合気道ひとりごと

合気道に関するあれこれを勝手に書き連ねています。
ご覧になってのご意見をお待ちしています。

25≫ 複眼的に

2007-06-26 10:55:21 | インポート

 表裏、虚実、陰陽、内外など合気道は対語で説明するとわかりやすいことがいろいろあります。今回もそのような表現で、合気道がもたらしてくれるものについてお話します。

 今回は《浮沈、軽重》。これはO道場時代に奥村繁信先生に教えていただいたものです。奥村先生は本部から派遣されて指導にあたっておられました。本業は税務関係のお仕事をされていたと記憶していますが、当時は丸い眼鏡をかけて、学者のような風貌をしておられました。以前に触れた《守・破・離》も《押さば回れ、引かば回りつつ入れ》も最初は奥村先生に教えていただきました。とても温厚なお人柄で、わたしたち初心者が間違った動きをすると『ほー、新しい技を発明しましたね』とにこにこしておられました。

 さて、本題の《浮沈、軽重》です。これは、心持ちは沈静させて、動きは軽やかなのが良いという教えです(軽やかなのと軽々しいのとは違いますからご注意)。反対に、心持ちが浮ついて動きが鈍重なのはよろしくないということです。

 通常、気持ちのありようが動きに現れるので、心が浮き立つと動きまで浮き立ってしまいますし、逆に沈んだ気持ちの時は動きも重苦しくなってしまいます。それではいけないということを、この言葉は教えてくれています。奥村先生は戦前、満州建国大学で合気道を始められた方で、筋金入りの合気道を身に付けられた方ですが、わたしたちに見せてくださったのは、入り身や転換のとき袴の裾が旋回舞踏のように(と言えば大袈裟ですが)きれいに開いて回る動きでした。心持は沈めて、動きは軽くという言葉通りの合気道でした。私自身は現在そのような動きはしていませんが、この言葉の意味は大事だと思っています。逆に、口の軽いのと腰の重いのはいけません(ちょっと違うかな)。

 話は変わりますが、生きていく上で、主体性を保つことと周りとの調和を図ることは、しばしば対立します。これは本来対立するものではないのですが、判断の基準を一つだけに限定(自分を出すか、自分を引っ込めるか)するとそうなります。そんな時は、沈であり、かつ軽であるというような複眼的な考え方ができれば、自ずと答えは出てくるものです。

 多数の人間が社会を構成している以上、それぞれが少しずつ妥協しながら生きていくことは避けようがありません。しかも、妥協の比率が皆に公平であるとは限りません。往々にして、我の強い人がより多くの利益を得るような状況が出来します。そこに不平や不満、不安が生まれるわけです。残念ながら、世間のルールの中にそれに対する合理的な解決方法はありません。

 そこで合気道です。合気道は護身術でもあるわけで、護身というのは肉体だけではなく、心をも護れなければ現代武道としては片手落ちです。強い心をもたらす方法は宗教や哲学等でいろいろ紹介されていますが、武道はそれを力で手に入れようとするものです。力で手に入れると言っても、別に力ずくで無理やり奪おうというものではありません。武道の力とは、言うまでもなく武力のことです。武力とは理性にコントロールされた前進力です(最近は、そうではない武力も存在しますが、それは暴力と言うべきものです)。

 とにかく、武道家はしっかりした稽古で身につけた圧倒的な武力を以って心を護るのです。例えば、小さな子供が蹴ったり殴ったりしてきても、まともな大人はさらりと受け流すでしょ。本気でやり返そうなんて思いませんよね。それは、相手と自分との間に圧倒的な力の差があるからで、それが心に余裕を生むのです。子供とはまったく違いますが、世間の邪悪な(そうまで言わなくてもいいのですが、好ましからざる状況をもたらす)存在に対しても、圧倒的な武力に支えられた強い心で立ち向かうことが武道家の誇りではないかと思っています。

 黙っていればつけあがる強欲な世間に対して、どこかに防衛線を張っておくことは必要かもしれません。これだけは譲るわけにはいかない、というようなものを皆さんそれぞれお持ちでしょう。それを護るため、できるだけの受容の姿勢を示した後は、毅然として拒否すればよいのです。主体性を損ねてまで世間にへつらう必要はまったくありません。それが武道を通じて獲得できる強さだと思っています。

 攻める一方ではない、さりとて護る一辺倒でもない、その辺の呼吸を合気道は教えてくれます。複眼的に。

 


24≫ 礼儀作法

2007-06-15 10:34:46 | インポート

 わたしが礼儀作法について述べるのは、ほとんど天に唾するものであることは重々承知しております。でも、それを抜きに現代武道を語れないことも事実なので、いわゆる道徳とは違う視点で、思うところを勝手に述べてみようと思います。

 礼儀作法と一口に言ってしまいますが、これは礼儀と作法という二つの言葉からなっています。礼儀は相手に対する敬意を秘めた心持ちのことです。作法は、必ずしも敬意を必要としませんが、特定の共同体において、共通の目的にかなった動作、行動を意味します。つまり、礼儀は内なるもの、作法は外に形として現れたものと言えます。

 以前当地には、食事の終わりに、少し残した味噌汁にお湯を注いで薄めた汁を一口飲み、残りを飯茶碗に移して、香の物で椀を撫で洗いし、飲み干すという作法がありました。今でもお年寄りの中にはそのようにする方がいらっしゃいます。これは雲水の食事作法からきたものかもしれませんが、庶民の間に普及させたのは伊達の殿様だという話を聞いたことがあります。食事時に他国からの間者を見分けるため、領内の者達にはそのような作法を躾けたのだということです。

 また、戦場における伝令は主人の前でも馬から降りなくてもよかったという話も聞きました。報告が終わればすぐに前線に取って返すので、降りる暇を惜しんでのことですが、そのかわり鐙から足をはずし、不安定な騎乗状態にしなければならないのだそうです。万が一にも主人に斬りかかっていくことのないように用心したのです。

 これらは実利を目的とし、敬意がなくても作法としては成り立つものです。一方、合気道では、道場への出入りから始まって、挨拶、身だしなみ、稽古場の管理など、稽古に入る前から守るべき作法がたくさんあります。これらは実利的な部分もありますが、仲間に対する敬意がなければ、とてもやれるものではありません。稽古に至っては相手を投げたり、捻ったり、絞めたりするわけで、敬意を持たずにそんなことをしたら、これはもう暴力以外の何物でもありません。おかげさまで稽古ができますという感謝と敬意は絶対に必要です。と、これはまあ力まなくても稽古を続けていくうちに自然に生まれる感情ですが。

 ところで、一般の方からすると、合気道を含む現代武道は、礼儀作法を教えてくれるものと心得ていらっしゃる方が多いようです。 わたしのところでも子供たちに指導をしていますが、以前こんな勘違いの親御さんがいらっしゃいました。『うちのこどもと遊んで頂いてありがとう。躾がなってないのでよろしくお願いします』と言うのです。合気道をライフワークとしているわたしとしては、こどもといえども同じ修行者として扱いますから、遊んでいるなんてとんでもない誤解です。それと、武道入門にあたっては『よく躾けておりますので、ご教授をお願いします』というのが本来です。

 このごろ人気の某若手ボクサーは、礼儀の面ではあまり褒められたものではありませんね。闘志をむき出しにするのはいいとしても、相手に対する敬意がまったく感じられません。プロの格闘家はそれでいいのだと考えているとしたら、それは大きな心得違いというものです。

 そもそも、人を殴ったり蹴ったりしないとご飯が食べられないというのはとても悲しいことなのです。それでも生きていくうえで選んだ道であり、対戦相手も同じ立場に立つ者です。それですから、目の前の敵が実は自分がおかれた境遇の一番の理解者なのだということくらいは気づいてほしいものです。『プロとしては試合をしないと生活できない。あなたが試合に応じてくれたから生きる糧を得ることができる。いい試合をしてお金を出してくれたお客さんに喜んでもらおう。あなたとお客さんに感謝する』。これが本当のプロの料簡というものではないでしょうか。

 人間の強さというものは獣の強さとは違います。人間の強さは愛に裏打ちされていなければなりません。合気道がそのための道標であれば嬉しいですね。

 


23≫ 頓と漸

2007-06-07 13:01:30 | インポート

 これまでわたしの拙文にお付き合い頂いている方はお気づきかと思いますが、型あるいは形と記すべきところを《カタ》と片仮名で表記してきています。これは事前にその区別を明らかにしておくべきでしたが、あえてそうしなくても文意を汲み取っていただくことに不都合はないと判断したからです。それは今でも変わらないのですが、片仮名に何か特別な意味があるかのごとく受け取られるの本意ではないので、ここで簡単に触れておきます。

 型はカタと読みますが、形はカタともカタチとも読みます。その一般的な意味は辞書を引いて頂くことにして、わたしが理解している武道的な解釈を申します。

 型は《鋳型》です。決まったスタイル。指導者が教えてくださる、その通りの動き方です。入門した以上これに異論を唱えてはいけません。門下生の義務です。それがいやならやめればいいのですから。

 一方、形は《形状》です。外に現れる姿形(すがたかたち)、つまり個々人の動きです。これは、同じ鋳型によりながらも、薬缶や鍋を作るわけではないので、すっかり同じものが出来上がってくることはありません。体力、体格、稽古に対する目的がそれぞれ違うので、現れてくるものは微妙に違ってくるということです。これが個性です。

 ここで気をつけなければいけないのは、指導者の教えが《型》だとは言っても、指導者自身にとってはそれが《形》だということです。《形》はあくまでも自分の個性なのですから、指導者としては、そこのところをわかっていないと、稽古者の才能を潰してしまうことにもなりかねません。型を大切にしながらも、稽古者の個性を引き出す、これが指導者の義務です。

 稽古事の段階を表す守・破・離という言葉があります。最初は忠実に教えを守り、次の段階でそれまでの殻を打ち破り、最終的には何物にもとらわれない境地を目指すというような意味です。この言葉、茶道からきているとか能からきているとかいわれます。中には合気道からきているというような意見を述べている方もいらっしゃいます(さすがにそれは違うでしょ)。なかなか意義深い言葉だと思いますが、しかし、ここで言う次の段階とはいつなのか、最終的な段階とはどういう状況なのか、誰がそれを見極めるのかが問題です。さらに守の中の様々な段階にそれぞれ破が含まれ、破の中にも守が含まれるという複層構造になっており、段位や級などで計れるものではないのです。少なくとも白帯が守の段階で、黒帯が破の段階だなんていう単純なものではありません。

 これについて、ひとつの考えがあります。それは、ある形において、居心地がよくなったらそれが限界であり、いつまでもとどまるべき場所ではなくなったということです。次の段階(守から破へ)に踏み出す潮時です。ところが、合気道に限って言えば、多くの方がこの段階で満足しておられるように思われます。それが一番現れるのは演武です。往々にして取りのご本人は気持ちよく受けを振り回し、投げ飛ばして、実にお見事なのですが、本当はその時点で既に人前に晒すべきものではなくなっているのです(上のレベルを目指すならば)。逆説的であり矛盾であり皮肉なものです。

 それでは離とはどういう状況のことを言うのでしょう。質、量ともに優れた長年の稽古の末に、ほんの一握りの人が辿り着く所なのでしょうか。そうだとすると、多くの稽古者にとってはほとんど縁遠いレベルと言えます。どうせ獲得できないのだから、考えることさえバカバカしいことになってしまいます。

 しかし諦めないでください。離は実技の範疇ではありません。心の置き所です。武道においては理合(理屈、考え方)がわかったときです。いま自分が合気道をやっている理由と言ってもよいものです。健康法でも格闘法でも精神修養でも、なんでもいいので、その目的にかなっている、理にかなっていると納得できれば、それが離です。だれにも文句を言わせない心持と言ってもよいでしょう。ただし独りよがりになってないか、注意が必要ですけれど。

 守と破は大波小波を繰り返しながらいつまでも少しずつ(漸)前進していきます。ゴールはありません。一方、離は状況が整えば即座(頓)に辿り着けるものです。考えようによっては、守と破の後に離がくるのではなく、離によって守と破が意味のあるものになるということもあるかもしれません。

 合気道は、このように漸と頓、陰と陽、虚と実のように、表裏一体となった型がつくられ、形を楽しむようにできています。合気道が多くの人に受け入れられる所以です。