本ブログ読者の方とのコメントのやりとりの中で、わたしは合気道界の現状を『誤解や過信や勘違いがもたらす、他律的なのに独善的という摩訶不思議な状況』と表現しました。何をもってそのように評価しているのか、今回はそのことを採りあげます。。
まず『誤解や過信や勘違い』について。これは虚の稽古を合気道のすべてと思い込んでしまうことから生まれます。虚の稽古とは、あらかじめ定められた手順にしたがい受けの協力のもとに成立させる技法のことです。つまり受けに手首や道着などを掴んでもらって、あるいはまた決まったところを決まったように打ってもらって技を施す、ごく普通に行われている方法です(参照2007/04/19 ⑮ウソ)。
そこで、それ(虚の稽古)がすべてと思うことが誤解。その虚の稽古では受けがポンポン飛んでいくので、さも自分が強くなったような気がして、それがどこでも通用すると思うのが過信。そして《気》を発することで肘が曲がらないとか掴んだ手が離れなくなると教えられ、それが合気の真髄だと思ってしまうのが勘違いです。
それらが相乗的にからみあってもたらされるのが他律的で独善的な状況です。では《他律的》とはどういうことかといいますと、辞書によれば「自らの意志によらず、他からの命令、強制によって行動すること」となっています。
「自らの意志によらない」というのですから、取りは自分では(特に武道的に意味のあることを)何もしないのに受けが勝手に動いて、あげくの果てにどっかに吹っ飛んでいくということでしょう。「他からの命令、強制」とは、そうすることが正しいあり方だと誰か(指導者や先輩)に吹き込まれたということです。これ、要するに他人まかせということです。どこの世界に他人まかせで勝ちを(あるいは価値を)得ることのできる武道があるでしょうか。
《独善的》についてはどうでしょう。これは辞書では「自分だけが正しいと考えること。ひとりよがり」となっています。自分の学んだものだけが正しくて他は間違いだという、ありがちな論理です。幼稚すぎて諌める気にもなりませんが、悪貨は良貨を駆逐するということになれば傍観しているわけにもいかない、厄介な存在です。合気道に限りませんが、しっかりした師弟関係が確立しているところには、その弊害として閉鎖的であるということがままあります。ですから、自分のしていることを客観的に見つめ直す機会が意外に少ないものです。公開の講習会などはその良い機会なのですが、131の項で述べたようにその場合でも自流の壁を越えられない人が多いのも事実です。
独善的というと、他人まかせという意味の他律的とは相反するような感じを受けるかもしれません。それを矛盾といえば矛盾なのですが、実は同じものです。どういうことかといいますと、他律も独善も自他の間に意味ある関係性を築けていないことを意味します。生きた交流というか交感が希薄なので、意見の相違もなく(生ずるはずがない)、したがって悩むこともなく、上達の芽に気づくこともない、それ以上の発展が見込めない状況です。
自分で考えるということをしないで、なりゆきで築かれた状況に甘んじ、能力をきちんと評価する努力もなく、観念ばかりが先行して現実に対応しきれない、まるで今の日本の国防のようです(これは余計でした)。
さて、現状批判ばかりではこれもまた独善ですので、こうあった方が良いのではないかという考えを述べておきます。
結論を言えば、虚の稽古だけが正しいと思うのが間違いだと言っているわけですから、陽の稽古を採り入れれば良いのです。ただし、ここで大事なのは陽の稽古にはあまり比重を置かなくてもよいということです。合気道の、あるいは日本武術の伝統的稽古法がここでいう虚の稽古であり、その伝統をむやみに崩すことになってはいけません。要は、虚の稽古の目的と限界がわかる程度に採り入れればそれで十分です。
ここで、どうしてしっかり陽の稽古をしなくてもよいというのかとの疑問をお持ちの方へ、あらかじめお答えしておきます。それは、陰の稽古をしっかり積んでこられた方は、陽の稽古というものがあるということとその考え方がわかれば、すぐにでもできてしまうからです。もちろんそのために若干の工夫と部分的鍛錬は必要ですが、根幹のところは既に出来上がっているのです。陰と陽との本質的な違いは技法そのものではなく考え方なのですから。
しっかり陽の稽古をするに及ばない二つ目の理由。合気道にはいくつもの顔があります。そのうち健康法としては普通の稽古で間に合います。また、精神修養法としてどのくらいの効用があるか、これは一口では言えません(というか、わかりません。はっきり言ってわたしの守備範囲外です)。
そういうわけで、陰陽で問題となるのは制敵技法としての武術的側面(本当は正面)であろうと思います。この場合はどうしたって陽の稽古をしっかり積む必要があります。しかし、多くの愛好家にとってその実戦性が第一義ということはないのではないかと思いますが、どうでしょうか。もし間違っていないとするならば、陽の稽古に付随する突き、蹴りなどの当身技法や脳天逆落とし的投げ技などは、一般的な愛好家にとっては危険すぎるのでやらないほうが良いものかもしれません。
よく殺傷事件で報じられることに「加害者はナイフを護身のために所持していた」というのがあります。なまじナイフなど持っていたために事が大きくなってしまったのです。また、護身用に銃器の保有が認められているアメリカでは、その火力は犯罪者よりも暴発事故などで本人やその家族に降りかかる場合のほうが多いという統計があります。
つまり、強力な武器は時として所持する者に向かってくるということで、これは武術技法にも言えることです。それを理性的にコントロールするには、それを獲得するに到った努力の何倍もの自制心と精度が求められます。生兵法はケガのもと、まったくその通りです(陽の技法に含まれる、とても簡単でとても有効な手指による《目潰し》などは、ほぼ間違いなく相手を失明に追い込み、自分を平穏な社会生活から隔絶します)。もちろんそれを覚悟で身に付けようと思われる方があってもよいと思いますが、くれぐれも全体の幸福をお忘れなく。