合気道ひとりごと

合気道に関するあれこれを勝手に書き連ねています。
ご覧になってのご意見をお待ちしています。

235≫ 変化は避け得ない

2014-04-23 16:47:20 | インポート

 例のXPのサポート終了で、わたしもご多聞にもれず右往左往しました。以前に買っておいてそのままにしていたウィンドーズ7搭載機に替えたのですが、この乗り換えがわたしのようなごく普通のPC利用者にはなかなか難しいことでした。

 新しいPC(7が新しいかどうかはさておき)にはメールやワープロ、表計算などのソフトが付いてないので無料ソフトを取り込むことにしたのですが、きとんと使えるようになるまでなんだかんだで10日ほどかかりました。でも、買えば何万円かするソフトとほぼ同等に使えるものが、ネットで探せば無料で手に入るというのも、考えてみればすごいことではあります。ソフトそのものを売るという考え方ではなく、それを提供することによって別のメリットが生まれるということなのでしょう。物の価値ということを考え直す必要があるのかもしれません。

 それにしても、いろいろ問題はありながら社会が全体としては今回の事態(サポート終了)を容認しているように見えるのは、コンピュータというものは日々改新されるべきものという認識が行き渡っているからでしょう。そして、対症療法的な改変がたくさん重なった結果、合理性や機能性に障害が出てきたところで今回のようなフルモデルチェンジで一気に問題の解決を図ろうという、版元の経営判断なのだろうと思います。

 わたしもそのような流れに身を浸しながら、これは現代武道たる合気道のあり方にも似ていると思いました。いろいろなものが日々更新されていく現代にあって、それとあまり関係のなさそうに見える武道でも、人間の営みである以上、時代の流れと無関係ではいられません。それは合気道創始から戦前、戦後にいたるまでの折々に見せた大先生の心境と技法の変化を訪ねればわかります。

 合気道以外でも、例をあげるまでもなく、試合のある武道の技法は日進月歩で向上(かどうかはわかりませんが)しています。ちなみに、40年以上も前の大学生時分のことですが、わたしは体育の授業は柔道を選択しましたので、それなりに柔道技法に関心を持っていました。そのうち今でも覚えていることに背負い投げの打ち方の変化があります。背負い投げは基本的には立ったまま技を施すのですが、そのころ、全日本選手権などで、畳に膝をついて投げる人がぼちぼち出てきました。背負いの動作に入りつつ頭を低く下げて膝をつき、そこから今度は尻を高く持ち上げて投げる方法です。

 これはそれなりに有効なやり方で、今も目にしますが、大学の授業でご指導くださった先生も、またわたしが所属していた合気道場の道場長(柔道経験者)も期せずして『あれは危険だ』とおっしゃっていました。投げられる側としては受身をとる体勢を十分に作れないまま頭から畳に突っ込むような形になり、首を折る恐れがあるからという理由でした。先生方の言は教育者としての当然の配慮であったと思います。柔道創始者の嘉納治五郎師が教育者であったことを考えれば、彼も同様のことを言われたのではないかとも思います。

 もっとも、投げられるほうもそれへの対処法を研究しますから、後には膝つき法の出初めのころのように見事に決まるということも少なくなり、逆に今ではなんかもっさりした技法に見えてしまいます。

 ひるがえって、合気道はどうでしょうか。わたしは合気道は達人養成システム内蔵型の武道だと思っています。ですから、理念はもちろん技法においても近視眼的な捉え方にはなじまないもので、安易な変化は望ましくないと考えています。ただしそのことは全ての変化を嫌うということを意味するわけではありません。物事の変化というものは、その変化の時点では玉石混交であり、よくよく吟味されるべきものであると考えますが、変化そのものを厭うべきではないということは言えると思います。

 では、何をもって好ましい変化というのでしょうか。そのことは次回に言及しようと思いますが、要は、合気道の理念を強化する方向に働く変化のことだとだけ申し上げておきます。

 PC更新の話からやや強引に合気道のあり方につなげた感が免れませんが、つまりは現代という時間帯において、合気道といえども時代の変化の波と無縁ではありえないということを言いたいわけです。そしてその時代の波に一番翻弄されたのは他でもない先駆者としての大先生であったに違いないということです。

※またまた【お知らせ】です

これまでもお伝えしておりますように、黒岩洋志雄先生の合気道理論と技法を軸に、≪遣える合気道≫とはどのようなものかを共に考究する=第8回特別講習会=を平成26年5月18日(日)に開催します。

今回のテーマは『間合い』です。

東北の片田舎までおいでいただける方はどうぞお気軽にご参加ください。

詳細は本ページ左のリンク欄から≪大崎合気会≫ホームページをご覧ください。


234≫ 渇いた馬  

2014-04-14 14:53:16 | インポート

 普段の稽古でのわたしの指導は、技法については結構説明が多く、自分で言うのもナンですが、なかなか親切ではないかと思います。いろいろ悩んで技を見につけてきた者としては、知っていることはできるだけ教えてあげたい、そうすればその人はその次の段階からスタートできると思うからです。

 でも、このごろ、それは必ずしも最良の方法ではないのではないかと考えるようになってきているのも事実です。どんな道であれ、自らの足で歩むとき悩みは付き物で、それを一つひとつ乗り越えることこそが修行というものであり、悩んで考えて答えを見つけることなくして目標に達することは難しいのではないか、という思いも片方にはあるのです。なにしろそれはわたし自身が歩んできたあり方そのものでもあるわけですから。

 これまでも述べていますように、わたしが今日まがりなりにも合気道家のはしくれとして斯界の末席に連なっていられる最大の理由は、入門から2年ほどたったころに黒岩洋志雄先生と出会ったことにあります。それまでのわたしは、合気道愛好者としては可もなく不可もなくといった程度のごく普通の稽古者でありました(今でも普通の合気道愛好者ですが)。ただ、生まれつき、完全なもの完璧なものを好む性癖があって、物事の根本がわからないと満足できないという面を持っていました。合気道においても、たとえば今やっていることが本当に武術的な意味で役に立つのかという疑問を持っているような、あまり素直とはいえない稽古者ではありました。

 そのような疑問に正面から答えてくださったのが黒岩先生でした。それはこれまで何度も言ってまいりましたのでここで繰り返す必要はないでしょう。そのことよりも、ここで屁理屈をこねるならば、答えをいただけるということは、こちらが、何が問題なのかということを明確に把握していて、その答えを欲しているということをきちんと伝えることができるということです。わたしはそのことによって合気道の素晴らしさを知ることができました。

 もしわたしが、最初から何の疑問も持つ必要がないような優れた指導者のもとに入門していたとして、それでも今より合気道家としての満足感や幸福感を得られていたかどうか、ここはちょっと考えるところです。疑問のないところに答えはない、とはいえないでしょうか。いつも水に恵まれてのどが渇くことのない人と、渇いたのどに水を得られた人とどちらが幸せか、これはまあ難しい比較ではあります。

 それが自分自身のことであれば、どう転がっても自分の責任ですから心の決着はつけることができますが、ひとに指導するということになると、そのあたりの按配がなかなか難しいと思うのです。

 そうしてみると、わたしはどうも教えすぎる傾向があるようです。完璧を求める性質が指導するときにも表れるからだと思いますが、こちらの間合いを相手に押し付けるのはよろしくないのかもしれません。

 馬を水場まで連れていくのは馬子の仕事だが、水を飲むか飲まないかは馬の勝手だといいます。とはいえ、その場合でも渇いた馬であってほしいとは思うのです、自分がそうであったように。

 わたしの指導を受ける方を含めて馬呼ばわりしているようで申し訳ないのですが、あくまでも物の喩えですので誤解なきよう。そんなところで間が悪いのですが、下に講習会のご案内を載せております。だからというわけではありませんが、今回は『間合い』ということを軸に内容を組み立ててまいります。ご興味がありましたら、お気軽に遊びにおいでください。

 やっぱり教えすぎちゃうかもしれませんけどね。

【お知らせ】

これまでもお伝えしておりますように、黒岩洋志雄先生の合気道理論と技法を軸に、≪遣える合気道≫とはどのようなものかを共に考究する=第8回特別講習会=を平成26年5月18日(日)に開催します。東北の片田舎までおいでいただける方はどうぞご参加ください。

詳細は本ページ左のリンク欄から≪大崎合気会≫ホームページをご覧ください。


233≫ いましめる

2014-04-03 15:26:00 | インポート

 いましめる、漢字では、戒める/誡める/警める/縛める、などと書きます。注意したり禁じたり叱ったりという意味で使うことが多い言葉です。

 その中で今回取りあげるのは《縛める》です。辞書によればこれは《自由がきかないように縛る》という意味です。罪を犯したりした者を確保しておくために体に縄をかけることですが、わたしはこの言葉を合気道のような武道の身体操作を向上させるための方法として意識しています。

 もちろん本当に縄をかけるということではありません。これこれこの場合の体の動きはこうあるべきだ、こうしたほうが良い、というようなときに勝手な動きをしないように、意識の上で自分で自分の体を縛るのです。言ってみれば、コルセットのような矯正具を身につけた感覚で動作をするということです。慣れるまでは窮屈ですが、そのうちそれが当たりまえになってきて、知らず知らずのうちに適切な動作ができるようになります。

 では、体のどこにその矯正具を着けるか、実は全身です。わたしたちの日常動作の多くはかなりの部分で不合理です。体の一部や特定の筋肉だけを使い過ぎたり、逆に有効に使うべきところを遊ばせていたりしているのではないでしょうか。

 それと反対に、実に体と神経をうまく使っていると感じさせられるのは、たとえば主婦の方々の包丁遣いのように、ある意味、職人技というべき類の動作です。どのような職種であれ本物の職人さんの手わざをご覧になったことのある人はわかるでしょうが、彼らの体遣いはほとんど芸術品です。その、1mmの狂いもない動作を苦もなくやってのける能力には本当に感心させられます。あたかも目に見えないレールに沿って体の各部を動かしているかのようです(職人と対極にある、上手にプログラミングされたロボットのようでもあります)。わたしたち合気道家の動きはそれに比べ得るほどのものになっているでしょうか。武道的体遣いを身につけるとはそういうことなのです。

 さて、全身に矯正具を着けなければならないほど、わたしたちの動きはいい加減です。とてもmm単位で測れるほどの精度は持ち合わせていないように思えます。でも、一気にそのレベルを望むのは無理としても、まずは体の特定部位だけを使う方法を改めるだけでも格段に向上します。

 その際、気をつけることは、動かしやすいところは動かさず、あまり動かないところを動かすように工夫することです。具体的には、手、腕は器用に良く動くので、逆にあまり頼らない。あるいは腰は良く回るので、あまり回さない。そのかわり股関節を柔軟に動かす、というような具合です。

 これをたとえば片手取り四方投げにあてはめて考えると、受けの腕をくぐるとき、手を高く上げるかわりに腰を落す、あるいはまた、くぐりつつ受けの腕を横に引き出す(本当は押し出す)とき、腰をひねるかわりに股、膝、足首の各関節を連動させて回る、といったようなことです。これはわたし自身が特に気をつけていることで、ちょうど腰の背部に板を括りつけ、腰そのものが一枚板になった感じで動くようにしているのですが、ここから縛めというニュアンスをつかみました。 

 もうひとつ、正面打ち一教を例にとれば、手合わせから受けの腕を押し上げるとき、腕の力で上げるのではなく、腰を前身させることで腕は勝手に上がっていくことに気づけば技の質は間違いなく上がります。

 さらにまた、正面打ち、突きなどに対し、安易に手先で払うのではなく、体捌きをもって相手の攻撃線から外れることなども、部分よりも全体を意識した武道的動作に繋がると思います。

 普段何気なく動かしている自分の体ですが、本当にそれが理にかなっているか検討してみることも大事な稽古の一環ではないでしょうか。たしか四十肩だったか五十肩だったかのときも同じようなことを考えた記憶があります(笑)。

【お知らせ】

本ブログでよく取り上げております、黒岩洋志雄先生の合気道理論と技法を軸に、≪遣える合気道≫とはどのようなものかを共に考究する=第8回特別講習会=を平成26年5月18日(日)に開催します。東北の片田舎までおいでいただける方はどうぞご参加ください。

詳細は本ページ左のリンク欄から≪大崎合気会≫ホームページをご覧ください。

※ 道主のご母堂様ご逝去の報に接し謹んでお悔やみ申し上げます