合気道ひとりごと

合気道に関するあれこれを勝手に書き連ねています。
ご覧になってのご意見をお待ちしています。

262≫ 集まり散じて

2015-03-24 13:14:39 | 日記
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 【お知らせ】
 第10回 特別講習会を5月17日に開催いたします。
 詳しくは=大崎合気会=ウェブサイトをご覧ください。
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 この彼岸中に、かつて黒岩洋志雄先生の薫陶を受けた人たちが集まっての稽古会がありました。稽古終了後はそろって墓参をし、懇親会をもちました。このような催しは3回目ですが、いつもながら日時、稽古会場、懇親会場の設定などに骨を折ってくださっているZ氏をはじめとする幹事団には頭が下がります。

 参加者は同じ黒岩門下といっても指導を受けた時期や道場がまちまちで、とにかく黒岩先生に指導を受けたという、ただその一点が共通しているだけです。ましてやわたしなどは、籍は先生とは直接関係の無いO道場に置いたまま出稽古というか押しかけ弟子というか、完全に自分の都合でまとわり付いていただけなのに、それを棚に上げて一丁前の顔をして席を陣取っていたりして、きちんと師弟の関係を結んでおられた他の参加者の皆さんにはいささか申し訳ないような気がしないでもありません。

 わたしの他にも他道場出身者の方が幾人かいらっしゃいました。ですから参加者は、入門当初から先生の指導を受けた人と、他道場と二股かけていた方と、大きく分けて2種類の経歴に分けられます。もちろんそのような違いで接し方を変えられるような先生ではありませんでしたから、ただただ有り難いと感じていたのですが、今回、その足場の違いによって黒岩合気道に対する理解が微妙に異なることに気がつきました。

 それはつまり技法の表を見るか裏を見るかということではないかと思います。入門当初から先生の指導を受けた方は、なにしろ動きが先生そっくりで上手いのです。当然といえば当然ですが。ここでは仮にそのようなものを表と言っています。大手門から堂々と入る人です。

 それに対して、他道場に籍を置いて、そこで何らかの疑問をもって黒岩門を叩いたわたしのような立場にある者は、黒岩的技法から何を学び取るべきかという課題を常に背負っていましたから、動きの裏にある理論を見ようとして搦め手門から入る癖がついていました。

 結果、正しい師弟関係にある人は先生の技法をできるだけ忠実に再現しようと考え、一方の押しかけ弟子はその動きを支える理論に興味が向くということになっているのではないかと、そう感じたわけです。師事するについての動機がそうさせるといって良いと思います。

 わたしは、学生時代に3年とちょっとの間、週に2度ずつ指導を受けただけですので、先生の動きをフルコピーするには時間が十分ではありませんでした。ですから、どうしたってその動きを成立せしめている理論をものにしないといけませんでした。理論がわかれば、あとはどんな技にでもそれを応用すればいいわけです。一人で研究せざるを得ない者にとっては黒岩理論は大変ありがたいものでした。

 当日参加されていた神奈川のE氏の話によれば、先生はよく『タテの崩しとヨコの崩しだけ持ち帰って郷里で合気道をやっている人がいるんですよ』とおっしゃっていたそうです。たしかにその通りでしたし、それで技の8割かたは理解できる優れた理論ではあります。

 懇親会の終わりにあたって、よせばいいのにまた一くさり理屈をこねてまいりました。黒岩先生はその技法を通じてわたしたちに何を伝えようとしたのか、それぞれで考えてみてほしいといった趣旨のことです。

 これは実は現在の私自身のテーマでもあるのですが、別に黒岩合気道でなくても、皆さんは合気道を稽古して最終的に何をつかもうとしていますか。

261≫ 洗脳護身術

2015-03-09 17:28:15 | 日記
 最近、じつに興味深い本を読みました。当会会員からお借りしたものですが、《洗脳護身術》=苫米地英人著:三才ブックス刊=といいう本です。著者はオウム真理教事件等で、実際に洗脳状態にある人を解放してやったり、洗脳についての解説をしたりという業務でテレビにも出演されてましたから、知っている方もいらっしゃるでしょう。

 本書の序章にはこうあります。『洗脳の知識がない一般市民は、カルトや洗脳的手法を用いた街頭でのキャッチセールス、悪徳占い師、経済詐欺などの勧誘に、全くの無防備といっていい。そこで本書を読むことで、洗脳に対する予備知識を獲得すれば、それらの危険に対処できるのではないだろうか、と考えたのである。つまり、暴漢に襲われたときのために、武道を習うのと同様に、護身術としての洗脳法を学ぶのだ』と。

 この本で言う洗脳は、上記の反社会的な集団、個人による犯罪にとどまらず、社会に認められている宗教や教育の場でもほぼ同様の手法が使われているという意味で、わたしたちと無縁のものではないということがわかります。目的によってその洗脳が善か悪かに分かれるという、微妙な綱渡りのような技術であるようです。

 洗脳について本格的に理解しようとすれば、本書中に示される《変性意識》、《内部表現》、《ホメオスタシス》というような専門的知識が求められるようです。詳しくは本書を読んでもらうしかありませんが、それらを駆使した結果として現れる、日常と異なる精神状態が洗脳というものの正体だということのようです。これを素人的に解釈すれば現実と仮想現実の境目があいまいになっている状態です。

 しかもその仮想現実は個人の中にとどまるだけでなく、脳波や心拍や呼吸の同期を伴うことで複数の人間と共有することができるのだということです。そして、その技術は医療気功や人を飛ばすというようなことにも応用できると、そういうことです。

 ということになると、一般に合気系武術といわれるものの核心技法がうまく説明できます。つまり、初歩の物理学で説明できない、術者が触っただけで、あるいは術者が着ている衣服をつかんだだけで人が吹っ飛ぶような技法は、これは武術の技法と言うよりは、洗脳による仮想現実の現実化といえるのではないでしょうか。

 たまたま、少し前に《孤塁の名人》=津本陽著:文春文庫=という著作を読んだのでそう思ったのです。これは津本氏が大東流の佐川幸義師に正式に入門した上で佐川氏の生涯を著したものですが、門弟ならではの視点から武術家としての佐川氏の姿が活写されています。

 それを読んで感じたことを述べようと思いますが、多くの武術家が名人と認める佐川氏をわたしごときが評価するとかしないとかということではありませんので、あらかじめお断りしておきます(武術家として立派な生涯を送られた方をわたしは尊敬いたします)。

 まず疑問に思ったのは、佐川氏の高度な技法を求めて入門された方のなかには優れた武術家も多くいたようですが、氏の究極的技法(触れただけで吹っ飛ぶような)は誰ひとりとして受け継ぐことができなかったことです。彼らは、自分にはたどりつけない境地であることがわかった、と言って離れていったとのことです。

 結局それは上に述べたように、(狭義の意味で)武術としての技法ではなく洗脳技術の範疇にあるものだったからではないかと思うわけです。武術の稽古をいくら重ねても、そもそもその延長上に無いものは達成できるはずがないのです。佐川氏自身も洗脳という枠組みではとらえていなかったでしょうから、教えたくても教えられなかったというのが実際ではないかと思います(ただし、氏自身はは日常の鍛錬の先にある技法だと考えておられたようです)。

 本書ではいみじくも佐川氏の究極技法が武術技法ではないことがわかる場面があります。それは、氏の着ているセーターをつかんだとたんに、古参の弟子は3メートルも吹っ飛んでいったが、津本氏は尻餅をついたという記述があるからです。要するに、大きく飛んでも受身をとれる人と新参であまり受身の上手ではない人の反応の違いから、その技法の正体がわかるのです。つまり、飛ぶのも尻餅をつくのもその人が自分でやっていることなのですが、それが洗脳からくるものだとはなかなか気づかないのです。

 古の武術家の中には不思議な術をつかう人がいたことは様々に伝えられています。おそらくそれらも洗脳技術を伴うものだったでしょう。ですから広義にはそれらも武術に含めてよいのかもしれません。しかし、現代武道にそれらを取り込む意義はないように思われます。少なくとも合気道修行の目的はそこにはありません。ではどこにあるか、それはいずれ稿を改めて。