わたしの稽古場は地元の公立武道館です。ここは全面板敷きのフロアの半分に畳を敷き、板敷きのほうを剣道、空手道、畳のほうを柔道、合気道が使用しています。間仕切りは特にありませんから、わたしたちはいつも剣道や空手の掛け声に満ちた中で稽古をしています。そんな環境に身を置いて思うのは、名前に≪道≫がついていても、その意味をしっかり認識して稽古をしている人は多くないということです。
こんなことがありました。近所の中学校剣道部もここを稽古場としていますが、その指導教師の発言。『こんどの試合ではどんな汚い手を使ってもいいから勝て。試合は勝たなければ意味がない』。こうですよ。わたしはそばで聞いていて我が耳を疑いましたが、いっしょにいた稽古仲間もわたしと目を合わせてあきれた顔をしていましたから、これは事実で、これが教育の現場です(もちろんそれが全てではないでしょうが)。
次は大人の剣道クラブ。わたしたちが稽古をしていてもふらふらと畳に上がりこんでくる人がいます。別に縄張り意識を持ち出すわけではありませんが、武道の稽古場はおおげさにいえば命懸けで修行をする場所ですから、稽古中は他者の入場は遠慮していただきたいものです。当人の側から考えても、家や部屋の出入り、対人距離など、間境を超えるときに最大限の注意を払うことは武道では当然のこととされていますが、そんなありさまでは間合いもなにもあったものではありません。
また、道場の出入り口付近や人の通るところに竹刀や防具を置きっぱなしにする者が多いのも困りものです。竹製とはいいながら、刀は武士の魂だと思えばこそ、こちらは跨いだり足で触れることのないように迂回して通るのですが、そもそもそんなところに置くべきでないのです。まったく気配りが感じられません。
亡父がかつて剣道をしていたので、わたし自身幼いころからたくさんの剣道家を見てきましたが、こんなみっともない剣道家はいませんでした。剣道は日本武道の精華だと思っていますが、こんな具合じゃ、どうもね。
お隣さんの悪口ばかり書いてしまいましたが、お一人、立派な指導者がいらっしゃいます。もはや90歳に手が届こうかという方ですが、この方が指導中に子供を叱る時の方法がユニークなのです。なぜ叱られるのかをよく言い聞かせたうえで、子供の頭の10cmくらい上に竹刀を横に渡し、それに向かって子供が飛び上がるのです。そうするとちょうど竹刀で頭をコツンとやったのと同じようになりますが、先生が打つのではなく子供が納得の上で自らに体罰を加えるのです。初めて目にした時、なるほどこんな教導法があるのかと感心した覚えがあります。
さて、道場にはいろいろな決まりごとがあります。造りが似ていても体育館とは違います。なにしろ、わたしたちの武道館は(よその武道館も同様かもしれませんが)公立であるにも関わらず神棚があります。昔からの伝統だというだけでは言い尽くせない理由があるのでしょう。これが体育館だったら信教の自由や政教分離に抵触するとかなんとか言って騒ぎたてる人が必ず出てきます。こんなことからも、武道は特別の立場にあることを一般から認知されていることがわかります。であれば尚更、武道家は武道家らしい行動と価値観を身につけることが期待されているのです。
そういえば黒岩先生も自前の道場を持っておられるわけではなく、まして都会のことですから稽古場の確保にはご苦労されたことでしょう。わたしが初めて伺ったのは錦糸町の道場で、その後、向島や蔵前と変遷してきていますが、先生のご苦労も知らず脳天気なものでした。
わたしが郷里に帰ったばかりの頃は、まだ現在の武道館がありませんでしたので、ちょっと離れた中学校の武道館や、地域の集会所を借りて稽古を始めました。集会所は普通の畳だったので、しばらく稽古を続けたら畳が毛羽だってしまい申し訳ないことをしました。合気道自体もあまり知られてなく(もちろん当地ではだれもやっていませんでしたから)その説明から入らなくてはなりませんでしたが、関係者の理解とご協力はとてもありがたかったものです。
そもそも道場とは釈迦が悟りを開いた菩提樹の下を指す言葉です。となれば、わたしたちが道場でなすべきことは、合気道を通じて開祖の掲げた理想に近づく努力をすることでしょう。きちんと道場があるということは幸せなことです。