蛾遊庵徒然草

おこがましくもかの兼好法師にならい、暇にまかせて日頃感じたよしなし事を何方様かのお目に止まればと書きしるしました。

今こそ採るべき石橋湛山・国際協調路線!-理想主義が、何故書生論か?-

2006-09-30 01:50:36 | 時事所感
 9月29日(金) 曇り、一時薄日射す。暑からず寒からず。

 先日、行きつけの市の図書館の新刊コーナーで、“判断力と決断力―リーダーの資質を問う―”田中秀征著を見つけた。この方の書かれたものを、時折新聞のコラムで見ていた。小泉政治に批判的な物言いが多い中で、いつも一貫して、好意的なのが気になっていた。

 表紙見返しの経歴を一見すると、1940年長野県生まれ。83年衆議院議員に初当選。93年6月に自民党を離党して新党さきがけを結成、代表代行。細川政権の発足に伴い、首相特別補佐、第一次橋本内閣で経済企画庁長官。現在、福山大学教授とある。

 この書を開く。前書きにこうあった。

 『…政治指導者といっても、首相となると並の判断力や決断力では合格点をもらえない。それこそ第一級の判断力や決断力をもとめられるからである。
 私が身近に接した首相では、細川護熙、小泉純一郎両首相の決断力は群を抜いている。 判断力では宮沢喜一首相の右に出る人はほとんどいない。…小泉首相は、戦後の首相の中では際立って異質な首相である。其の覚悟、決断力において並ぶ人はいない。
 さらに、状況判断力においても他の追随を許さない資質を有している。おそらく後継首相が誰になっても見劣りするだろう。
 ただ、政策判断力(特に外交政策)については、きわめて危ういものであった。政策判断が確かでなければ、決断力があればあるほど逆に有害にもなりかねない。
 …わが国が今世紀において、いかなる方向を目指して進むのか。…われわれに指導者を観察する厳しい眼が必要になる。
 その点で、判断力と決断力の双方から指導者の資質を鑑定することは、指導者に対する最良の識別法かもしれない。
 …高杉晋作にしても石橋湛山にしても、不幸にしてその両方の資質を全面開花させる機会を持ち得なかった、双方を備えた数少ない指導者であったといえるだろう。…』
 
 この書、読み進むうちにびっくりしたのは、上掲前書きの末尾に出てくる石橋湛山の理想主義的言動についてである。

 私の石橋湛山の印象は、高校生の頃か、総裁選で一度は岸信介に一位を奪われながらも、二、三位連合を組んで僅かの票差で岸を逆転し、せっかく総裁に選ばれ、首相に就任しながら、僅か二ヶ月とかで病気を理由にあっさりと辞職した潔さであった。

 それが、この書の第7章、石橋湛山はなぜ時代を洞察できたかーを読むと、著者の石橋に対する愛惜の念が痛切にこちらに伝わってきた。
 
 そして、理想主義、書生論と揶揄される、世界連邦を遠い視野においた、その国際協調主義路線こそが、今こそ、今後わが国の進むべき道ではないかということである。
 
 おこがましくも私は、これまで、このブログを通して、護憲派の主張に対して、ただ9条墨守では、今のきなくさい世界の風潮の中で、多数国民を納得させえないのではないか、何故それを担保するために、日米安保に寄りかかって、いつまでも米国の属国の地位に甘んじるのではなく、国連の改革、国連警察軍の設置を提言しないのかと疑問を呈してきた。

 ところが、今私が述べたような考えを、石橋湛山は、以前から抱き、自身が追放中の昭和25年、鳩山一郎とともにダレス国務長官に招かれて会談した際、堂々と、その考えを進言していたのである。

 そして奇しくも、自身が首相に就任した1956年(S31)12月、日本は念願の国連加盟を果たした。そのとき、記者団からその感想を求められた石橋は、「国連に加盟したということは、その保護に浴するだけでなく、他の加盟国と同様に義務も果たさなければならい。そのためには武力も必要になる。その際、現在の憲法との関係をどうするかを考えなければならない」と答えたという。

 このことである。護憲派の方々は、それをもならぬというのであろうか。だからこそ、国連改革、国連警察軍については知らぬ顔の半兵衛をきめこみたいのだろう。国連に協力する方法は武力行使だけではない。わが国にはわが国のやり方があると。

 だが、そんな、自分だけは、日本国憲法を盾にとって、良心的兵役不服従的なことを言ってみても、国際社会が納得してくれるだろうか。
 これでは、自分だけ火の粉を被らなければ良いという、一国平和主義の身勝手さということではないか。
 それは、日米安保の核の傘の中で、自分のところだけ強い鎧の陰で身が守られれば良いと言う日米同盟至上主義の裏返しでしかないのではないか?

 石橋湛山はそのような一国平和主義を断固排するのである。世界平和を破る無法者は、国連常設軍事力、警察力によって早期に押さえ込むべしとするのである。それによって、各国の軍縮も進み、真の世界平和が実現すると構想するのである。日本は、その運動の先頭にたつべきだと。

 まさに、石橋は首相に就任して、年来の構想を実現化しようとしたときに惜しくも病に倒れた。
 そして、石橋が後事を託した岸信介は、石橋の期待とは裏腹に、極めて現実的な日米安保強化の道へ突き進んだ。

 今、その孫の安倍お坊ちゃま宰相は、爺様もできなかった、集団的自衛権行使の方途について、自らもアメリカに助太刀ができる道を切り開かんと、画策しょうとしているのではなかろうか?
 恐らく、それは、石橋の構想したアメリカも全世界、国連警察軍の一兵卒の立場での集団的自衛権とは似て非なるものではなかろうか。

 石橋は説いている。貿易についても、ブロック制はダメだと。世界中が自由に貿易できるのでなければ世界人民の幸福は実現できないと。世界は連邦制の共和国となり、国家主権の相当部分を国際的機関に委譲すべしと。

 戦後日本の復興を傾斜生産方式により、世界中が眼を見張る経済成長を実現させた現実家でもあった石橋湛山。その石橋が説く国際協調による世界平和への主張が理想主義、書生論と揶揄されるのは何故か。それは、多くの人々が目先の手近な利益にばかりにしか、眼を向けず、遠大な理想実現のための労を厭うからではないのか。

 今、開催中の国連での論議を聞くにつけ、環境問題、食料問題、エナルギー問題を考えるに付け、最早、一国がいかに強大な軍事力を振り回したところで何が解決できるというのだろうか?

 今こそ、日本は世界の先頭に立って、石橋の目指した国際協調主義路線への方向転換をはかるべきではないのだろうか。
 
 この本、思いもかけず時期に適った、わが意を得た一書であった。そして、今回、日本が安保理常任理事国入りを目指して世界中を跳ね回ってみても、アメリカにべったりくっ付いていて、世界中のどこの国が、そんなお目出度い、鳶に油揚げのような話にのるもんかということが、その愚かしさに気がつかない外務省の無能さ加減もよく理解できた。

と思うこの頃さて皆様はいかがお思いでしょうか?

ー参考ー
 同書からの、上記記事該当箇所について、より正確に石橋湛山の思想をお伝えしたく、本文から、抜粋引用させていただきます。

■ 第四の柱ー”国際協調主義”

「人類社会から戦争を絶滅し、世界に恒久平和を実現させるには、ナショナリズムを絶滅する以外に方法はない」「人類は世界国家を造るべき段階にたっしている」
 「世界各国は連邦共和国の形を取り、今日の諸国家はその下に主権の大部分を移譲して、一種の地方自治体として存立することになろう」湛山は骨の髄まで連邦主義者であった.。彼の発言や行動は、この究極の理想主義から発していると考えればよく理解できる。…湛山は第一次世界大戦後の国際連盟はじめ”国際機関”の創設やその機能に重大な関心を示している。国際連盟にせよ国際連合にせよ、彼が特に関心を示したのは、国際機関による無法国に対する制裁措置の有効性であった。彼は、第一次世界大戦の終結する直前、ウイルソン米大統領が”国際連盟の創設”を提唱すると「国際連盟の中心事業」と題する論文でそれに全面的な賛意を表明し、その事業に強い期待を抱いた。そしてそれが失敗に終わったのは、当のアメリカが参加しなかったことと共に、無法国に対する制裁措置が機能しなかったためと受け止めた。だから、第二次世界大戦が終わる前年末、米ソ英中の四カ国によって採択された国際機構案にあらためて期待を抱いた。「…旧国際連盟にも世界平和の維持のため必要な際は、連盟が武力の発動を求めえる規定はあったが、もとより連盟自身に軍隊の備えがあったわけではない。従って、其の規定は有名無実の空文に過ぎなかった。ところが今度の『国家連合』(国際連合)に於いては、実はまだ私は其の点の詳細な規定を見ていないが、武力行使に就いて、相当有効の手段を講ずる取り決めをしているらしい。『国家連合』自身が軍隊をもつことは、勿論やはり不可能だが、併し必要の際には、何時でも即刻之を用い得る準備を行って置くと云うのである」                                                 われわれの地域社会でも、犯罪に対して警察が迅速に効果的に対応できれば、各家庭が無法者を撃退する武器を持つ必要がない。国際社会でも国際機関の制裁が有効に機能すれば、各主権国家は必要最小限の軍事力を保有すればよい。国連の集団安全保障、すなわち国連常設軍、国際警察軍のような機能が信頼を得れば、世界は全面軍縮の方向に向かうのだ。                                       湛山は追放が解除される前年の昭和25年、鳩山一郎と共に、訪日したダレス米国務長官に招かれて会談した。何とこの席でも彼はダレスに軍備全廃論を説き、アメリカが世界政府の創立に向けて動き出すよう進言した。このとき現実主義者のダレスはどんな顔をしただろうか。全く予期せぬ進言に目を白黒させただろう。湛山はいつ、いかなるときも臆面も無く理想主義の旗を振り続けた。

■「日本の平和」か「世界の平和」か

 日本が国連に加盟したのは、石橋湛山が自民党総裁になり首班指名を受けるほんの10日ばかりの間のことであった。当然のことながらはじめての記者会見で国連加盟に関する質問があった。その際、湛山はこう発言している。「国連に加盟して国際的に口を利くためには、義務を負わなければならない。国連の保護だけ要求して、協力はイヤだというのでは、日本は国際間に一人前に立ってゆくことはできません。国連に対して義務を負うということは、軍備ということも考えられるし、また先ほどいった海外投資も一つの型だろう。とにかく国連に入った以上、その責任を果たすことは考えておかなければいけないと思います。」このように湛山は、国連の安全保障には、日本も加盟国の一員として実力部隊を送ることを考えていた。要するに国連によりかかるより、国連をささえることの重要性を指摘したのである。国連常設軍とはいかないまでも、1990年湾岸戦争のときの多国籍軍のようなものに、わが国が実力部隊をさんかさせることができるか。今もって憲法論争がある。湛山は首相就任直後、外国人記者向けにこう発言している。「日本は国連に加盟したが、どうすれば国連の一員としての責任を充分果たしえるかについて目下研究中である。国連の警察行動に協力するかどうかは、日本の憲法や国内事情を考慮しなければならず、今後よく検討したい」しかし、「研究」や「検討」の結果が出る前に石橋内閣は幕を閉じた。湛山のなすべき最重要の”決断”が不発に終わったのである。もしこのとき、石橋内閣が「日本は、現行の日本国憲法のもとで、国連が主導する軍事行動に参加することができるか」という難問に明確な結論を下していれば、その後の安全保障論議はかなり違った方向に進んでいただろう。名うてのハト派、アジア重視、国際協調派、そして野党や国民からの絶大な信頼。湛山の”決断”は、冷戦のさ中であっても国論の分裂を最小限にとどめたに違いない。しかし、思いがけない石橋湛山の退陣で、日本は湛山の目指す方向と大きく違う方向に踏み出した。総裁公選で湛山に敗れた岸信介は、石橋内閣に外相として入閣、湛山が倒れてからは臨時首相代理を務めた。岸は三月末に首相に就任すると、”日米新時代”を旗印に、日米安全保障条約の改定に乗り出したのである。それは岸が鳩山内閣以来抱き続けてきた宿志であった。しかし、岸は本能的に湛山の賛成を得られないと感じていたのか、外相当時もその宿志を湛山に打ち明けなかった。この時点で、日本は「国際協調」か「日米同盟」かの岐路に立ち、岸によって「日米同盟」が選ばれたのである。その後、湛山は猛然と岸外交に反抗するが、時既に遅かった。結局、岸と石橋の違いは、「日本の平和と安全」と「世界の平和と安全」のどちらを重視するかの違いだろう。岸は、国際社会がどうあろうと「日本の平和と安全」を確保するためには、防衛力の増強と日米同盟の強化が必要と考えた。しかし湛山は、「世界の平和と安全」を確保しなければ、戦争は決して終わらない。日本は先頭に立って、そのための外交努力をするべきだと考えたのだ。当時の厳しい冷戦環境を考えれば、岸路線の方が説得力があったのは当然であった。岸が「戦争に負けない体制」をつくろうとしたのに対し、湛山は「戦争が起きない体制」をつくることに心を砕いたのだ。「石橋さんに従う者は少ないのだから、安保を通す上において石橋さんの力をきにする必要はなかったんですよ」岸は後にそう語っている。岸には、湛山の考えは子供っぽい書生論にしか見えなかったのであろう。』

 注:「…」内は、著者引用による石橋湛山、岸信介の発言内容。