合気道ひとりごと

合気道に関するあれこれを勝手に書き連ねています。
ご覧になってのご意見をお待ちしています。

167≫ 憤怒の顔

2011-11-29 15:10:32 | インポート

 仏像鑑賞が流行っているのでしょうか、教育テレビで拝観のためのノウハウ番組のようなものをやっていますね。また先ごろ岩手県平泉の寺院や庭園等が歴史遺産に登録され、中尊寺安置の仏像群が紹介されたり、このたびはブータンの国王陛下ご夫妻が来日され、京都で寺をお訪ねになった際も仏像に合掌されたり鑿(のみ)を入れたりされる様子が放送され、なにかと仏像が映像に現れることが多かったように思います。

 仏像には、究極的な悟りの境地を示す如来像、修行途中ではあるけれどいずれ如来となることを約束されている菩薩像、ありきたりの方法では救いがたい 衆生を力によってでも導こうとする明王、仏法を守護する天などがあります。

 仏像にあまり興味のない方でも、それらの中には憤怒の表情をしていたり武器を持つものがあることはご存知でしょう。一番目に触れるのは寺の山門にひかえる仁王像でしょうか。そのほか明王や天と呼ばれるものの多くに武神といっていいような仏像があります。仏の教えを誹謗するものや仏法を信ずる者たちに危害を加えようとするものに敢然と立ち向かう強い意志を表したものです。穏やかな表情の如来像からはずいぶんかけ離れていますが、それらは、釈迦の教えが拡大変遷するなかで、インド在来の神が仏教に取り込まれ、それぞれの役割を担うようになったものといわれています。

 ところで、どんな仏像が好きかで、その人の志向がわかるような気がします。わたしの場合は、歳のわりに血の気が多いのか、一触即発というか鎧袖一触というか、いまにも戦端が開かれるかのような明王や天の力感あふれる像に惹かれます。それらは、煩悩を離れてとり澄ましたように見える如来や、将来を約束されて希望に満ちた菩薩とは違い、わたしたちと同じ地平に立つ人間臭さが感じらます。

 そして、これはまたわたしの思い込みなのかもしれませんが、その厳しい眼差しは実は外に向かっているのではなく、自分の内側に向けられたものなのではないかと感じたりします。そのように感じてしまうと、その吊り上った目はなんと悲しげに見えることか。重く大切な役目を負いながら、いまだに達しえていない己のふがいなさを嘆いているようにも思えてしまいます。そして、それはそのまま見る人自身に向けられた眼差しでもあるのです。おそらく仏師はそこまで読んで造像したのでしょう。

 わたしは、仏像のありがたさはそれを作った人、あるいは作らせた人の思いを感じ取ることから生まれると思っています。さらに言えば、そのような感受性は、とりわけ武道に関わる人にとって重要なことではないでしょうか。別に、みんながみんな仏像鑑賞者になる必要はないのですが、あるひとつの物がそこにあるためには何らかの人の意思が働いているということに思い及ぶくらいの感性はなければいけません。そうような心の働きがないと武道はただの身体運動で終わります。

 さて、暴力や争いからもっとも遠くに位置する仏教でも弘法(ぐほう)と救済のためには力の存在は肯定せざるを得ないのです。ただし、その力は救うべきものに対し便法として行使されるもので、そこは間違ってはいけませんが。その点、現代における武道も同じではないでしょうか。武の力というものは元々自分を守るためのものですが、それで終われば単なる武器や防具に過ぎません。自分も生き、相手も生かす心構え、これこそが合気道の愛でしょう。そのとき、わたしたちの目は明王、天の目になっているのかもしれません。

 前回項において、本ブログを通じての道友 寿陵余子様がコメントをお寄せ下さり、その文末に『それにしても合気道は楽しいですね』との一行を添えてくださいました。わたしはこの短い文章に大きく心を揺さぶられました。なんと肩の力が抜けた、それでいて何ものをも障碍としない力強い言葉かと。これまで頂いているコメントから、氏はしっかりした稽古と思索を重ねられていることは承知しています。それはいつも楽しいばかりではない、むしろ相当厳しいものであろうと拝察しています。にもかかわらず、『楽しい』と言い切る強さに感銘をおぼえました。

 今回、仏像しかも明王や天の憤怒相を話の材料にしたのも、寿陵余子様の示された強さに触発されたからです。本当に強いものは本当に優しいということを、わたしも広めたいと思いました。

 本当は昔流行った歌謡曲『柔道一代』の歌詞≪いかに正義の道とはいえど 身に降る火の粉は払わにゃならぬ≫と同レベルの精神を語ろうと思ったのです。でも、それでは足りない、と感じたのでした。


166≫ 道を継ぐ者

2011-11-15 14:51:43 | インポート

 合気道は未完の武道である、ということはわたしはこれまでも何度か述べています。ここで未完というのは、半出来だとか未熟だとかいうことではなく、さらなる発展の可能性を秘めているという意味です。それは開祖や二代道主の残されたお言葉からも明白です。

 話は大きくとびますが、キリスト教といわれているものはパレスチナ北部ガリラヤ地方のナザレに育った青年イエスの言葉と行為を信ずる宗教です。しかしイエス自身が自分の教えをキリスト教と呼んだわけではありません。生前彼はあくまでもユダヤ教徒であり、彼の教団はユダヤ教の一派あるいは異端でしかありません。そこから今日につながる教団の基礎を築いたのは、生前のイエスとは出会うことのなかった、というよりもイエスを慕う人たちに対する迫害者であったパウロです。そのパウロがいなければおそらく今日のような世界宗教にはなっていなかったでしょう。ですからキリスト教はある意味でパウロ教といっても間違いではないといえます。

 パウロは生前のイエスには会ったことがなかったので、当然直接教えを受けたことはありません。彼は魂のレベルでイエスと出会い言葉を交わしたのです。そして、そこで感得した思念が他のどの弟子の考えよりもイエスの思いに合致し、世界に広がる力となったのです。いわゆる直弟子ではないパウロが結果としてキリスト教を深化発展させたのです。このことはわたしたちに格別の思いを抱かせます。

 なぜこんな、関係なさそうな話から始まったかといいますと(わたしはクリスチャンではありませんが)、人間のあらゆる営みは後継者たる者の才能により、その意義が高まりも薄れもするということを例示したかったためです。

 合気道界では戦前から戦後にわたり多くの優れた指導者を輩出しました。そしてそのうちの幾人かは新たに一派を建て独自の道を切り開きましたが、その方々の評価をわたしのような部外者がここで云々するのは適切ではありません。やはり合気会内部の流れに限るのがよいでしょう。

 さてそれでは、わが合気道界にパウロはいるのか、ということです。と課題を設定すると、だれか個人を取り上げて批評するのかと思われるかもしれませんが、合気会においては組織化が進み、いまや一人の人間が新たな潮流を作れる環境ではなくなっています。そのような方がもしいるとすれば彼は合気会の中にとどまることは様々な理由から不可能でしょう(それはここでは論じません)。ですから個々の合気道家の評価ではなく、現世代の者が全体としてどうするか、何ができるかということを考える必要があると思います。

 要するに、合気道の存在意義を深化させるベクトルが現在の合気道界で働いているかどうかということです。開祖の直弟子世代の方々は、偉大な開祖の謦咳に接しながらもそれぞれ独自の合気道を開発されました。10人いれば10通り、100人いれば100通りの合気道が展開されたのです。しかし、そこからさらに世代が下った現在のわたしたちは、むしろ無批判に師の教えを受け入れることをもって満足しているように見えるのです。問題意識のないところには進化も深化もありません。

 師の教えを守るのはもちろん大切なことです。しかし、それでとどまってはいけない。形式を大事にする古流武術でさえそんなことを勧めてはいません。武道は人に宿るものだからです。人の数だけの武道が、合気道があるのが当たりまえなのです。正しい師はいつか弟子が自分を乗り越えていくことをこそ喜びとするのではないでしょうか。もちろん、そのためには弟子には師の心を読み取るだけの能力が必要です。

 さてそれでは具体的にどうすれば深化発展につながるのかということを提案しなければいけません。合気道の行事というと演武会がまっ先にあげられます。それはそれで大事なことです。ただそれは修行の過程ないしは結果の表れです。その大前提に修行の手がかり足がかりがなければなりません。日々の師の教えがそうですが、行事としては講習会がそれにあたります。

 しかし現今の講習会の多くは万人向きの基礎的技法の確認にとどまっています。修行の段階によってはそれももちろん大切なことですが、それだけでは深化、進化につながりません。こんなことを言ったらお目玉をくらうのは必定ですが、しかるべき立場の方がわざわざ遠路お運びいただいてまで教授する意味があるのか疑問に思うような場面もあるのです。ですからそれはそれとして、さらに基本の上に成り立つ個性の色濃い技法とその意味を教えていただくことが結果として自分の技量と思想を顧みるのに役立つと思うのです。そのような機会を通じて識見を広めることは合気道が武道であるためには絶対に必要です。

 ただ、今の合気会では、これはなかなか難しいことであろうと思われます。組織論としては中央集権を進め、技法を統一しようとする大きな流れがある一方、そこで薄れる武術性や思想性を個別に補完しようとする動きが、それぞれ没交渉のまま並存しているのが現状です。それを打開するのは結局ざっくばらんな事理の交流と意思疎通しかないのです。自分の合気道を確立した、あるいは確立しつつある指導的立場にある方々は、自信をもってそれを披歴し紹介し批判を仰ぐという行動に打って出てほしいものです。そして、そのような合気道の更なる発展を企図した意欲ある試みには権威の筋も是非寛容であってほしいと願うものです。

 合気道界にパウロはいるのか。います。それは特定の誰かではありません。開祖の思いを深く理解し、違いは違いとして認め、正しいと思うことは勇気をもって伝え、しっかりした修練を積んで合気道の未来を信ずる人すべてです。あなたもです。

 


165≫ 修行論 その2 

2011-11-01 14:20:41 | インポート

 前回その1では、困難な道でも覚悟を持って進み、まずはしっかりした技法を体現すべく努力しようということを述べました。中途半端な技術のまま精神論をぶちあげても説得力がないと考えるからです。

 もちろん技法の完成は容易なことではなく、ほとんどの場合そこまではたどり着かないでしょう。ですからそれを実現してからということでは、いつまでたっても何も言えないということになります。ここのところは何らかのレベルで妥協することも必要でしょう。

 ではその妥協のレベルとはどの程度のものでしょうか。わたしはそれを、技法の虚実を理解できる段階だと思っています。以前に述べたように、通常稽古されている合気道の技法は≪虚≫の技法です。その陰には≪実≫の技法が隠されていて、そこでは武術としての合理性が遺憾なく発揮されます。=参考 15≫ 《ウソ》http://agasan.no-blog.jp/hitorigoto/2007/04/19/index.html=

 そのことに自ら気づく人というのは尋常の才能ではないことは明らかです。みんながみんなそのような才能を持ち合わせているわけではないので、わたしたち一般人はそれに気づいた人に教えてもらえばよいのです。ただしそれを知っただけでは単なる知識に過ぎず、上で記したように『理解』するためには、その仕組みを知った上で技法を表現できるだけの修練を積む必要があります。そこまで行けば技法上の多少の巧拙はあったとしても、術者としては一人前ではないでしょうか。そこではじめて武道に携わる者として、説得力のある武道哲学や道徳論を展開できるのだと思います。

 ということを前提として、さてそれではわたしたちが展開すべき哲学や道とはどのようなものでしょうか。思いついたものをなんでも勝手に言えば良いというわけにはいきません。わたしたちは合気道家ですから、やはり大先生が残された技法とたくさんのお言葉にもとづき、その理想の実現にかなう言動をすべきでしょう。

 道徳や倫理にかかわる言論は世の中にたくさんあります。仏教の経典にも、中国の経書にも、キリスト教の聖書にも、そのほか世界中に先人の哲学が残されていて、言っていることを全部守ったら身動きがとれないほどの教えがあります。そうであれば、あえて合気道の哲学などというものはいらないのではないかと思わないわけでもありません。

 それはそうです。生きていく上での哲学を求めるのなら、手近なところに宗教団体も道徳実践団体もあります。しかし、わたしたちはそのようなアプローチではなく合気道家という方法を選んだのです。そこで開祖(大先生)の教えに出会ったのです。

 大先生はとにかくいろいろな言行を残されました。数多くの道歌からも大先生のお姿をしのぶ事ができます。わたしはその道歌の一つに合気道の最高の思想を見るものです。それは『美しき此の天地の御姿は主のつくりし一家なりけり』というものです。結局、大先生はこれをおっしゃりたくて合気道を作り上げられたのではないかとさえ思うのです。これは、美しいこの世界、その森羅万象とそこに住むわたしたちはみんな家族である、ただそういうことを言っているに過ぎませんが、これほど開けっぴろげで気取りがなく、勇気の湧いてくる言葉は、そうはありません。そして、この世界はわたしたちを超える大きな存在によって造り与えられたものであるが、そこに存するすべてのものを慈しみ、守り育てるのはわたしたちの仕事だということをも諭しているように思われます。

 それでは、わたしたちは合気道の何によってそのような思想を体現すればよいのでしょう。結論を言います。普段の稽古を普段通りにやっていればそれでよいのです、ちょっとだけ心を広くして。そこで、目の前にいる人、つまり稽古相手を大切にするのです。

 わたしがまだ白帯を締めているころ、稽古で手首を傷めたことがあります。当然、しばらくのあいだ稽古ができませんし、それは稽古相手も同じことです。そのとき、合気道は二人でするものだと、しみじみ思いました。こんな当たり前のこと、ケガをしないとわからないというのは、いささか情けなくも思いましたが、とても大事なことに気づいたという喜びも感じました。

 自分と相手、これは人間関係の最小単位でしょう。これにもう一人加わって三人になると、これで社会と呼べる最小構成単位になります。そこから先は何人になろうとも社会であることに変わりありません。ですから、まずは目の前の人を大切に思う心を養うことで、最終的には大先生のおっしゃる『一家』に至るのです。これこそが、わたしたちが合気道を通じて世界中で愛と和合を実現しようという壮大な試みに関わっている証です。

 そして忘れてならないのは、その教えの実践を自らの責務として、合気道を積極的に広める努力を重ねられた二代道主吉祥丸先生であり、全国に散らばり、あるいは海外に雄飛された幾人もの先輩合気道家の方々です。前回項で『他人にわかってもらうことが修行の目的ではありません。しかし、開祖のお示しになった理想に一歩でも近づくためには多くの理解者を得ることも大事な条件です。』と述べたのも、それと軌を一にするものです。

 わたしたちは(少なくともわたしは)偉人でも巨星でもありませんが、身の丈分の働きはできます。そういう人が世界中に存在すれば想像以上に大きな力になるはずです。歴代道主と先人たちの努力は、そういうかたちで実現されていくことになります。

※本ブログで告知しておりました10月30日の特別講習会は、遠方からのご参加もいただき、無事終了いたしました。参加者の皆様はもちろんのこと、ご興味を向けていただいたすべての方々に厚く御礼申し上げます。