合気道ひとりごと

合気道に関するあれこれを勝手に書き連ねています。
ご覧になってのご意見をお待ちしています。

307≫ 世界標準を競う

2016-10-26 13:24:24 | 日記
 前回文中でちょっと触れた、わたしが目指す世界標準技法とはどういうものか、これは以前にも述べたことがありますが、まずはその目指すところから説明いたします。

 世界標準などと、言うことがちょっと大袈裟な気がしないでもないのですが、それには意味があります。合気道においては技法を展開するにあたっての許容範囲が大きいこともあって、同じ技なのに見た目が随分違うことがあります。そういう現状にあって、いくら許容範囲が大きいといっても、せめて中核的な技法においては共通の展開法があるべきで、それを皆で確立してはどうかというのが今回の問題提起です。そのために、権威ある人もそうでない人も、志のある人どうしでそれぞれの技法を提示して競ってみてはどうかという提案です。もちろんわたしもその中の一人として自信をもって提案させていただきます。

 その場合、対象となるのは基本の技とそれに準ずる技に限定されます。それ以外の個性とバリエーションに富んだ技は、これはそもそも比べることはほぼ不可能なので対象外です。

 さらに、提示される各技法はできるだけ細かいところが明示されねばなりません。なにしろ、これまでそういうことがなかったために徒に許容範囲が広がったといえるからです。従来、合気道のような体技は理屈ではなく感覚で身に着けるものだという考えが支配的ですが、世界標準として万人に受け容れられるためには、誰がやっても同じようにできるシステムが必要です。そのためにはできるだけ言葉で説明できる提示法が求められます。

 ですから、『見て覚えろ』とか『やっているうちにわかる』というような提示法や指導法はこの時点で失格です。できるだけ多くの人に合気道を理解してほしいという願いに反します。自分のやっていることをきちんと他人に説明できない指導者は、はっきり言います、落第です。

 大先生が合気道を開創されてからおおよそ90年、その道統をしっかり守っておられる歴代道主に敬意を表しつつ、各道主があえて触れておられない技法の精細部分を明らかにすることを、わたしは求めているわけです。

 ひとつ言っておくべきことがあります。わたしの提案は技法的なものに限定しています。合気道の素晴らしさは精神性にもあるわけで、本来であればその面にも触れなければならないのですが、わたしに限って言えば馬に喰わせるほどの歳をとっても、とてもひと様に能書きを垂れるほどの精神性を持ち合わせていません。このことはごく一部の方を除いて、多くの一般人にとってだいたい同じようなものではないのでしょうか。とても、これが世界標準ですと伝授できるほどの自信はありません。そのようなことは聖人と目されるひと(私たちの世界で言えば大先生)に任せれば良いのだと思います。

 また、武士道などに代表される道徳律が先にあって武術ができたわけではありません。ものの順番として、技法としての武術ができ、その後にそれに伴う道徳観が生まれたと考えるのが自然でしょう。そのようなこともあって、まずは技術面を優先させたいと考えているわけです。

 そういう前提で、次回から各技法について提案してまいります。

【謹んで申し上げます】
 毎年秋季(11月頃)に開催しております特別講習会は、当方の事情により今回は中止させていただきます
 次回までにさらに内容を吟味してまいりますのでご容赦ください。

306≫ 相手を理解する武道

2016-10-10 17:04:15 | 日記
 アメリカ大統領選挙が終盤にさしかかっています。先日その候補者どうしの討論会があり、日本でもテレビ中継され多くの日本人が観たことと思います。よその国のことなのに物好きなことだと思いましたが、わたしもその物好きの一人でした。

 それにしても、一国の、というよりも世界一の強国の元首を決めるための選挙活動があのような非難合戦、はたまた誹謗中傷や罵りあいで良いものでしょうか。品性のかけらもありません。そんな米国式民主主義や大統領制は願い下げです。まずはそんな醜態を目にしないだけでも日本人であって良かったと思っているわけです。

 日本武術は本来闘争の、はっきり言えば殺し合いの技術ですが、それでも戦う相手に対する敬意は失いません。それを証明する逸話はいくらでもあります。もちろん、時代を問わず神仏を畏れぬ振る舞いをする愚か者がいないわけではありませんが、それらが日本人の心情を引き付けることはまずありません。

 その、相手に対する敬意というものがないと上達しない武道、それが合気道です。合気道は、少なくとも稽古においては相手の意思や行動特性を理解していないとうまくいきません。互いに勝手なことをしていたらまったくさまになりません。このことはほとんどの方はおわかりだと思います。この、相手を理解するということがあらゆる人間関係の基礎です。理解したがゆえに嫌いになるということももちろんありますが、理解なしに好意や敬意を持つということは絶対にありません。

 相互理解は敬意の前提であり、合気道をする上での必要条件です。そのようなことを日常的に経験する合気道家が、同時に優れた社会人であることは言うを俟ちません。罵りあいなどからは最も遠くにいる人間集団です。

 このごろは何かというと世界標準こそが善であるかのような論調が幅をきかせています(わたし自身、自分の合気道技法を世界標準にしたいというようなことを以前に述べたことがありますが、これはちょっと脇に置いておいてください。もともと意味合いが違うので)。例えば、どこそこの国(アジアの小国)では学校教育に英語が用いられ言葉に不自由しないので将来性があるとか世界市民になれるというような話を聞きます。現実に英語が世界共通語であることに異論はありませんが、自国語で語り継ぐような文化や歴史は無いのだろうか(無いわけはないでしょうが)と心配してしまいます。

 世界標準とは価値基準を一つにしようということであり、往々にしてそれに外れるものは好ましくないという論調を生み出します。しかし一方では多様な価値観を認めようという意見も強くあり、その時点で矛盾を生じています。そして、いずれの場合も判断の主体は自分です。要するに主観の域を出ません。仮にそれが善意にもとづくものだとしても、主観というのは言い方を変えれば身勝手ということで、そこには相手を理解しようとする態度や姿勢が欠けている可能性があります。

 曖昧なことをごちゃごちゃ言ってしまいました。つまり、相手を理解することが上達の秘訣である合気道に縁を持ち、『和』を貴ぶ社会の構成員であることに、わたしは大いに誇りを持っていると、そういうことを言いたかったのです。

 それにしても、かつての敗戦国日本があんな愚かしい国家元首選びを、世界標準だからと押し付けられずに本当に良かったです。