200年も続く旧家の出として、農村の疲弊を目にし、彼なりに一生懸命その救済策を研究したのだろう。そのために、中国語を学び、匪賊の横行する危険地域に単身潜入し、現地状況の詳細な把握に努めている。しかし、惜しむらくは、その努力が身内、同胞の利益にしか眼中になく、現地の中国人が同じ人間であることを忘れた、視野狭窄の陥穽に陥っていることを自覚できなかったところに、自他ともに悲劇の淵に落とし込んだ要因があったかに思える。
東宮鉄男大佐、彼の葬儀は盛大を極めた。その記帳者の中には、東条英機の名とともに、満州国建国こそわが生涯の傑作と回顧、豪語したと言う後のA級戦犯にして、内閣総理大臣、岸信介の署名もあった。
その孫君が、今、まさに次期宰相の座を前にして、「私は祖父を尊敬します。美しい日本を作ります。そのためには命も惜しみません。皆さん私たちの国、この日本を愛しましょう」と、の給う。
この言葉を、私たちは、どのような思いで受け止めるべきだろうか。
と、思うこの頃、さて皆様はいかがお思いでしょうか?
― 参 考 ―
● 満蒙開拓団:ja.wikipedia.org/wiki/満蒙開拓団
ja.wikipedia.org/wiki/満蒙開拓団
● 内海忠志氏の裁判での意見陳述書:www.jicl.jp/now/saiban/pdf/chinjutu2.pdf
www.jicl.jp/now/saiban/pdf/chinjutu2.pdf