合気道ひとりごと

合気道に関するあれこれを勝手に書き連ねています。
ご覧になってのご意見をお待ちしています。

22≫ 豪傑

2007-05-30 12:02:02 | インポート

  辞書によれば、豪傑とは才知、武勇に並外れて優れていて、度胸のある人物とあります。また一風変わった人という意味も含まれるようです。単なる肉体的な強さだけではなく個性や知性も求められるんですね。うん、合気道家にふさわしい肩書きかもしれない。

 ところで、まことに失礼で不謹慎ではありますが、合気道入門者というのは、武道をしたいけど柔道するほど体力がない、剣道するほど敏捷でない、空手をするには度胸がない、そんな人が多いのではないかと、かつてわたしは思っていました(自分がそうだったからです。それらをちょっとずつかじったから感じたことではあるのですが)。ところが、他の武道やスポーツでそこそこの実績をあげ、わたしの基準からすればなんで合気道を始めたんだろうと思うような人が身の回りにたくさんいることを知り、自分の認識が誤りであることに気づきました。

 これはつまり、合気道を好む人には、他の運動等では満たされない、独特の価値観、美意識を持っている方が多いということなのかもしれません。武道の中では特筆される優美さとか、対手を傷つけずに制する技術であるとか、深い精神性とか、それはいろいろあると思います。

 そのような合気道を作り上げてきた先人の中には、かつてのわたしの認識を覆す豪傑といってよい方がたくさんいらっしゃいます。《大人》でご紹介した大澤喜三郎先生がある意味その最右翼であろうと思っていますが、この際、軟弱な自分を省み、その対極にある幾人かをご紹介します。

 まずは、《力持ち》でも触れた藤平光一先生が大先生の御前で演武をした時の話です。その時受けをとった黒岩洋志雄先生からお聞きしました(以下、他の話も同様です)。何本か投げ技を続けているうちに、気づくと受けが飛んでいく方向に大先生が座っていらっしゃったのだそうです。とっさに藤平先生は技を止め、黒岩先生の両襟を掴むや、フッと宙に持ち上げ、くるりと反転して別の方向に投げたというのです。『そのころわたしは80kg近く体重があったんですよ。驚きましたねえ、こどもを抱き上げるみたいでしたから』。

 お次は話題豊富な塩田剛三先生の逸話の中から道場破り破り(?)です。養神館設立から間もないころのことだと思いますが、案の定道場破りが現れたのだそうです。道場破りといっても、別に暴れこんでくるわけではなく、一手ご指南くださいというふうに、一応礼儀は通すのです。塩田先生はそれを丁重に道場に案内し、対座しました。それではお願いしますということで、相手が頭を下げたところを、塩田先生は上から強く押さえつけ、相手の顔面を畳に打ちつけてやったのです。もちろん相手は怒りましたが、『敵に向き合って顔を伏せる馬鹿がいるか。本来なら殺されても文句は言えないんだぞ。出直して来い』と一喝して帰したということです。

 それに似たような話が斉藤守弘先生にもあります。戦後間もない頃、東北在住の某柔術家(著書などもあって少々名の知られた方です)が東京滝野川に道場を開設しました。ちょうどそのころ本部道場に来られていた斉藤先生が、『東京に道場を開いておきながら植芝先生に挨拶がないのは無礼である』と、その道場に単身乗り込んでいったのです。そして応対したその柔術家の頭を押さえつけ、床に何度か打ちつけてやったのだそうです。数日後、その柔術家が本部道場の前を行ったり来たりして中に入りづらそうにしていたのが見えたので、招き入れてやりました。すると、ちゃんと大先生に挨拶をして、手土産の酒を2本置いていきました。それは二級酒だったということで、斉藤先生は『一級酒を1本持ってくればいいじゃないか。気の利かないやつだ』と話しておられたそうです。

 大先生ご自身がいろんな逸話の持ち主ですが、お弟子の方々も負けず劣らずユニークなエピソードをたくさんお持ちです。いまや平和の武道、愛の武道ということで社会的に認知された合気道ですが、黎明期の人物群像は、とても行儀の良い現代の合気道家とはひと味もふた味も違っていたようです。そのころ入門していたら怖かったでしょうね。


21≫ あたりまえじゃないこと

2007-05-22 17:12:47 | インポート

 前回の続きのような話になります。

 屁理屈屋のわたしが言うのもナンですが、この世には理屈では割り切れない、人智を超えた大いなる力が存在するのではないかと密かに思っています。同じように思っている方、わたしの他にもいらっしゃるでしょ。でも、その力の源が具体的にどのようなものであるかを想像したり、思うさまにその力を利用するということはできません。なにしろ人智、分別を超えているわけですから。だとすると、そのようなものの存在を感じながらも、日常においては尋常(あたりまえ)な理解の範囲内で物事を処理していくというのが健全な思考力を持った人の生活方法です。

 ところで、合気道の愛好者は、変に武張ったりしない、温容な方が多いのではないかと思っています。そして、上位者には敬意を、下位者には愛護の情を持っておられる。そのため上から下に向けられた情報は素直に受け入れられます。これは人間としての美点ですが、情報が誤っている場合、それを修正する力が働かないことも、ままあります。

 さて、《気》は合気道家にとって最も気になる言葉でしょう。いろんな人がそれについて持論を述べています。百花繚乱というべきか百家争鳴というべきか、実に賑やかなことですが、要するに、だれにも確かなことはわかっていない、ということだけわかっています。事象としては、腕に気を通せば相手が力いっぱいこちらの肘を曲げようとしても曲がらないとか、相手と気でつながっていると掴んだ手が離れないとか、もっとすごいのは気で相手を飛ばすとかいった類のものです(これらはわたしもO道場時代に指導者から言われたことがあります)。

 でも、それらは《気》という曖昧な概念を持ち込まないとできないことなのか、他の、より科学的な方法で実現できるのならそちらで説明すべきではないか。もっと言うならば、肘なんか曲げるために関節があるわけですし、相手が手を離そうとするなら自分で掴まえればいいし、気で飛ぶのが身内だけなら武道としては意味がないと、そう思うのです、わたしは。

 かつて浪越徳治郎氏という指圧の大家がいらっしゃいました。マリリン・モンローが来日した際、彼女に指圧治療を施した方です。その浪越氏が、超能力者といわれるユリ・ゲラー氏が手を触れずに火鉢(だと記憶していますが、正しいところは忘れました)を持ち上げたという話を聞き、『自分なら親指で挟み込めば、かなり重くても上げられる。わたしとユリ・ゲラーさんとの差は両手の親指2本分だけだな』という名言を残されています。実に愉快ですね。わたしたちが合気道で目指すべき道をきっちり指し示してくださっています。

 このように、少なくとも指導者は、稽古者に対して進むべき道と道標を提示しなければなりません。しかし、指導者が《気》を悟得していないのであれば、気という言葉を安易に使うべきではありません。指導者の中には初心者に対しても『はい、気を出して』とか『気で制する』とかを求める方がいます。気の大安売りです。一休さんの虎退治ではありませんが『気というものがあるのなら、ちょっとそれを出してきて見せてください』と言ってしまいそうです。

 ちなみに黒岩先生は指導の際、気という言葉を使いません。以前その理由を伺ったことがあります。それに対して先生は次のように答えてくださいました。

 『仏道修行で座禅を組むのは、今は悟っていないけどいずれ悟りを開きたいからでしょ。それを座禅の初っ端から悟れ悟れといったって無理だし、師匠もそんなこと求めない。ところが合気道では入門したその時から気を出せって言いますね。言われて出せるくらいなら稽古なんてする必要ないんですよ』。

 それはまったくその通りですが、稽古を続ければ気を出せるようになるのでしょうか。それについて先生は、

 『気はね、出したり引っ込めたりするもんじゃないんですよ。気は修行の度合いに応じて自ずと現れるものなんです。一年稽古したら一年分の気、十年稽古したら十年分の気が。』

 結局それは英気であったり精気であったり、その人の存在自体が醸し出す雰囲気なのでしょう。小賢しいテクニックとは無縁のもののようです。

 この世の全てを知っている人はいません。ですからわたしたちの理解を超える現象や能力の発露もあるでしょう。それを否定はしませんし、そのような能力を獲得したいという気持ちもわかります。でも、どこにもそれに辿り着くメソッドは示されていません。それは合気道の守備範囲外なのです。

 初めに言ったことを繰り返します。尋常な理解の範囲内で合気道を楽しみましょう。それが健全な取り組み方です。


20≫ あたりまえのこと

2007-05-16 11:06:27 | インポート

 《あたりまえ》は《当然》の当て字である《当前》を訓読みにしてできた言葉です。同義語に《尋常》というのがあります。尋常には潔いという意味もあります。『いざ尋常に勝負勝負』ってやつですね。ですから、あたりまえのことは潔いことなのです。

 でも、あたりまえのことをあたりまえに認識し行動するのは、結構むずかしいものなのです。わたしたちは往々にしてあたりまえではないものを欲しがります。合気道を愛するあまり、合気道を他の武道やスポーツとは違う、なにか特別な武道と考えたことはないでしょうか。これは開祖の不可思議な逸話や宗教的言動に負うところが多いように思われます。でもまあ、合気道を稽古すれば、そこ(開祖のレベル)までは行かなくても、他の人よりちょっとは優れた武術遣いになれるんじゃないか、と思う程度ならまだいいのです。それくらいの期待がないと稽古なんてやってられませんからね。問題は、その期待が大きすぎて、あたりまえのことをあたりまえと感じられなくなっている人です。

 合気道の稽古には、取りの手首を受けが握り、それを離さないという前提で組み立てられている技がいくつもあります。『離すな』と指導されているのです。これは約束事だからそれでいいのですが、どういうわけか《離さない》が《離れない》だと勘違いしている人がいるのです。

 握った手が離れないというのは、催眠術か瞬間接着剤を使用した場合に限られます。奇想天外な物語の中の忍者なんかは使いそうですが、武道にそれを持ち込んでは笑われます、合気道以外では(合気道では持ち込んじゃってる人がいます)。

 狭い道を両手に荷物を持って歩いていると想像してください。そのときこちらに向かって車が突っ込んできました。どうします?合気道を一所懸命稽古した人は握った手を離しちゃいけないと教えられているから、荷物を持ったまま逃げようとして結局逃げ遅れる。一方、それ以外の人は、すぐに荷物なんか放り出して身ひとつで横っ飛びして逃げる。普通の人ができるごくあたりまえのことが、合気道を学ぶことによって、逆にできなくなる。護身術を学んだつもりが、かえって身を護れないというのは最高のブラックジョークですね。

 『むーすーんーでー♪ひーらーいーてー♪って童謡にあるでしょ。握った手は開かなくちゃいけないんですよ』とメロディー付きで教えてくださるのは、わが敬愛する黒岩洋志雄先生です。『人間は生まれたときは手を握って生まれてくる。それは教えてもらわなくてもできるんです。その後の学習によって開けるようになる。ですからね、合気道では握っている手は開くものだ、危なくなったら離すものだということこそ教えなくちゃいけないんです。それにどう対応していくかが本来の稽古です』。

 約束事で付き合ってもらっていることを、稽古の末の特殊能力だなんて思ってはいけません。打つ事だってそうです。戦おうとする者は、一発パンチを出してきて、それが掴まえられるまで腕を伸ばして待っているなんてことは絶対ありません。稽古だからそうして待っていてくれるだけなのです。打った手は引っ込む、そして次の手が出てくる。これがあたりまえなのです。受けはそういうことを想定しながら、あえて掴まれるまで待っていてくれるんですよ。せっかくだから取りはそれに便乗して体遣いを工夫するのです。受けの協力、ありがたいですね。

 わたしは理論的に説明できないことはやりませんし、指導もしません。できないことは、できないといいましょう。それが潔いということです。でも幸いにして、合気道はきわめて科学的、合理的な武道です。科学的ということは、正しい(尋常な)方法論のもとで段階を踏めば、だれでも一定のレベルまでは達することができるということです。ですからわたしたちは、あたりまえのことを繰り返し繰り返し稽古し、徐々に精度を高めていくことを目指しましょう。案外、期待以上のことができるようになるかもしれませんよ。

 

 


⑲ 受けは楽しい

2007-05-09 16:10:22 | インポート

 合気道では、受けのうまい人は総じて評価が高いですね。なぜでしょうか。みんながそう言っているから『そんなものかなぁ』で済ませていると達人になれませんよ。

 受けをとってくれる人は稽古をする上でとても大切なパートナーです。極論すれば、受けがいないと稽古ができません。だから、みんな自分の稽古に協力してくれるとてもいい人だと思っています。でも、武道の稽古は自分が取りの時だけ意味があるというものではありません。それだと受けは単なるお人好しであって、場合によっては木偶でもよいことになってしまいます。

 実際は、受けの稽古は取りの稽古と比べて武術的に同等の価値があります。それはどういうことかというと、受けは取りに協力している風を装って、実は取りの技を未完に終わらせる稽古をしているのです。具体的には次の通りです。

 柔道の受身と合気道の前回り受身はよく似ていますが、目的が違います。柔道では投げられたら《一本》で負けてしまうので、なんとかぎりぎりまで投げられないように頑張るわけです。それでも力及ばず投げられてしまったら、やむを得ず受身をとって衝撃をやわらげる、これが柔道の受身の目的。一方、例えば合気道の《回転投げ》における受けの前回り受け身は、なにも、投げられたから転がっていくのではありません。終末段階での取りによる顔面への膝蹴りを警戒して、さっさと逃げてしまう技法です(膝蹴りを表現する意味で、技の最後に取りは受けに近いほうの足を踏み出すのです)。

 また、黒岩先生のご指導によれば、合気道の投げ技は、本当は全て脳天逆落としなのだということです。四方投げにしろ、入り身投げ、腰投げにしろ、天地が逆になるくらいに浮かせて、頭から地面にたたきつける技なのです(稽古でそんなことをやっていたら世の中に合気道家はいなくなってしまいますが)。それを受けが取りの思惑を先取りし、うまく対応して受身をとって逃げているのです。つまり取りの目論見を実現させない工夫をしているわけです。

 その他にも、投げ技であれ抑え技であれ、取りの目的を達成させない技法はたくさんありあます。返し技といわれるものは明らかに対抗技法とわかるので理解しやすいのですが、普通の稽古にそういう(未完に終わらせる)意図が含まれているというのは、なかなか気づかないものです。そういうわけで、そのような術を遣う受けは単なるいい人ではないということをわかっていただけるでしょうか。

 合気道の稽古は約束事ではあるけれど、約束に安住しないで目や気を配ることが大切です。構図の上では、基本的に受けは自分に攻めかかってくる敵なのです。取りも受けもお互い武道家(もしくは武道愛好家)ですから、それくらいの緊張感を持って稽古しないと、技の本来の意味がわからなくなってしまいます。

 ここまで受けの本質について述べてきていますが、ついでに受け身の方法について、間違った常識を指摘しておきたいと思います。小手返しなどに対応する、いわゆる飛び受け身です。このとき掌を床にたたきつけ、パーンと派手な音が出る、いわゆる《羽打ち》というのをやります。一般に体重を分散させ衝撃をやわらげる技法だと言われますが、これは畳の上でしか通用しません。いや畳でもだめです。ちょっと考えればわかることですが、せいぜい200c㎡程度の掌でどれだけの体重をまかなえるというのでしょうか。

 これは、昆虫の触覚みたいに、センサーとして体が床に着く寸前に掌を着き、直後の衝撃を察知するものです。それによって瞬間的に全身を硬直させ、衝撃に耐えるのです。ですから体と掌の同時着地では遅いのです。わたしの通った大学の柔道場の床下には何個も甕(カメ)が埋けてあって、羽打ちの音がよく響くようになっていました。逆に言えばその程度のものなんです。古流武術や少林寺拳法などでは足裏から着地することが多いことからも、羽打ちが必須技法ではないことがわかります。

 いずれにしろ、考え様によっては受けは取り以上にクレバーかつエキサイティングです。達人目指して、うまい受けをとれるようになりましょうね。 


⑱ 大人(たいじん)

2007-05-03 16:00:13 | インポート

 前回、黒岩先生の棒切れ術に待ったをかけたのは、いまは亡き大澤喜三郎先生であるというところまでお話しました。

 『大先生はそのようなことを教えていない。だから、大先生の目の黒いうちはやってはいけない』という趣旨であったそうです。棒切れ術は合気道の理合にかなっていると考えていた黒岩先生は『大先生が伝えようとしていることは、つまりこういう(棒切れ術で示している考え方)ことではないのですか』と問い返しました。それに対して大澤先生は『考え方は間違っていない。その通りだと思う』と答えてくださったそうです。自分の考案した稽古法を認めていただいたと感じた黒岩先生は、大澤先生の戒めに従い、その後棒切れ術を封印したのです。

 そして、昭和44年に大先生がお亡くなりになって後も封印を解かず、平成3年に大澤先生がご逝去されるに及んで、やっと再開したのです。『そろそろいいかなと思って』と語る黒岩先生の言葉には、大澤先生との約束を守ったという安堵感が漂っていました。

 そのお話を伺った時、いっしょに大澤先生にまつわるいろいろなエピソードを聞かせていただきました。大澤先生は数多い師範方の中でも特に人情味があって、しかも腹のすわった方だったようです。古くから大先生に師事し、二代道主の時代には相談役のような立場でいらっしゃいました。

 後輩や弟子によく食事をご馳走してくれたり、飲みに連れて行ってくれたりと、親分肌の方であったそうです。黒岩先生が結婚して間もない頃、身内の方が事業に失敗して先生が借金をかぶったことがありました。事情を察した大澤先生は新宿のとある店でうなぎをご馳走してくれ、帰りにお土産まで持たせてくれたとのことで、『あの時は嬉しかったなあ』と述懐しておられました。

 これもだいぶ以前(昭和30~40年代)のことですが、藤沢の道場には吉祥丸先生と大澤先生が交代で指導に行っておられました。その場合、受けとカバン持ちを兼ねて弟子が一人同行するわけですが、大澤先生の番に当たった人はとても喜び、吉祥丸先生に当たった人はひどくがっかりしていたそうです。

 大澤先生は、その日同行する弟子は家がどこで、どんな暮らし向きをしているのかをよく知っていて、帰りの電車では家に近い途中駅で、手土産を持たせて降ろしてくれたのだそうです。一方、吉祥丸先生は必ず本部道場まで同行させ、予定外のタクシー代などがかかってもご自分で払うことはなかったそうです(それが本来のカバン持ちの仕事なのでしょうが)。

 大澤先生は新宿の大きな喫茶店の支配人をされていたとかで、稽古の後は、その店で飲み物を好きなだけ飲ませてくれたそうです。一説には、支配人というと聞こえはいいのですが、要するに用心棒のような役割を担っておられたのだとも伺いました。そのころは新宿を縄張りにしているその筋の人たちも、大澤先生の息のかかった所には手を出さなかったということです。『理由は知りませんけどね』ですって。

 戦後の武術界で実力№1といわれたK氏が本部道場に乗り込んできて、勝負を求めたことがあるそうです。その火種を作ったのはT先生で、ある内部的な悶着をきっかけに『文句があるならかかってこい。だれの挑戦でも受ける』などと息巻いてしまったのです。それをK氏が聞きつけて来たというわけです。結局T先生は取り合わず(というか、はっきり言って逃げて出て来なかったのです)、K氏はさんざん合気会の悪口を言って帰って行ったのです。

 それを後で聞いた大澤先生は話をつけてくると言って、単身、K氏の道場に向かったのです。それを追った若手の弟子たちが、K道場を取り巻いてどうなることかと見守っていると、しばらくして大澤先生はにこにこしながら『話はついた』と言って出てきたそうです。どういうふうに話がついたのかは教えてくれなかったので、内容はだれにもわかりません。その後、K氏は『合気会が詫びを入れてきたので許してやった』というようなことを言っていたそうですが、そんな単純なことではなかったようです。大澤先生は『最悪でもKと刺し違えてくる』と言って出かけられたのだそうですから。

 ついでに、K道場の周りを囲んだのは西尾先生の弟子のグループで、大澤先生に万が一のことがあれば自分たちが乗り込んでいくつもりだったようです。もちろんその時西尾先生はおられませんでしたが。それにしても、事件の発端を作ったT先生は非難に値します。

 以上、晩年の穏やかなお人柄からは想像しにくい、実に肝っ玉の太い大澤先生の横顔のほんの一部を紹介しました。このような方を大人(たいじん)と言うのだろうと思っています。