合気道ひとりごと

合気道に関するあれこれを勝手に書き連ねています。
ご覧になってのご意見をお待ちしています。

34≫ 道場

2007-08-27 16:13:21 | インポート

 わたしの稽古場は地元の公立武道館です。ここは全面板敷きのフロアの半分に畳を敷き、板敷きのほうを剣道、空手道、畳のほうを柔道、合気道が使用しています。間仕切りは特にありませんから、わたしたちはいつも剣道や空手の掛け声に満ちた中で稽古をしています。そんな環境に身を置いて思うのは、名前に≪道≫がついていても、その意味をしっかり認識して稽古をしている人は多くないということです。

 こんなことがありました。近所の中学校剣道部もここを稽古場としていますが、その指導教師の発言。『こんどの試合ではどんな汚い手を使ってもいいから勝て。試合は勝たなければ意味がない』。こうですよ。わたしはそばで聞いていて我が耳を疑いましたが、いっしょにいた稽古仲間もわたしと目を合わせてあきれた顔をしていましたから、これは事実で、これが教育の現場です(もちろんそれが全てではないでしょうが)。

 次は大人の剣道クラブ。わたしたちが稽古をしていてもふらふらと畳に上がりこんでくる人がいます。別に縄張り意識を持ち出すわけではありませんが、武道の稽古場はおおげさにいえば命懸けで修行をする場所ですから、稽古中は他者の入場は遠慮していただきたいものです。当人の側から考えても、家や部屋の出入り、対人距離など、間境を超えるときに最大限の注意を払うことは武道では当然のこととされていますが、そんなありさまでは間合いもなにもあったものではありません。

 また、道場の出入り口付近や人の通るところに竹刀や防具を置きっぱなしにする者が多いのも困りものです。竹製とはいいながら、刀は武士の魂だと思えばこそ、こちらは跨いだり足で触れることのないように迂回して通るのですが、そもそもそんなところに置くべきでないのです。まったく気配りが感じられません。

 亡父がかつて剣道をしていたので、わたし自身幼いころからたくさんの剣道家を見てきましたが、こんなみっともない剣道家はいませんでした。剣道は日本武道の精華だと思っていますが、こんな具合じゃ、どうもね。

 お隣さんの悪口ばかり書いてしまいましたが、お一人、立派な指導者がいらっしゃいます。もはや90歳に手が届こうかという方ですが、この方が指導中に子供を叱る時の方法がユニークなのです。なぜ叱られるのかをよく言い聞かせたうえで、子供の頭の10cmくらい上に竹刀を横に渡し、それに向かって子供が飛び上がるのです。そうするとちょうど竹刀で頭をコツンとやったのと同じようになりますが、先生が打つのではなく子供が納得の上で自らに体罰を加えるのです。初めて目にした時、なるほどこんな教導法があるのかと感心した覚えがあります。

 さて、道場にはいろいろな決まりごとがあります。造りが似ていても体育館とは違います。なにしろ、わたしたちの武道館は(よその武道館も同様かもしれませんが)公立であるにも関わらず神棚があります。昔からの伝統だというだけでは言い尽くせない理由があるのでしょう。これが体育館だったら信教の自由や政教分離に抵触するとかなんとか言って騒ぎたてる人が必ず出てきます。こんなことからも、武道は特別の立場にあることを一般から認知されていることがわかります。であれば尚更、武道家は武道家らしい行動と価値観を身につけることが期待されているのです。

 そういえば黒岩先生も自前の道場を持っておられるわけではなく、まして都会のことですから稽古場の確保にはご苦労されたことでしょう。わたしが初めて伺ったのは錦糸町の道場で、その後、向島や蔵前と変遷してきていますが、先生のご苦労も知らず脳天気なものでした。

 わたしが郷里に帰ったばかりの頃は、まだ現在の武道館がありませんでしたので、ちょっと離れた中学校の武道館や、地域の集会所を借りて稽古を始めました。集会所は普通の畳だったので、しばらく稽古を続けたら畳が毛羽だってしまい申し訳ないことをしました。合気道自体もあまり知られてなく(もちろん当地ではだれもやっていませんでしたから)その説明から入らなくてはなりませんでしたが、関係者の理解とご協力はとてもありがたかったものです。

 そもそも道場とは釈迦が悟りを開いた菩提樹の下を指す言葉です。となれば、わたしたちが道場でなすべきことは、合気道を通じて開祖の掲げた理想に近づく努力をすることでしょう。きちんと道場があるということは幸せなことです。

  


33≫ 術と道 

2007-08-19 15:30:52 | インポート

 名は体を表すと言います。言い換えれば、名前が違えば中身が違うということです。《瓜にツメあり、爪にツメなし》とか《ハケに毛がアリ、ハゲに毛がなし》とか、これはまあ漢字、言葉遊びですが(ちょっと違うか)、では武道と武術は何が違うということになるのでしょう。

 合気道は現代武道のひとつです。現代武術とは言いません。言ってもいいような気がしますが、なぜかそうは言いません。なぜでしょう。武術と言うより武道と言ったほうが、精神修養の意味合いが含まれて高級そうな感じがするからでしょうか。でも、現代にも武術家はいますし、その人たちが武道家より精神的に劣っているなんてことはありません。いや、むしろその覚悟において、おおかたの武道家より数段上を行くかもしれません。

 ではここで、武術と武道の違いを、実践者の立場から考えてみたいと思います(国語的な意味の違いは辞書で調べてみてください)。まず《武》ですが、これは、《戈(ほこ)を止める》と書くから、争いをやめ平和を導くものだということを意味すると説明されることがあります。たしかに中国古典の中にそのように記している書物があります。武道関係者はそのような解釈がお好きなようで、かなり世間に広まっているようですが、それはやはり恣意的解釈であって、本来の字義とは違います。本当は、戈を捧げ持って、力強く前に進む(止は足の意味です)というのが漢字学における正当な解釈です。これなら武の意味にぴったりです。ここには現代的平和観の入り込む余地はありません。

 さて、そういうことをわかった上で、武術と武道の違いを考えてみましょう。簡単に結論を言えば、武術は手段で、武道は目的だということです。

 分野が違いますが、禅に臨済宗と曹洞宗という二大宗派があります(黄檗宗というのもあります)。根っこは同じなのですが、いろいろ相違点があります(なければ分派する必要はなかったわけですから)。例をあげれば、座禅をするとき壁に背を向けて座るか壁に向かって座るかとか、いわゆる禅問答として知られる公案というものを採用するかしないかとかです。

 それらは表面上は修行の方法論の違いではありますが、その意味するところは実は本質的な違いに結びついていきます。臨済宗における座禅は悟りを開くための手段であり、座禅を組みながら公案(なぞなぞの宿題みたいなもんです)の意味を探り、答えがわかったら師匠のもとに飛んでいくのです。それに合格したら小さい悟りに達したと認められる。そういうことを何度か繰り返して大きな悟りに達したと認められれば卒業です。だからいつでも駆け出せるように壁に背を向け前を向いて座るのです。一方、曹洞宗における座禅は、そのままで悟りの姿であるということです。ですから曹洞宗では、一分座れば一分の仏(悟りの岸に達した者)、十分座れば十分の仏といわれ、座禅という手段がすでに目的化(悟りの表現)されています。既に悟っているわけですから宿題もなく、だから師匠のもとに駆けつける必要もなく、禅宗開祖達磨大師のようにひたすら面壁するのです。

 実は同じようなことが武術と武道にもあてはまると私は考えているので、畑違いの分野のことに触れてみたわけです。

 武術の本質は敵を制する技術であり、本来、武術家の目的は武術の上達そのものではなく、武術という手段の先にある戦闘における勝利(禅においては悟り)です。一方、武道家(とりわけ現代武道家)は武道の先に戦闘を想定しているわけではなく、武道の稽古そのものを楽しんでいる(中には苦しんでいる人もいるでしょうが、既に目的を達している)と言っていいでしょう。

 要するに、稽古を手段ととらえるか目的ととらえるかの違いではないかと思うわけです。どちらが上等かそうでないかということではありません。そういうわけですから、現代武道家としては、ひたすら稽古に精進すればいいので、その結果として、健康であるとか心の安定とかケガ、その他の危険からの回避といったことが副次的にもたらされるのです。

 ところで、わたしも合気道修行者として、大きくとらえれば武道家のひとりであるわけですが、これまでの幾たびかにわたる文章をお読みくださった方は、わたしの武術志向にお気づきかもしれません。これはしかし、合気道は武術であるべきだと言っているわけではなく、武という側面があまりにもなおざりにされていることへの警鐘のつもりで述べたことです。武道で大いに結構。しかし今の合気道は武道と名乗るのも憚られるほど、武から離れてしまってはいないか、その問いを投げかけているのです。弱い武道はいやでしょ。

 願うらくは共に大悟の道に入らんことを。


32≫  体の要

2007-08-10 16:28:46 | インポート

 合気道の基本の構えは半身といって、足を前後に開き、撞木立ちとし、それに伴って腰から上は正面に対して斜めになります(顔は正面を向き、両手刀を体前に配する)。

 ここからいろんな体捌きを展開していくのですが、本来これは守りの身構えです。相手にさらす投影面積を小さくするもので、体がさらに極端に横向きになれば一重身になります。一重身から攻撃できるのは、体術なら空手の足刀蹴りのようなものに限られます(ブルース・リーは一重身に構えますね。あれはカッコいい)。

 大相撲では実況のアナウンサーが、相手の攻めが強力で受けにまわった力士について『半身の体勢でこらえています』と表現することがあります。そうなると、きちんと四つに組み直さないとなかなか反撃できません。相撲で半身から出せる技は相手の出足に合わせた出し投げくらいのものでしょう。

 四つに組み直すというのは、攻めるために相手と正面で向き合うということです。これは他の武道でも同じことです。合気道だってそうですよ。合気道の体捌きは半身から半身への連続だと言われることがありますが、相手に対しての攻めは、半身の切り替えで一瞬自分の正面に相手を捉えた時にするのです。

 それでは、ここで正面を向くというのは、何が正面を向くのだと思いますか。顔は半身の時も正面を向いていますから、この場合は違いますね。上半身ですか、おしい。つま先、それもおしい。その間にあるもの、腰です。

 武道では、前後左右に動きやすく、なおかつ腰(骨盤)を正面に向かせるために、足の配置をいろいろ工夫しています。骨盤を正面に向けるのは、全身の力を一点に集中させるためです。剣術や居合では(現代剣道も)刃筋を通しやすくするためにも両足のつま先を平行に前に向け、そのことによって腰を正面に向ける流派が多いようです(どんな足構えでも刃筋が通らないようでは素人だ、と言っている方もいますし、撞木足で攻防する流派もありますが)。反対に、撞木足の前足をもっと外側に向けた≪ソの字立ち≫(足の配置がカタカナのソの字に似ているから。裏三角立ちともいいます)でも平行足と同じように骨盤が正面を向きます。みなさんも実際やってみるとわかりますよ。

 そこで、攻めです。体の前に両腕で輪を作ってみてください。合気道で手が有効な働きをするのは、この輪の範囲内なのです(制空権とでもいうべき間合いです)。その外側に手を伸ばしても相手に大きなダメージを与えるほどの働きはできません。つまり、相手に対する働きかけ(攻め)は体の正面で、かつ、ごく間近で行うということになります。手を使わない場合でも、例えば塩田剛三先生は、相手が両肩を突いてくるのに対し、足はソの字立ち、骨盤を正面に向けて肩で弾き返すような呼吸投げを、よく演武しておられました。これは半身では不可能です。

 さて、攻防いずれかによって腰の向きが変わるということはおわかりいただけたと思います。そこでもうひとつの腰の役割について触れておきましょう。

 二代道主 植芝吉祥丸先生はご著書≪合氣道:光和堂・復刻版㈱出版芸術社≫の中で、半身の構えを≪三角体≫と称し、『最も安定した、いわゆる正三角四面体の態勢』であると解説されています。と同時に『いかなる変化にも応じ得る態勢でなければならない』とも述べておられます。ということは、三角体による安定を崩して(安定していては動けませんから)、静から動に移行する瞬間があるということです。その時、安定を崩す働きをするのが腰です。腰は体の重心ですから、この重心が動かないと体が移動することはできません。普段の稽古では、意識して腰から動き出すようにすれば自然に身についていきます。

 つまり、腰は静(安定)の基礎であるとともに、動(積極的不安定)の原動力でもあるわけです。にくづき(月:体のことですね)にかなめ(要)とはよくぞ考えついたものだと感心します。

 ついでですが、転換は終末姿勢が独特で(あれはお姫様ダッコですな)、その形に注意が向きますが、むしろ腰(臍下丹田)を意識すべき鍛錬法であろうと思います。ちなみにその時、腰は正面を向いていますね。力を集中できる形です。


31≫ 方向指示器

2007-08-03 17:11:06 | インポート

 今回はちょっと技術論に触れてみます。

 合気道は手や腕を操作する動きが多いので、どうしてもそちらに注意が向いてしまいます。それももちろん大事な技術ではあります。でも、手、腕は胴体に着いているものですから、胴体そのものが動かないと文字通り小手先の技になってしまいます。その胴体を移動させるのは足であり、その扱いこそが≪遣える合気道≫の必要条件となります。

 足技のある柔道や空手などでは、当然のことながらかなり詳細に足遣いを指導されます。足技のない居合でも、つま先の向きや膝の曲げ具合、踏み出しの大きさなど、足遣いについてはいろいろと定めごとがあるようです。

 一方、合気道における足遣いについて、一般的には、半身の構えの際に撞木足(前足は前向き、後足は横向きに配する構え)にするということくらいしか指導されていないのではないでしょうか。あとは一歩踏み出すとか、片足を軸にして回るとか、しごく大雑把な説明しかなされていないように思われます。

 実は合気道でも、二代道主・植芝吉祥丸先生の著された≪合気道入門:㈱東京書店≫では、ひとつひとつの技ごとに足の動かし方が図示されていて、読者の便宜に配慮されています。また、西尾昭二先生の晩年の著作≪許す武道 合気道:合気ニュース≫では、足遣いに関して西尾先生ならではの貴重な記述があります。

 ただ、細かいところはやはり指導者に直接教わるほかありません。でも、指導者自身がその重要性を認識していなければ、稽古中話題にすら出てこないのではないでしょうか。もちろん、どのような性格の合気道を目指すかによって、重要度は違うと思います。体力と迫力で相手を圧倒するような合気道を目指す方には細かな足遣いなんて無縁のものかもしれません。ちなみにわたしがやりたいのはそれと正反対の精密な合気道です。

 そういうわけで、この後の技術論はわたしの志向を好しとする方だけ読んでいただければ結構です。

 まず、足の向き(つま先の向き)は、車の方向指示器に相当するということです。つまり、つま先が向いている方向に体が動いていくのが道理だということです。右足のつま先が右に向いたまま左足が左に進み、体も左に移動するような場合、それは足腰の力の分散を意味し、合理的な動作とはいえません。

 ここで仮に、右相半身からの正面打ち一教表を想像してみてください。相手の打ち込みに合わせ、右手を振りかぶりながら右足を一歩進めます。この時、足はまっすぐ前ではなく幾分右前に踏み出します(この部分、細かい説明が必要ですが、今回のテーマとは直接関係がないので割愛します)。そしてここが大切なのですが、右足が接地した時点でつま先は斜め左前に向いていないといけません(技のヴァリエーションで、そうでない場合もありますが)。なぜなら次に体は相手の中心に向け左前方に進むからで、それを前もって指し示しているわけです。そして、左足を一旦右足近くに引き付け、相手の両足の間に踏み出します。この時も次なる体の移動を想定して接地の時点でつま先が斜め右前に向いているようにします。つまり内股にしてジグザグに足を運ぶのです(このあたり、足をハの字に構える空手のサンチンの足遣いに似ています)。(尚、移動距離はあまり大きくないほうがよろしい。二歩で1m程度の前進、左右の振れは50cm程度の範囲です。ご参考まで)

 さて、そこをおろそかにして両方のつま先が開いてしまうと、合理的な力(すなわち運動量=質量×速度)を生み出せないばかりか、筋力にのみ頼って相手を倒すことになります。体の大きい人はそれでも良いかもしれませんが、武術の本質(力の劣るものが自分より勝るものに勝つ工夫)とは隔たりがあります。足をハの字に配することによって力の集中とスムーズな移動(場合によっては蹴りも)が可能となります。

 今回は正面打ち一教を例に足遣いを説明しましたが、他の技においても同様です。それにしても、つま先が向いたほうに体が動くという、当たり前と言えばこれほど当たり前のことがなかなかできていないところに、踊りと化した合気道(言い過ぎはわかっていますが)の問題点があると思っています。 

 ところで、合気道(に限らず武道全部)では体捌きが重要であり、それは足遣いによって支持され、成立せしめられています。しかし方向指示器とはいいながら、足が体移動を先導しているわけではありません。武道においては先導の役目は腰が担っています。実際上、足は腰の移動に促されて踏み出したり回ったりするのです。つまり、足の踏み出し以前に腰から移動が始まっているということです。武道で臍下丹田を意識するように言われるのも、そこが体の重心であり動きの起点だからです。足はそれに導かれて体を支える役目をするものです。その腰については、またあらためて。