合気道ひとりごと

合気道に関するあれこれを勝手に書き連ねています。
ご覧になってのご意見をお待ちしています。

197≫ 開祖の道歌より その4

2013-01-21 14:49:47 | インポート

 せっかく合気道をやっているのだから、稽古を重ねて大先生の万分の一でもできるようになれば相当な達人のレベルに至るのではないか、そんなふうに思われる方は多いのではないでしょうか。わたしもそのように考えている一人です。合気道というものは、とにかく難しいけれど、ひと山越えるごとに何らかの変化を感じられる、正直な武道です。

 そうは思いつつも、ひよっとしたら一足飛びに上達する何か秘密のテクニックがあるのではないだろうかと考えたりもしますが、やはりそれは気の迷いというものでしょう。そのことを諭す道歌を紹介します。

 【向上は秘事も稽古もあらばこそ極意のぞむな前ぞ見えたり】

 ここでいう秘事は、不可思議に通じる秘密の方策というよりは師の教えによる技法と理合ということでしょう。そもそも合気道は厳しい入門制限を設けて、選ばれた者にしか教授されなかったのですから、その伝習内容が秘事であるというのは決して大袈裟な表現ではありません。

 その秘事を受け、しっかりと稽古することこそが向上に繋がるのだと言っています。それを離れてどこかに極意というものが隠されているわけではないのだ、目標は眼前に示されているではないかと、はっきりおっしゃっているのがこの歌です。

 さて、大先生によれば、合気道には基本になる技が三千くらいあって、そのひとつひとつがさらに十六に分かれるとのことで、その中身が要するに秘事ということでしょう。もちろんその全てをわたしたちが知っているわけではありません。

 わたしたちが基本の技として普段稽古しているのは三つか四つ、それに準ずる技としてさらに数種類あるでしょうか。それでも合わせてせいぜい十種類くらいのものです。もちろんその応用変化技は多数ありますが、とても大先生が数えあげたほどの技数にはおよびません。。

 でも、わたしはそれでいいのだと思っています。いたずらに技数を誇るのではなく、技が求めてくるいくつかの武道的体遣いを身につけることが、日常の稽古における当面の目標だと考えるからです。ただ、そう言って、基本の技さえしていればそれでいいと受け取られるのも本意ではありません。たくさんの技ができる人はたくさんすればいいのです。その場合大事なのは技数それ自体ではなく、そこに共通する体遣いを文字通り身をもって味わうことです。

 それでは、身をもって味わうとはどういうことでしょうか。言うまでもなく武道は体でするものであって頭でするものではありません。しかし、合気道において、体が感じるものを意味ある要素とするためには頭でしっかりと思惟する必要があります。足でいえば、歩幅、つま先の向き、両足の開き角、重心の置き方など、ここではこうあるべきだという動きは体が覚えます。それをそのままで終わらせず、幅広く展開するためには、体が覚えたものを頭で整理する工程が必要です。それによって単なる動きが意味ある要素となり、一気に応用範囲が広がります。大先生が示される何千何万という技数とはそういうものかもしれません。

 道歌にはもうひとつ極意という言葉が入ったものがあります。

 【教には打突拍子さとく聞け極意の稽古表なりけり】

 文字面のまま解釈すれば、《教えの中では打ったり突いたりのリズム、タイミングが示されているので、感覚を研ぎ澄ましてよく感得しなさい。それこそが一番大切な稽古のあり方なのだから》というくらいの意味でしょう。前の歌では望むなといわれた極意が、ここではしっかりと表されているようです。合気道は剣の理合だ、当身が七割だといわれるのはこの辺の消息からも読み取れます。

 しかしそれ以上に留意すべきは、ここでもやはり、大事なものは外に表され提供されている(もちろん門弟に対してですが)ということを述べているという事実です。それでは、ちゃんと明示されているのにわざわざこの歌が残されたということは何を意味するのでしょう。先人に対し失礼を承知で言えば、その外に表されたものの意味を正しく理解できた人が極めて限られていたということではないかと思います。特別な秘法があると考えていた方がおられたのかもしれません。

 わたしとしては、稽古において大先生ご自身がどの程度細やかに説明されたかわかりませんし、また直弟子の方々の多くは大先生のお話は難しくてよくわからないという風だったようですから、なかなか大先生の思い通りには伝わらなかったのではないかと思うのです。そのあたりはわたしたちと同じ人間らしくて、かえって親しみを感じます。

 歌は自分の心境を吐露する手段であるとともに、他者への伝言でもあるわけで、この道歌から何を汲みとるかは当時の直弟子の方々のみならず現代の門弟にとっても大きな宿題です。そういうかたちで大先生や先人と繋がることができるのは幸せなことだと思います。

 =なお、道歌の解釈はわたしのなりの理解であることを申し添えます=


196≫ 共に通いあうもの

2013-01-08 16:08:38 | インポート

 お寒うございます。皆様、年の始めをいかがお過ごしでしょうか。

 わたくしの主宰する会は5日から稽古を始めました。当地は連日厳しい寒さに包まれておりますが、会員の方々は合気道の稽古ということで頑張って出てきてくれます。しっかり指導しないと申し訳ないと思うと、こちらも気が引き締まってきます。そういう意味でも互いに支え合っていることを実感します。

 ところで、この寒さで日中でも路面が凍結しているところがあちこちにあります。気をつけて歩かないと簡単に滑って転んでしまいますが、そんなときよく思い起すことがあります。それは、よく言われる《足の裏で蹴らないで進む》という足運び理論についてです。このブログの読者の皆様もその理論に触れたことがおありと思いますので、ここでは特に説明の必要はないと思います。これは武術的運足法としてたしかに一理ありますし、そんなふうな動きをわたし自身もしていますが、それを言う武術研究の専門家の表現はいささかもったいをつけているような気がします。

 なにしろ、寒冷地に住む人々は、冬場は誰に教えられるともなく蹴らない歩き方をしています。蹴れば滑ってしまうのですから当然です。蹴らない歩き方が武術の要点なら、こちらではヨチヨチ歩きの子供からお年寄りまでみんな武術の達人ということになります。

 また同時に、まったく蹴らない歩法というものはありえません。足を進めるためには反対側の足は地面や床に対して大なり小なりの摩擦を介して停止位置を確保しているのです。スケートで両方の刃(ブレードというのでしょうか)を進行方向に向けたままでは一歩も進めないことでおわかりでしょう。スピードスケートで大股開いて刃を氷に食い込ませるシーンは象徴的です。要するに蹴る蹴らないといっても、それは程度の差だということを言わないと、さも特異な歩法があるかのように誤解してしまう人もいるでしょう(最低限のコツらしきものは、前後でも左右でも腰を押し出す、腰から動くということです。これでほとんど説明できます)。

 わたしは《蹴らない歩き方》に文句をつけようというつもりはないのです、わたしもそうしているわけですから。そうではなくて、合気道を含む武道の体遣いというものは(いや、それにとどまらず、他のスポーツも日常の動作でもなんでも)、必要に応じて、自然の法則に従って作り上げられるのであり、その法則を超えた何か特別な動きがあるわけではないということです。

 先日の新聞に面白いことが載っていました。大相撲の大関 稀勢の里のインタビュー記事です。彼が得意とする左のおっつけは野球で培われたというのです。彼は中学校までは将来を期待された野球少年だったのだそうですが、そのころバッティングや捕球動作の鍛錬のために左の脇の下に帽子をはさんで腕が開かないような指導を受けたということです。そのため常に脇を開かないクセがついて、それが相撲にも役立っているということです。

 まったく縁のない野球と相撲とが、そんなところで繋がるかと感心しました。そういえば、黒岩洋志雄先生が、『合気道は特別な動きをするから価値があるのではない。他の武道やスポーツと共通する動きをするから意味があるのだ』ということをおっしゃって、ボクシングはもとより、相撲、卓球、野球、レスリングなど、いろんな種目との共通性に言及されていたことを思い出します。大先生が偉才であり異彩を放つ方でいらっしゃったので、合気道家としてはどうしても合気道を特別視したくなりますが、そうではなく、当たりまえのことを当たりまえにこなす中に達人の芽が生まれるということです。

 共通性というくくりの中で大先生のお名前を出したついでにもうひとつ話題を提供します。本體楊心流という柔術の名流があります。そこが《日本の古武道=横瀬知行著 (財)日本武道館発行》という本に紹介されているのですが、その中にとても興味深い文章が載っています。『剣術と柔術』と題された囲み記事ですが、そのまま抜粋し次に記します。

 【本體楊心流は、円転の捌きと迅速な入身が技法の中心にあるという。それは素手の格闘術というよりも、剣の捌きに近い。

 「私(第18代 井上 剛 宗家:管理人注)は若い頃、合気道の植芝盛平先生に教えを受ける機会がありました。先生は合気道ばかりでなく、剣術の分野でも免許皆伝であり、合気道の動作には剣術の理合が含まれていると聞きます。本體楊心流においても、捌や入身は剣術からの動きであり、柔術を学ぶものは剣もまた学ぶ必要があると思います」

 「居合術組太刀は当流の入身の技を重点的に用い、『先の位』で気を感じた刹那の瞬間を攻め、気の起こりを攻めて勝ちを得る技です。この理合は長棒組太刀、半棒組太刀においても、全く変わるものではありません」

 井上宗家は柔術と剣術の関係について、そう語っている。本體楊心流では居合術を稽古しているが、これは剣を学ぶ重要性を考え井上宗家が加えたものであるという。】

 このような文章ですが、いくつかの印象深い事実を見出すことができます。

 大先生がいろいろな武術を鍛錬研究されたことや、柔道、剣道、空手道、銃剣道、なぎなたなど現代武道と交流があったことはよく知られていますが、古流武術の宗家が若い頃とはいえ大先生に教えを受けたというようなことは、それぞれの事情もあってなかなか表には出にくい話でありましょう。それを井上宗家は武の人らしい明快さで率直に語っておられることに、わたしは敬意を抱きます。

 そして、円転の捌きと迅速な入身という双方の共通項が示されることことで、交流の必然性が理解できます。宗家がおっしゃっていることは、ほとんど合気道のことではないかと錯覚するほどです。

 もうひとつは、伝統を墨守しているかのように理解されている古流武術の世界で、むしろ伝統を守るために現宗家の判断で居合術を新たに組み入れたということです。そこに踏み出すためには、宗家として重い決断をなされたことと思いますが、このような勇気や柔軟性も現代武道たる合気道に親しむわたしたちが学ぶべきとことではないでしょうか。

 このようなことを知るにつけ、日本の伝統に則った合気道に関わっていることに誇りと喜びを感じます。そしてその和と輪を今年は一層広げようと、年の始めに思いを新たにしているところです。

 

 

  


あけまして おめでとうございます

2013-01-01 17:45:34 | インポート

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 【合気とは愛の力の本にして愛は益々栄えゆくべし】  

 謹んで新年のお慶びを申し上げます

 内外に課題が山積する日本ですが、とりわけ東北人としましては緒についたばかりの震災復興が力強く推し進められることを願うものです。皆様には引き続き被災者の方々にお心をお寄せくださいますよう赤心よりお願いいたします。

 そしてなにより、合気道を愛する皆様のご健勝をお祈り申し上げます。

           平成二十五年 元旦  《合気道ひとりごと 管理人》