合気道ひとりごと

合気道に関するあれこれを勝手に書き連ねています。
ご覧になってのご意見をお待ちしています。

294≫ 震災に思う 

2016-04-19 18:32:54 | 日記
 熊本地震は想像以上に大変なことになっているようです。このような事態にあって、皆さんが何を思い、どうなさりたいかはよくわかっておりますのでここで特段申し上げることはございません。とにかく一日も早く状況が安定するよう願うものです。

 さて、このブログは合気道に関するものですから、世情のいろいろな局面を通じて合気道に対する認識を深めることも大切だと考えています。そこで、なんでもかんでも合気道に関連付けるのは無節操な感もあり、いささか気がひけるのですが、お叱りを承知のうえでこのたびの震災から合気道を見直してみたいと思います。

 大地震をはじめ台風、津波、火山噴火、干害、雪害など、自然が猛威を振るうたびに、人間の日々の地道な営みなど簡単に吹き飛んでしまうことは、つらいけれども真実です。そのような現実を前に、それではわたしたちは日常の営みを無駄なこととして放棄してしまうでしょうか。いいえ、決してそうではありませんね。大自然の脅威と比べたら芥子粒のような人間の努力ではありますが、人類誕生以来のそのような努力の積み重ねが今を作っているわけです。これからもその努力をやめることはありません。

 そこで合気道です。わたしは合気道修練の方針として、科学的、合理的であることを大前提にしています。科学的、合理的というのは、ある一定の方法をとれば大概の技法は誰にでも再現可能であること意味します。それはつまり、合気道を特別な能力を持った一握りの人の専売特許にはしないという覚悟でもあります。

 そのための考え方や技法展開の方法は折に触れてここで述べてきていますが、あらためて科学的、合理的ということの意義を考えてみたいと思います。

 わたしは精密機械のような仕組みと精度こそが合気道技法のあるべき姿だと思っています。これは科学的、合理的な方法でないと手に入りません。しかし、そのようなあり方は、相手が圧倒的な体格、体力を駆使するような場合にはほぼ通用しないということを、残念ながら認めざるを得ません。スイス時計がブルドーザーに踏み潰される光景が目に浮かびます。

 それなら、合気道(広くは武道)の修練は無駄なことだから、それよりも体を大きくして力をつけることのほうが価値があるということになるのでしょうか。たぶんこのことは、人間の歴史は戦いの歴史であり、その中で常に戦う者の目の前にある課題であったでしょう。

 そして、名のある武術家はそういう絶望的な状況をなんとか克服しようと腕を磨いてきたのです。しかしながら、やはり圧倒的な存在の前には風前の灯であることに変わりありません。それでもその克服の努力をやめられないのですね、人間というものは。

 合気道が未完の武道であるということはいつも思っていることですが、未完だからこそ継続する意味があるといえます。要は、武術というものが世に現れて以来の状況が今も続いているということです。そういう意味でわたしたちは武道の歴史の渦中にあると言えます。

 さて、その場合、どのような努力が求められるか、もう一度原点に立ち返って考えてみます。自然界も武の世界も、圧倒的な存在の前では無力であるという点で共通しています。しかし、武道はなんとかそれを克服したいという熱情によって発展してきました。そしてこの熱情、努力が武道に限らずあらゆる局面において人間を人間たらしめていることを忘れてはならないでしょう。

 その努力の方法が科学的、合理的であるべきだとわたしは強調しておきたいと思います。なぜならば、その一定の方法のもとでは誰でも一定の果実を得られるからです。ただ、それはほんのわずかで、しかも一瞬にして消し去られるものかもしれません。しかしある意味、だからこそ人間の営みは貴重なのだといえるのではないでしょうか。いかに弱くて小さいものでも、だから大切なのだと。合気道はこのこと、人間の尊さを教えてくれる武道です。

 いま困難と向き合っている人たちに余計な働きかけをするような無情で無粋なことはしたくありません(それで批判されているマスメディアがありますね)。ただ、17世紀のフランスの哲学者パスカルの有名な言葉を記しておきます。
 
【人間はひとくきの葦にすぎない。自然のなかで最も弱いものである。だが、それは考える葦である。(中略)われわれの尊厳のすべては、考えることのなかにある。】 


 =お知らせ=
 第12回合気道特別講習会を開催いたします。
 このブログで述べている屁理屈を形にしてご紹介いたします。
 詳しくは≪大崎合気会≫ホームページをごらんください。

《震災見舞い》

2016-04-16 14:16:42 | 日記
熊本地震の被災者の皆様に心からお見舞い申し上げます。

東日本大震災を経験した者の一人として、現地の方々の置かれた環境の厳しさは骨身にしみてわかっております。
多くの善良な人々や関係機関の助けを得て、なんとかこの困難な状況を克服していただきたいと願っています。
まだまだ流動的状態が続くようですが最小限の被害で止まってほしいと念じるばかりです。

293≫ 師資相承 その2

2016-04-07 15:40:47 | 日記
 今回は、《黒岩合気道》の本質を探るきっかけとなり得る事柄を見てみようと思います。

 と、まぁ、本質に迫るなどと大上段に構えた物言いが似つかわしくないほど実際の黒岩合気道の外見はあっさりしたものです。ですが、長いことそれに触れてきて、その外見の陰に合気道の存在意義にかかわる重要な考え方が織り込まれていることがこのごろぼんやりとわかってきました。

 はなはだ口はばったいことを言いますが、斯界において、開祖直弟子師範以降、一流の先生から一流の弟子が育ったというのはあまり聞いた事がありません。そもそもいま一流の合気道家がいるのかどうかも定かではありませんが。
 
 それは、弟子が師匠の土俵で相撲を取るということがそもそも間違いだからです。そこはあくまでも師匠の生きる場であって、弟子はそこでじっくり力をつけたら、あとは自分の土俵を作り上げなければならないのが道理というものです。勝負は相手の土俵ではなく自分の土俵でするというのは兵学の基本でしょう。

 そうであれば弟子はいつの日か師のもとを去らねばならないのです。これは師弟の関係を絶つということではありません。弟子は師匠の土俵の上にさらに精緻な土俵を築く、それが弟子の義務というものです。そしてそれは弛まざる努力によってのみ作り上げられるものです。師の教えを墨守する、それは道を究めようとする者にはとても大切なことではありますが、それだけでは新しい地平線が見えてきません。

 このように言うと、師の教えを軽んずるかのようにも聞こえますが、それはまったく違います。師が生涯をかけて築いた財産を弟子は受け継ぐわけですから、軽んずるどころか感謝してもしきれない恩恵をこうむっているのです。

 合気道に限りませんが、技術はあくまで個人に付随するものです。弟子といえども師の技術をそのまま引き継ぐことは不可能です。師は師として弟子は弟子としてそれぞれの個人に独自の来歴があり、その中で培われた特別な技術こそがその人の勝負手というべきものです。

 こんなことを考えているわたしはやはり正真正銘不肖の弟子というべきでありましょう。そう思っておりましたところ、本ブログ左欄のブックマーク【本日稽古日和】の運営者でいらっしゃるA氏が【291≫先生の遺訓】の項にお寄せくださったコメントで、氏がやはり現状を再確認し新たな方向性を模索しておられるように感じられましたので、コメント欄にまで目を通しておられない方のためにあらためて以下にご紹介します。合わせて、わたしがこれまで述べていない先生の一面も窺えると思います。

〈本ブログより、以下B〉
(黒岩先生の)変化技も額面通りには受け止められません。それではそこで何をおっしゃりたかったのでしょうか。

〈A氏のコメント、以下A〉
これはつねづね疑問に思っていたところです。
「相手の反射傾向を期待したコンビネーションは、3手順以上ともなると『物語性が高くなる』と評し、絵空事であると断じ」ていらっしゃった黒岩先生は、しかし後ろ捕りなどに見られる非常に手順の多い技法群を切り捨てていません。
変化技しかり。また杖も、動作は合理的でも持ち替えが多くてそのまま使うのは難しいような技法が散見されます。
徹底したリアリストでいらした黒岩先生が創り上げたこれらの技法群をどう考えるべきか。

一、「(後ろ捕りを指して)こんなことは出来っこないんですよ。ですが稽古仲間ですから、練習としてこれを行うんです」とおっしゃっていたこと。

一、袖口の分厚い冬服など"実"の技法が施しにくい際にはどうしたらよいのか、という質問に「殴っちゃえばいいんですよ。手首に囚われる必要なんてないんですから」とおっしゃっていたこと。

一、黒岩先生の剣について先生ご自身が「防御がないので"剣術"とは呼べない」とおっしゃっていたこと。(=防御の否定または疑問視)

一、よく「当身七分」とされる開祖の言葉について黒岩先生は「開祖は"当身九分"と言っていました」とおっしゃっていたこと。そして先生の昔語りは当身で倒したケースが大多数で、投げや関節で誰かを制したお話を耳にした記憶がないこと。

 これらの材料から、手順の多い技も、流れを最初から最後まで通してそのまま再現されることはなくとも、瞬間々々を切り取ってみれば起こりうるものと考え、それらさまざまな状況に応じてわが身を当てはめてゆくことが第二の本能となるよう稽古を積むべきである。
 しかしそれ以前に、出来ればそもそも後手に回らず、先手の当身で制してしまう。
 ――といったものではないかと考えておりました。

 しかしながら一方で、

〈B〉(黒岩先生は)制敵技法としての有効性を信用しておられなかったように思います。

〈A〉身もフタもないこの価値観もまた先生のお言葉からひしひしと感じられるところで、私は「いざとなったら圧倒的な当身があるので合気道をアテにしていなかったのではないか」とさえ思っておりました。
にもかかわらず黒岩先生が心から合気道を愛しまた誇りにしていらっしゃったのもまた間違いのないところであるように思われます。
もし事実その通りであるならば、「ならば何故合気道なのか」という本当に大本となるところを考え直さねばなりません。

〈B〉 今ある持ち物を捨てることで新たな財産が生まれるということだけ申し上げておきましょう。

〈A〉貧乏性で頑固者であることを自覚しており、これはなかなか…私に「竿」を手放すことが出来るかどうか…
「捨てる」気持ちのきっかけに、ぜひまたお話をお聞かせいただければと存じます。

 以上がいただいたコメントからの抜粋です。

 さて、冒頭に述べた『黒岩合気道の本質を探るきっかけ』というもののわたしなりの認識をまだ申し上げておりません。今回述べた個々の事象から、それぞれの方がそれぞれに考えていただければそれが一番ですが、誤解を恐れず一言でいえば『重層化』ということではないかとわたしは考えています。ひとつの技法に、表と裏、中身と外見、実用と非実用、等々多様な価値観を見出すことができます。解がいくつもある、一筋縄ではいかない宿題を預けられたようなものです。でも、それが面白い。

 過去と現在を再確認することはさらなる一歩を踏み出すための必須条件です。その、さらなる一歩を常に求めていたいものです。


 =お知らせ=
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 詳しくは≪大崎合気会≫ホームページをごらんください。