合気道ひとりごと

合気道に関するあれこれを勝手に書き連ねています。
ご覧になってのご意見をお待ちしています。

152≫ 導く

2011-04-26 19:25:36 | インポート

 前回、合気道の技法の多くが机上の空論的動きで成り立っていると述べましたが、そこでひとつ舌足らずなところがあったかもしれません。それは、机上の空論だから意味がないと言っているわけではないということです。そこからたどって本質を理解できれば、外見上同じ動きでもそれは大いに意味のある動きに生まれ変わるということです。

 合気道の技法は、大先生の絶えざる試行錯誤により生み出されたものです。普段わたしたちは稽古と称して、そのうちの最後にできあがった上澄みの部分だけを汲み取っているわけです。しかし、上澄みの下にはその何倍もの前過程が層をなして沈んでいるはずです。動きの本当の意味は、この層を一つひとつ丹念に検証することでわかってくる、いや、そうでなければわからないものだと思うのです。

 いつも本ブログをご覧頂いている寿陵余子様が前回コメントをお寄せくださり、その中で≪導く≫ということについて大先生のお言葉を手がかりにご意見を開陳され、わたしも参考にさせていただきました。そこで今回は、≪導く≫に導かれる技法を検証しようと思います。

 ≪導く≫という表現は合気道ではよく使われますので、これが原典だと自信をもって言えるほどの知識は持ち合わせておりませんが、一応文章化されたものとしては、合気道新聞第54号に掲載された『手と足と腰、心よりの一致は、心身を守るには最も必要なことで、殊に人を導くにも、また導かれるにも皆手によってなされる。一方で導いておいて一方で制す。これをよく理解しなければならぬ。』という記事が挙げられるかもしれません。なにしろ開祖(当時は道主)以外の人が技法について云々するのは畏れ多い時代のことですから、昭和30年代末のこの文章はバイブルの役割を果たしているといっても良いかもしれません。(合気道新聞は昭和34年4月10日創刊。最新号は本年4月10日付けの第603号)

 さてそれでは、≪導く≫技法とは何か。これは一般的には転換や入身等によって取りが受けを自由に誘導する動作というふうに受け止められています。そうすると大先生のお言葉は、心身の一致によって生み出される力(位置エネルギーと運動エネルギー、それと、もしかしたら精神的エネルギーも)を手を通じて相手にしっかりと伝えるということの重要性を述べておられるわけです。したがってここで言われていることは科学的合理性にいささかも反していません。

 ところが、わたしが知る範囲において≪導く≫ことを強調する方は、ほとんどの場合≪気≫とからめて、『気が出ていれば受けの手が離れることなく自在に導くことができる』といった文脈で理解し理解させようとしているように見受けられます。大先生はすぐれて宗教的思索を大切にされた方であり、あるいはそのようなことを大先生ご自身がおっしゃったことがあるかもしれませんが、それと同時に、先の引用文に『~心身を守るには最も必要~』『一方で導いておいて一方で制す』とある通りまぎれもない武道家でいらっしゃいます。つまりここで導くのは制するためであって、定義のはっきりしない気という言葉を使って実効性のあいまいな技法を勧めておられるわけではなく、まして単なる道徳的な意味での導きではもうとうないのです。それらは技法の上澄みだけを見てその下の層を見ていないと言わざるを得ません。(もちろん、合気道の理想として、争いを未然に制し和の道に導くという働きを否定するものではありません)

 そこで、考えるに足る≪導き≫の例として、ここでは転換とそれに受けがついていく動作を採りあげます。

 だいぶ以前にも触れましたが、これについて、わたしは武術的には次の二つの意味があると思っています。ひとつには、抜刀を抑えようと右手首を押さえ込んできた相手に対し転換しつつ抜きつける動作で、受けは抜刀させないために更についていかざるを得ません。もうひとつが、実際は取りが受けの手首をつかんで転換しつつ痛点(陽谷のツボ付近)を攻める動作です。受けは痛いのと重心を浮かされたのとで結果としてついていきます。

 というものですが、これは主に取りの側からみた技法上の導きの意味です。一方、受けの側にも導かれる意義がないといけません。なにしろ、合気道の稽古は見方によっては受けこそが主人公であると言えなくもないからです。そこで≪導き≫によって受けは何を得るか、それはやはり中国武術でいうところの聴勁でしょう。手と手の接点から得られる情報によって相手(この場合は取り)の動きや思惑を瞬時に把握することの鍛錬です。これは言うほど簡単なものではありませんが、修練によって誰でも必ずできるようになります。その点も、わかったのかわからないのかわからない≪気≫とは異なります。

 そして日常の稽古において導くことのもっとも大切な意義は、相手の稽古を支えるという意識の芽生えではないでしょうか。ホ、ホ、ホータル来い、こっちの水は甘いぞではありませんが、稽古相手に、ここでこう動いてこちらに来ると良いですよ、と進む道を作ってあげる、これが導くということだと思うのです。ここにおいて、同じ動作でもそれが持つ意味合いが俄然違ってきます。

 以上の説明をもってしても、大先生が≪導く≫ことに行き着くまでの過程の万分の一にもならないでしょう。ですが、無自覚に相手を振り回し、振り回されていることに較べれば五十歩百歩の先の百一歩くらいにはなるはずです。そのようなことを理解した上に、宗教的あるいは形而上学的な意味での≪導き≫があるのだと思います。もっとも、そこまでいくと既にわたしの守備範囲ではなくなります。 


151≫ 机上の空論

2011-04-11 17:22:12 | インポート

 震災から一ヶ月たちました。直後にこのブログにいただいた皆様からのお心遣いはわたしのみならず被災者全員に向けられたものと感謝申し上げます。本当にありがとうございました。

 被害の全貌はまだつかめていませんが、わたしのまわりは少しでも以前の生活を取り戻そうとの懸命な努力の真っ只中です。しかし、いまだ避難所でご苦労されている方々がたくさんおり、また倒壊家屋や道路の損壊がそのまま放置され復旧の目処がたっていないところも数多くあります。

 さらに、沿岸部での津波被害や収束の見通しが立っていない原発災害など、今後の立て直しに要する人、物、金は莫大なものになります。これによって直接の被害にあわなかった地域の方々にも多大なご負担を強いることになるでしょう。被災地の人間が言うのもおこがましいのですが、国難と思ってどうかご協力ください。

 この際、為政者に向けて言いたいことはいっぱいあるのですが、それは本ブログの趣旨と異なりますので申し上げません。ひとつだけ皆様にお願いしたいことは、被災者と被災地に関心を持ち続けていただき、どうか長く長く寄り添っていただきたいということです。

 そういうわけで、わたしの主宰する会も現在活動休止中です。そんな中で、せめてブログでは、先にお伝えしていましたように、合気道の動きに内在する当身技法について、映像を用いてその証明をしようと考えていました。震災前にそのための撮影も済ませていたのです。が、慣れない編集ソフトを使って余計な作業をしたあげく、誤って途中でそのすべてを消去してしまいました。まったく情けない話ですが、いずれまた撮りなおしてご批判を仰ぐ機会を持ちたいと思います。

 このように不器用な上、修行(稽古)をしない武道家はほとんど存在意義がありません。ただ、稽古の時間が空いた分、考える時間はたっぷりあります。したがって、これから述べようとすることは本来の意味での机上の空論です。それでもよろしければお付き合いください。

 さて、机上の空論といえば、合気道の技法はその多くが机上の空論的な動き、用法であることは、真摯に、あるいは懐疑的に稽古に取り組んでいる方には自明のことかもしれません。それを、本ブログと相互リンクをしていただいている≪本日稽古日和≫の管理人《日々日和》氏は次のように述べておられます。

 『(黒岩洋志雄先生は)相手の反射傾向を期待したコンビネーションは、3手順以上ともなると「物語性が高くなる」と評し、絵空事であると断じていらっしゃいました』と。その上で氏は、『「あっちを受けてこっちを払ってそこに返して」といった、相手の攻撃が想定どおりでないと成立しないような解釈は、重ねて言うまでもなくナンセンスなものです。』と結論づけておられます。(参照 http://shintaido-karate.seesaa.net/index-2.html)。

 実の稽古というものがあることをわたしたちに示し、遣える合気道を実践された黒岩先生ならではのお言葉であり、それを大切にしておられる氏の論理の明晰さが文中から汲みとれます。

 合気道の動きは、受けによる攻め掛かり、取りの体移動と体捌き、個々の制圧技法の施し、受けによる受け身、その後場合によっては取りによる押さえ、に分解することができます。机上の空論的動きはそのすべての段階に存在します。その代表的なものを各段階で例示してみます。

【受けによる攻め掛かり】における空論的動き

 正面打ち(いまどき、そのような攻撃を仕掛けてくる者は稀有)。片手取り(残った手を遊ばせておくはずがない)。後ろ取り(取られた時点で負け)。など

【取りの体移動と体捌き】

 不適切な間合い。受けの協力を前提にした動き。など

【個々の制圧技法の施し】

 相手からの反撃(第2撃)を想定しない位置取り。技をかける意味がわかっていない(関節を痛めつけたりすることが最終目的ではない)。など

【受けによる受け身】

 回転受け身や飛び受け身ができるから成り立っているが、そうでなければ目も当てられない終末動作。など

【取りによる押さえ】

 抵抗されたら押さえきれない半端な押さえ。など

 要するに、見た目だけきれいに整えるのならば、多少センスの良い人なら稽古を積まなくてもできます。でもそれは合気道とは似て非なるものです。

 そしてもうひとつ、合気道の技の多くに返し技がある事実をどう考えるかです。合気道は完璧だなどと思い込んでいるよりはまだ健全なのですが、どうせ返されてしまうような技にはたして価値があるのか、と誰も考えないのでしょうか。

 それらの中でここでは【受けによる受け身】のファンタジー性についてのみ論じます。端的に言えば、受けがうまいから技が成り立っていることへの自覚が足りないということです。

 たとえば、小手返しでは飛び受け身のかわりに後ろ受け身でも前回り受け身でも対応可能です。実戦においては最悪、片手首を壊すことを覚悟すれば受け身をとらずに反撃することも可能です。また、腰投げなどでは受けが投げられる前に取りに抱きついてしまえば、受け身をとるどころかハナから技になりません。ですが稽古や演武においては飛び受け身をとり、プロレスが相手の技を真っ向から受け止めることで興行が成り立つのと同様に見た目の満足感が生まれているのです。

 そのようなことを一つひとつの技において検証することなく、合気道界の常識に基づき、こうであらねばならないとの気持ちだけで合気道を持ち上げても、それは合気道の進化あるいは深化につながりません。

 わたしは合気道の潜在能力の大きさを信じています。だからこそ、真の価値を見出すべく、空論的動きの再検証が是非とも必要であると考えています。

(これを書いている間にも大きな余震がありました。皆様、今後ともどうぞお気をつけください。)