せっかく合気道をやっているのだから、稽古を重ねて大先生の万分の一でもできるようになれば相当な達人のレベルに至るのではないか、そんなふうに思われる方は多いのではないでしょうか。わたしもそのように考えている一人です。合気道というものは、とにかく難しいけれど、ひと山越えるごとに何らかの変化を感じられる、正直な武道です。
そうは思いつつも、ひよっとしたら一足飛びに上達する何か秘密のテクニックがあるのではないだろうかと考えたりもしますが、やはりそれは気の迷いというものでしょう。そのことを諭す道歌を紹介します。
【向上は秘事も稽古もあらばこそ極意のぞむな前ぞ見えたり】
ここでいう秘事は、不可思議に通じる秘密の方策というよりは師の教えによる技法と理合ということでしょう。そもそも合気道は厳しい入門制限を設けて、選ばれた者にしか教授されなかったのですから、その伝習内容が秘事であるというのは決して大袈裟な表現ではありません。
その秘事を受け、しっかりと稽古することこそが向上に繋がるのだと言っています。それを離れてどこかに極意というものが隠されているわけではないのだ、目標は眼前に示されているではないかと、はっきりおっしゃっているのがこの歌です。
さて、大先生によれば、合気道には基本になる技が三千くらいあって、そのひとつひとつがさらに十六に分かれるとのことで、その中身が要するに秘事ということでしょう。もちろんその全てをわたしたちが知っているわけではありません。
わたしたちが基本の技として普段稽古しているのは三つか四つ、それに準ずる技としてさらに数種類あるでしょうか。それでも合わせてせいぜい十種類くらいのものです。もちろんその応用変化技は多数ありますが、とても大先生が数えあげたほどの技数にはおよびません。。
でも、わたしはそれでいいのだと思っています。いたずらに技数を誇るのではなく、技が求めてくるいくつかの武道的体遣いを身につけることが、日常の稽古における当面の目標だと考えるからです。ただ、そう言って、基本の技さえしていればそれでいいと受け取られるのも本意ではありません。たくさんの技ができる人はたくさんすればいいのです。その場合大事なのは技数それ自体ではなく、そこに共通する体遣いを文字通り身をもって味わうことです。
それでは、身をもって味わうとはどういうことでしょうか。言うまでもなく武道は体でするものであって頭でするものではありません。しかし、合気道において、体が感じるものを意味ある要素とするためには頭でしっかりと思惟する必要があります。足でいえば、歩幅、つま先の向き、両足の開き角、重心の置き方など、ここではこうあるべきだという動きは体が覚えます。それをそのままで終わらせず、幅広く展開するためには、体が覚えたものを頭で整理する工程が必要です。それによって単なる動きが意味ある要素となり、一気に応用範囲が広がります。大先生が示される何千何万という技数とはそういうものかもしれません。
道歌にはもうひとつ極意という言葉が入ったものがあります。
【教には打突拍子さとく聞け極意の稽古表なりけり】
文字面のまま解釈すれば、《教えの中では打ったり突いたりのリズム、タイミングが示されているので、感覚を研ぎ澄ましてよく感得しなさい。それこそが一番大切な稽古のあり方なのだから》というくらいの意味でしょう。前の歌では望むなといわれた極意が、ここではしっかりと表されているようです。合気道は剣の理合だ、当身が七割だといわれるのはこの辺の消息からも読み取れます。
しかしそれ以上に留意すべきは、ここでもやはり、大事なものは外に表され提供されている(もちろん門弟に対してですが)ということを述べているという事実です。それでは、ちゃんと明示されているのにわざわざこの歌が残されたということは何を意味するのでしょう。先人に対し失礼を承知で言えば、その外に表されたものの意味を正しく理解できた人が極めて限られていたということではないかと思います。特別な秘法があると考えていた方がおられたのかもしれません。
わたしとしては、稽古において大先生ご自身がどの程度細やかに説明されたかわかりませんし、また直弟子の方々の多くは大先生のお話は難しくてよくわからないという風だったようですから、なかなか大先生の思い通りには伝わらなかったのではないかと思うのです。そのあたりはわたしたちと同じ人間らしくて、かえって親しみを感じます。
歌は自分の心境を吐露する手段であるとともに、他者への伝言でもあるわけで、この道歌から何を汲みとるかは当時の直弟子の方々のみならず現代の門弟にとっても大きな宿題です。そういうかたちで大先生や先人と繋がることができるのは幸せなことだと思います。
=なお、道歌の解釈はわたしのなりの理解であることを申し添えます=