合気道ひとりごと

合気道に関するあれこれを勝手に書き連ねています。
ご覧になってのご意見をお待ちしています。

21≫ あたりまえじゃないこと

2007-05-22 17:12:47 | インポート

 前回の続きのような話になります。

 屁理屈屋のわたしが言うのもナンですが、この世には理屈では割り切れない、人智を超えた大いなる力が存在するのではないかと密かに思っています。同じように思っている方、わたしの他にもいらっしゃるでしょ。でも、その力の源が具体的にどのようなものであるかを想像したり、思うさまにその力を利用するということはできません。なにしろ人智、分別を超えているわけですから。だとすると、そのようなものの存在を感じながらも、日常においては尋常(あたりまえ)な理解の範囲内で物事を処理していくというのが健全な思考力を持った人の生活方法です。

 ところで、合気道の愛好者は、変に武張ったりしない、温容な方が多いのではないかと思っています。そして、上位者には敬意を、下位者には愛護の情を持っておられる。そのため上から下に向けられた情報は素直に受け入れられます。これは人間としての美点ですが、情報が誤っている場合、それを修正する力が働かないことも、ままあります。

 さて、《気》は合気道家にとって最も気になる言葉でしょう。いろんな人がそれについて持論を述べています。百花繚乱というべきか百家争鳴というべきか、実に賑やかなことですが、要するに、だれにも確かなことはわかっていない、ということだけわかっています。事象としては、腕に気を通せば相手が力いっぱいこちらの肘を曲げようとしても曲がらないとか、相手と気でつながっていると掴んだ手が離れないとか、もっとすごいのは気で相手を飛ばすとかいった類のものです(これらはわたしもO道場時代に指導者から言われたことがあります)。

 でも、それらは《気》という曖昧な概念を持ち込まないとできないことなのか、他の、より科学的な方法で実現できるのならそちらで説明すべきではないか。もっと言うならば、肘なんか曲げるために関節があるわけですし、相手が手を離そうとするなら自分で掴まえればいいし、気で飛ぶのが身内だけなら武道としては意味がないと、そう思うのです、わたしは。

 かつて浪越徳治郎氏という指圧の大家がいらっしゃいました。マリリン・モンローが来日した際、彼女に指圧治療を施した方です。その浪越氏が、超能力者といわれるユリ・ゲラー氏が手を触れずに火鉢(だと記憶していますが、正しいところは忘れました)を持ち上げたという話を聞き、『自分なら親指で挟み込めば、かなり重くても上げられる。わたしとユリ・ゲラーさんとの差は両手の親指2本分だけだな』という名言を残されています。実に愉快ですね。わたしたちが合気道で目指すべき道をきっちり指し示してくださっています。

 このように、少なくとも指導者は、稽古者に対して進むべき道と道標を提示しなければなりません。しかし、指導者が《気》を悟得していないのであれば、気という言葉を安易に使うべきではありません。指導者の中には初心者に対しても『はい、気を出して』とか『気で制する』とかを求める方がいます。気の大安売りです。一休さんの虎退治ではありませんが『気というものがあるのなら、ちょっとそれを出してきて見せてください』と言ってしまいそうです。

 ちなみに黒岩先生は指導の際、気という言葉を使いません。以前その理由を伺ったことがあります。それに対して先生は次のように答えてくださいました。

 『仏道修行で座禅を組むのは、今は悟っていないけどいずれ悟りを開きたいからでしょ。それを座禅の初っ端から悟れ悟れといったって無理だし、師匠もそんなこと求めない。ところが合気道では入門したその時から気を出せって言いますね。言われて出せるくらいなら稽古なんてする必要ないんですよ』。

 それはまったくその通りですが、稽古を続ければ気を出せるようになるのでしょうか。それについて先生は、

 『気はね、出したり引っ込めたりするもんじゃないんですよ。気は修行の度合いに応じて自ずと現れるものなんです。一年稽古したら一年分の気、十年稽古したら十年分の気が。』

 結局それは英気であったり精気であったり、その人の存在自体が醸し出す雰囲気なのでしょう。小賢しいテクニックとは無縁のもののようです。

 この世の全てを知っている人はいません。ですからわたしたちの理解を超える現象や能力の発露もあるでしょう。それを否定はしませんし、そのような能力を獲得したいという気持ちもわかります。でも、どこにもそれに辿り着くメソッドは示されていません。それは合気道の守備範囲外なのです。

 初めに言ったことを繰り返します。尋常な理解の範囲内で合気道を楽しみましょう。それが健全な取り組み方です。