合気道ひとりごと

合気道に関するあれこれを勝手に書き連ねています。
ご覧になってのご意見をお待ちしています。

110≫ 弟子考

2009-09-23 15:00:04 | インポート

 このブログにコメントをくださる方や合気道関連の行事でお会いする道友から『黒岩先生の弟子』との肩書きを賜ることがあります。たしかに合気道修行の最も大事な時期に先生のご指導をいただき、わたし自身《おしかけ弟子》を自認していますので、そのように受けとめていただいて結構なのですが、よく考えてみると先生のほうから正式に弟子に任じられたということはないのです。

 それではただ単に指導する側とされる側(先生と教え子)の関係かというと、それもちょっとニュアンスが違うなという感じで、なんとなく座りが悪いのです。そんなわけで、弟子とは何かと考えてみました。

 弟子と教え子の違いは何でしょうか。一般的に、職人の世界では、師匠は弟子に技を教えながら、必要最小限の衣食住を提供し、弟子は師匠の仕事の下回りをしたり、身の回りの世話をします。普通の先生と教え子の関係では、そこまでのやりとりはないでしょう。また、金銭面で見ると、弟子は小遣い程度の給金をもらえますが、教え子は授業料を払います。

 大先生がかつて北海道白滝の地で指導を仰いだ大東流の武田惣角師は英銘録というものに講習を受けた者の名を残していますが、その人たちは当時それなりに社会的地位の高い人か経済的に余裕のある人で、彼らは少なからぬ受講料を支払っていました。別の言い方をすれば、金持ちでないと教えを受けられなかったのです。大先生にいたっては受講料どころか家屋敷まで提供しておられます。(バックナンバー⑥高級万年筆:2007/03/01参照)

 一方、大先生は教え子から直接金銭を受け取ることはなく、教えていただいた人は、しかたがないので神棚にお納めしたということです。もちろん、大先生とて武道教授で身を立てておられたわけですから、お金が必要な時は神様から頂くのだということにしておられたそうです。

 こうしてみると、わたしは黒岩先生の身の回りの世話をしたことはありませんし、さりとて授業料を払ったこともないので、厳密には弟子でもなければ教え子でもないということになりそうです。でも、ここまでの考察で、少しわかったことがあります。それは、師匠と弟子は両者がプロフェッショナルの世界の関係であり、先生と教え子は、片方がプロ、一方がアマチュアということなのではないかということです。

 ただこの場合、プロとアマの定義が問題となります。なんらかの技術、能力をもって、それで飯が食えることがプロだとすると、わたしはどうもプロではありません。でも、いささかの報酬をいただいていますのでアマとも違う、これまた中途半端な身分です。

 しかし、このような立場は黒岩先生も似たり寄ったりで、合気道家としての人生の大部分において、指導報酬のみで家計を支えてこられたわけではありません。当時は本部師範といえども、それぞれなんらかの方法で口に糊する努力をしておられたようです。

 ですから、一芸をもって飯が食えるか喰えないかは、合気道に限っていえばプロの基準とはなりえないことがわかります。では何をもってプロというのか、それは、この道に生涯を懸ける覚悟があるかどうかではないかとわたしは思います。と言うと少々大仰ですが、つまり、合気道が精神のありようとしての生活の糧であることが最も大切な条件だということです。

 それを仮に私自身にあてはめてみると、、プロである先生と、生涯を懸けて(ライフワークとして)合気道を究めたいと願うわたしとの関係を師匠と弟子と称しても、まんざら間違いではないのではないかと、勝手に思っているわけです。

 そして、実のところこれがもっとも重要な師弟関係の証明ではないかと思うのが、理念の継承です。合気道の場合、先生の形に似せることは器用な人ならそう難しいことではありません。しかし、それは外見が似ているだけであって、どんなに優秀な弟子であっても、完全な複製、復元はできないのです。体格や身体能力、その他諸々の要素が異なるのですから当たり前のことです。大先生の直弟子の師範方が、良く言えばそれぞれ独自の個性を発揮しておられる、別の言い方をすれば見た目がみんなばらばらなことからもそれは明白です。

 彼らに共通なのはこまごました技法ではなく、大先生を心から尊敬し、その理念を次代につないで行きたいという思いではないでしょうか。そのことをもって、弟子と称するに十分なのであり、それは現にいまどこかの道場で指導を受けているすべての人にも当てはまります。技法を学ぶことが、実はそれぞれの指導者の理念を学ぶことなのです。それに気づいた時、教え子は弟子となります。


109≫ パンタグラフ式足構え 

2009-09-09 11:47:11 | インポート

 ボクシングにはダッキングやウィービング、スウェーバックなど、上体の動きによって相手のパンチを避ける防御技術があります。動きが派手な分、どうしても上半身に目がいきますが、その動きを支える足の備えがあればこそです。

 同様に、合気道において体捌きは最重要の技法ですが、それもやはり足の働きに依拠します。ですから、取りでも受けでもドタバタした足運びは禁物で、およそ武道的動作とは言えません。他の武道の稽古においてそのような足遣いをするのは皆さんだって見たことはないでしょう。あるとすればそれは勝負に負ける瞬間です。たとえば相撲で、土俵際まで押し込まれて、かろうじて踏みとどまったところに上手投げなどをうたれると、いわゆるタタラを踏んだりドタバタ足になったりします。剣道だったら打ち込みをはずされて、横からほとんど体当たりのような面をくらい、立つのがやっとのような時の足もそうです。

 要するに、足の着き具合、歩幅、左右の荷重の比率など理想的、合理的な足遣いを普段の稽古で身に付けておかないと、わざわざ負けに行くような稚拙な動きになってしまうということです。足遣いをゆめおろそかにすべきではありません(逆にいえば、ものすごくいいかげんな足遣いが横行しているということです)。

 さて、合気道の構えは半身を基準とします。その場合の足構えは撞木足(前足爪先は正面向き、後ろ足はそれとほぼ直角に横向き)になります。その前足の爪先をもっと外側に向けたのを裏三角立ちとか、ソの字立ち(カタカナのソに似ているから)といいます。あるいはまた、剣道や居合で採用されている平行足や、空手のサンチン立ちのように爪先を内にしぼったような足構えも、臨機応変に遣われます。

 今回特にお伝えしたいのは、ソの字立ちの前後の歩幅をつめて、本当のカタカナのソに近い足構えのことです。よくモデル立ちといわれる立ち方から、膝を外側に開き、脚全体が電車のパンタグラフのような形になる足構えです。このような足形は一般的な指導では採用されたり指摘されたりすることはほとんどありませんが、わたしの感覚では非常に意味のある構えのように思われます。

 以前に、四方投げや一教などについてわたしなりの方法を紹介しています。そこでも、この足構えを連想させる表現はしていますが、その後、いろいろな技について、より有効で合理的な動きを探究するなかで、このパンタグラフのような足形が動きのさまざまな局面で活躍していることに気付きました。

 転換などで半身の構えをとる際、普通は下半身の鍛錬や重心を低く保つために前後の足幅を大きくとるのが良いと考えています(これはこれで大いに推奨します)。しかし、それはあくまでも鍛錬のためであったり動きの中での瞬間的な姿勢であり、のべつ足間隔を広げているわけではありません。実際の動きとしては両足があまり離れずに、というか、離れたら寄せ離れたら寄せというように連動し追随して動くのが良いようです。剣道の打ちこみなどで、前足の踏み出しに合わせすぐ後足を引きつけるような動きです。

 また、四方投げなどで体を回転させるような動きの場合も、両足が≪離れたら寄せ≫の要領で、回転の中心軸を意識した体捌きをします。それによって最後はパンタグラフ式足構えのまま受けを垂直に落とせる合理的な動きになります(わたしは受けを後方に倒すのではなく、後頭部から真下に落とすような動きが本来の動きだと思っています)。

 両足の間隔を大きくして構えることの欠点を二点あけておきます。ひとつは、足間隔が広いと横からの力を加えられた場合、上体の崩れに対し姿勢保持のための足の移動が間に合わないことがあるということ。これは感覚的におわかりいただけると思います。一方、パンタグラフ式の場合、両足が重心のほぼ真下にありますので前後であれ左右であれ、上体あるいは腰の移動に両足が即座に着いて行けるのです(瞬間的に浮身になります)。

 そしてもうひとつは、脚を大きく開くと、それにつれて(なぜか)腕も伸びるということです。構えが全体として大きくなり見映えはよいのですが、有効かつ合理的かというと、そうではないと言わざるを得ません。前述の足の移動も同じ理由ですが、手足の力というものは体幹の近くにあるほど大きく出せるからです。テコや滑車の原理と同じです。ですから、大きな足間隔で体を固定し腕を伸ばしきって一教や四方投げをかけるなどというのは、とてもお勧めできません(これも実際は多くの方がやっています)。おまけに、合気道では当身が大事とはいっても、伸びきった手足など蹴りや突きを出すのになんの役にも立ちません。

 そのように、体の中心(正中線)を意識し、俊敏かつ強力な動きと技を繰り出すために、パンタグラフ式足構えは有効です。これに似た足構えは柔道、空手、古流剣術や居合その他の武道にもたくさんあります。とりわけ『くるくる回る』と評された合気道には最もふさわしい技法だと思うのですが、どうしてそのような教えがないのか不思議なくらいです。わたしはこれをお勧めします。