前回、合気道の技法の多くが机上の空論的動きで成り立っていると述べましたが、そこでひとつ舌足らずなところがあったかもしれません。それは、机上の空論だから意味がないと言っているわけではないということです。そこからたどって本質を理解できれば、外見上同じ動きでもそれは大いに意味のある動きに生まれ変わるということです。
合気道の技法は、大先生の絶えざる試行錯誤により生み出されたものです。普段わたしたちは稽古と称して、そのうちの最後にできあがった上澄みの部分だけを汲み取っているわけです。しかし、上澄みの下にはその何倍もの前過程が層をなして沈んでいるはずです。動きの本当の意味は、この層を一つひとつ丹念に検証することでわかってくる、いや、そうでなければわからないものだと思うのです。
いつも本ブログをご覧頂いている寿陵余子様が前回コメントをお寄せくださり、その中で≪導く≫ということについて大先生のお言葉を手がかりにご意見を開陳され、わたしも参考にさせていただきました。そこで今回は、≪導く≫に導かれる技法を検証しようと思います。
≪導く≫という表現は合気道ではよく使われますので、これが原典だと自信をもって言えるほどの知識は持ち合わせておりませんが、一応文章化されたものとしては、合気道新聞第54号に掲載された『手と足と腰、心よりの一致は、心身を守るには最も必要なことで、殊に人を導くにも、また導かれるにも皆手によってなされる。一方で導いておいて一方で制す。これをよく理解しなければならぬ。』という記事が挙げられるかもしれません。なにしろ開祖(当時は道主)以外の人が技法について云々するのは畏れ多い時代のことですから、昭和30年代末のこの文章はバイブルの役割を果たしているといっても良いかもしれません。(合気道新聞は昭和34年4月10日創刊。最新号は本年4月10日付けの第603号)
さてそれでは、≪導く≫技法とは何か。これは一般的には転換や入身等によって取りが受けを自由に誘導する動作というふうに受け止められています。そうすると大先生のお言葉は、心身の一致によって生み出される力(位置エネルギーと運動エネルギー、それと、もしかしたら精神的エネルギーも)を手を通じて相手にしっかりと伝えるということの重要性を述べておられるわけです。したがってここで言われていることは科学的合理性にいささかも反していません。
ところが、わたしが知る範囲において≪導く≫ことを強調する方は、ほとんどの場合≪気≫とからめて、『気が出ていれば受けの手が離れることなく自在に導くことができる』といった文脈で理解し理解させようとしているように見受けられます。大先生はすぐれて宗教的思索を大切にされた方であり、あるいはそのようなことを大先生ご自身がおっしゃったことがあるかもしれませんが、それと同時に、先の引用文に『~心身を守るには最も必要~』『一方で導いておいて一方で制す』とある通りまぎれもない武道家でいらっしゃいます。つまりここで導くのは制するためであって、定義のはっきりしない気という言葉を使って実効性のあいまいな技法を勧めておられるわけではなく、まして単なる道徳的な意味での導きではもうとうないのです。それらは技法の上澄みだけを見てその下の層を見ていないと言わざるを得ません。(もちろん、合気道の理想として、争いを未然に制し和の道に導くという働きを否定するものではありません)
そこで、考えるに足る≪導き≫の例として、ここでは転換とそれに受けがついていく動作を採りあげます。
だいぶ以前にも触れましたが、これについて、わたしは武術的には次の二つの意味があると思っています。ひとつには、抜刀を抑えようと右手首を押さえ込んできた相手に対し転換しつつ抜きつける動作で、受けは抜刀させないために更についていかざるを得ません。もうひとつが、実際は取りが受けの手首をつかんで転換しつつ痛点(陽谷のツボ付近)を攻める動作です。受けは痛いのと重心を浮かされたのとで結果としてついていきます。
というものですが、これは主に取りの側からみた技法上の導きの意味です。一方、受けの側にも導かれる意義がないといけません。なにしろ、合気道の稽古は見方によっては受けこそが主人公であると言えなくもないからです。そこで≪導き≫によって受けは何を得るか、それはやはり中国武術でいうところの聴勁でしょう。手と手の接点から得られる情報によって相手(この場合は取り)の動きや思惑を瞬時に把握することの鍛錬です。これは言うほど簡単なものではありませんが、修練によって誰でも必ずできるようになります。その点も、わかったのかわからないのかわからない≪気≫とは異なります。
そして日常の稽古において導くことのもっとも大切な意義は、相手の稽古を支えるという意識の芽生えではないでしょうか。ホ、ホ、ホータル来い、こっちの水は甘いぞではありませんが、稽古相手に、ここでこう動いてこちらに来ると良いですよ、と進む道を作ってあげる、これが導くということだと思うのです。ここにおいて、同じ動作でもそれが持つ意味合いが俄然違ってきます。
以上の説明をもってしても、大先生が≪導く≫ことに行き着くまでの過程の万分の一にもならないでしょう。ですが、無自覚に相手を振り回し、振り回されていることに較べれば五十歩百歩の先の百一歩くらいにはなるはずです。そのようなことを理解した上に、宗教的あるいは形而上学的な意味での≪導き≫があるのだと思います。もっとも、そこまでいくと既にわたしの守備範囲ではなくなります。