合気道ひとりごと

合気道に関するあれこれを勝手に書き連ねています。
ご覧になってのご意見をお待ちしています。

133≫ 他律と独善

2010-07-19 15:24:52 | インポート

 本ブログ読者の方とのコメントのやりとりの中で、わたしは合気道界の現状を『誤解や過信や勘違いがもたらす、他律的なのに独善的という摩訶不思議な状況』と表現しました。何をもってそのように評価しているのか、今回はそのことを採りあげます。。

 まず『誤解や過信や勘違い』について。これは虚の稽古を合気道のすべてと思い込んでしまうことから生まれます。虚の稽古とは、あらかじめ定められた手順にしたがい受けの協力のもとに成立させる技法のことです。つまり受けに手首や道着などを掴んでもらって、あるいはまた決まったところを決まったように打ってもらって技を施す、ごく普通に行われている方法です(参照2007/04/19 ⑮ウソ)。

 そこで、それ(虚の稽古)がすべてと思うことが誤解。その虚の稽古では受けがポンポン飛んでいくので、さも自分が強くなったような気がして、それがどこでも通用すると思うのが過信。そして《気》を発することで肘が曲がらないとか掴んだ手が離れなくなると教えられ、それが合気の真髄だと思ってしまうのが勘違いです。

 それらが相乗的にからみあってもたらされるのが他律的で独善的な状況です。では《他律的》とはどういうことかといいますと、辞書によれば「自らの意志によらず、他からの命令、強制によって行動すること」となっています。

 「自らの意志によらない」というのですから、取りは自分では(特に武道的に意味のあることを)何もしないのに受けが勝手に動いて、あげくの果てにどっかに吹っ飛んでいくということでしょう。「他からの命令、強制」とは、そうすることが正しいあり方だと誰か(指導者や先輩)に吹き込まれたということです。これ、要するに他人まかせということです。どこの世界に他人まかせで勝ちを(あるいは価値を)得ることのできる武道があるでしょうか。

 《独善的》についてはどうでしょう。これは辞書では「自分だけが正しいと考えること。ひとりよがり」となっています。自分の学んだものだけが正しくて他は間違いだという、ありがちな論理です。幼稚すぎて諌める気にもなりませんが、悪貨は良貨を駆逐するということになれば傍観しているわけにもいかない、厄介な存在です。合気道に限りませんが、しっかりした師弟関係が確立しているところには、その弊害として閉鎖的であるということがままあります。ですから、自分のしていることを客観的に見つめ直す機会が意外に少ないものです。公開の講習会などはその良い機会なのですが、131の項で述べたようにその場合でも自流の壁を越えられない人が多いのも事実です。

 独善的というと、他人まかせという意味の他律的とは相反するような感じを受けるかもしれません。それを矛盾といえば矛盾なのですが、実は同じものです。どういうことかといいますと、他律も独善も自他の間に意味ある関係性を築けていないことを意味します。生きた交流というか交感が希薄なので、意見の相違もなく(生ずるはずがない)、したがって悩むこともなく、上達の芽に気づくこともない、それ以上の発展が見込めない状況です。

 自分で考えるということをしないで、なりゆきで築かれた状況に甘んじ、能力をきちんと評価する努力もなく、観念ばかりが先行して現実に対応しきれない、まるで今の日本の国防のようです(これは余計でした)。

 さて、現状批判ばかりではこれもまた独善ですので、こうあった方が良いのではないかという考えを述べておきます。

 結論を言えば、虚の稽古だけが正しいと思うのが間違いだと言っているわけですから、陽の稽古を採り入れれば良いのです。ただし、ここで大事なのは陽の稽古にはあまり比重を置かなくてもよいということです。合気道の、あるいは日本武術の伝統的稽古法がここでいう虚の稽古であり、その伝統をむやみに崩すことになってはいけません。要は、虚の稽古の目的と限界がわかる程度に採り入れればそれで十分です。

 ここで、どうしてしっかり陽の稽古をしなくてもよいというのかとの疑問をお持ちの方へ、あらかじめお答えしておきます。それは、陰の稽古をしっかり積んでこられた方は、陽の稽古というものがあるということとその考え方がわかれば、すぐにでもできてしまうからです。もちろんそのために若干の工夫と部分的鍛錬は必要ですが、根幹のところは既に出来上がっているのです。陰と陽との本質的な違いは技法そのものではなく考え方なのですから。

 しっかり陽の稽古をするに及ばない二つ目の理由。合気道にはいくつもの顔があります。そのうち健康法としては普通の稽古で間に合います。また、精神修養法としてどのくらいの効用があるか、これは一口では言えません(というか、わかりません。はっきり言ってわたしの守備範囲外です)。

 そういうわけで、陰陽で問題となるのは制敵技法としての武術的側面(本当は正面)であろうと思います。この場合はどうしたって陽の稽古をしっかり積む必要があります。しかし、多くの愛好家にとってその実戦性が第一義ということはないのではないかと思いますが、どうでしょうか。もし間違っていないとするならば、陽の稽古に付随する突き、蹴りなどの当身技法や脳天逆落とし的投げ技などは、一般的な愛好家にとっては危険すぎるのでやらないほうが良いものかもしれません。

 よく殺傷事件で報じられることに「加害者はナイフを護身のために所持していた」というのがあります。なまじナイフなど持っていたために事が大きくなってしまったのです。また、護身用に銃器の保有が認められているアメリカでは、その火力は犯罪者よりも暴発事故などで本人やその家族に降りかかる場合のほうが多いという統計があります。

 つまり、強力な武器は時として所持する者に向かってくるということで、これは武術技法にも言えることです。それを理性的にコントロールするには、それを獲得するに到った努力の何倍もの自制心と精度が求められます。生兵法はケガのもと、まったくその通りです(陽の技法に含まれる、とても簡単でとても有効な手指による《目潰し》などは、ほぼ間違いなく相手を失明に追い込み、自分を平穏な社会生活から隔絶します)。もちろんそれを覚悟で身に付けようと思われる方があってもよいと思いますが、くれぐれも全体の幸福をお忘れなく。

 

 


132≫ だんご理論

2010-07-05 17:25:21 | インポート

 だんごと合気道がどんな関係にあるのか、もちろん直接には関係ありません。今回お伝えするのは≪だんご3兄弟≫という歌があちこちから聞こえてきた頃それにひっかけて故黒岩洋志雄先生が合気道の理合を説明するために使われた方法です。

 本ブログ2008年12月1日付の特別編集 ≪ 黒岩洋志雄先生の合気道 ≫の本文最後のところでインタビューにこたえ、『物事を説明するのに、高尚な宗教や哲学や理論に依らなければ理解できない、解決できないなんてことはないの。合気も同じことで、目の前にあることで説明できなくちゃいけないし、むしろそういうことが必要なんです。材料はいくらでもありますよ。たとえばほら、いま流行っているタモリの《ワ》で十分に説明できるんですよ。ワは《和》であって《輪》でしょ。和は考え方つまり精神や心で、輪は見方つまり理論や肉体ですよ。』とおっしゃっています。

 このたとえ話を、しばらく後まで立大の学生さんにむかって使っておられましたが、言われた学生さんはキョトンとしていました。彼ら彼女らは《ワ》が流行っていたころは物心がつくかつかないか、へたをすればまだ生まれてもいない頃で無理もありません。このブログの読者の中にもご存じない方がいらっしゃるかもしれませんので、簡単に説明いたします。

 昼のバラエティー番組≪笑っていいとも≫のテレフォンショッキングというコーナーのオープニングで、司会のタモリさんがだいぶ以前『友達の友達はみな友達だ。世界に広げよう友達の輪』と言いながら頭の上で両手で輪を作るポーズをしていたのです。それを使って合気道の勘所を説明しようというのですからユニーク極まりないというべきでしょう。このように、先生はその時々の流行りものをたくみに採り入れて合気道を説明されることがよくありました。

 さてここで、『心が和』だというのはなんとなくわかりますが、問題は『輪は理論や肉体』であるというところです。手許資料はここで終わっていて、その続きは持っていませんので、インタビューにおいて実際はどのように説明しておられたのかはわかりません。ですが、おそらくは今回お話ししようと思っている≪だんご理論≫につながるものであろうと思います。

 このだんごは、タモリさん流に頭の上で輪を作るのではなく胸の前で≪輪≫をつくるのです。そこに例の棒切れ術で使う棒を、両手を組んだところを通してみぞおちのあたりに当たるようにするとだんごの串刺しに見えます(ただしだんごは3個ではなく一個ですが)。

 この輪を使って先生は合気道の技の原理を説明されるのです。ここで中心を通っている棒を他の人がゆっくり回します。棒を持っている人は地軸を中心に回る地球の自転のように胸の前で作っている輪を棒の回転に合わせて回します。

 そして、ここからの説明にたいがいの人はアッと驚きます(押しつけがましいですかね。でも、わたしはたいがいの人の一人なので驚きました)。どういうことかというと、水平に作られていた輪が軸の回転に合わせて縦の輪に変化するわけですが、このとき上になった腕を取れば一教、下になった腕を取れば四方投げになるというわけです。言われてみればまさにその通りです。

 わたしは合気道の技の説明で、これほど虚を突かれたと感じたことはありません。まるで関係なさそうに考えられているこの二つの基本の技が、実は上の腕を取るか下の腕を取るかだけの違いだというのです。実際、足運びも最初の2歩は同じような動きになっています。

 概略そういうことですが、細かく言うと、輪を少し押しつぶして上になった腕を取ると一教の表、輪をのばして(肘をのばすように)取ると一教の裏になります(黒岩先生の一教裏は表のようには上に突き上げません)。また、下の腕を伸ばして取ると小手返しになります(極めの部分だけをみると四方投げと小手返しは親戚のような技です)。

 ヒトの体は、よほどの特異体質の人以外は、可動域に個人差があるとはいっても、ほぼ同じような動きしかできません。技はその限られた動きの組み合わせで成り立っていることがこれでわかります。

 これはまた、見方を変えれば、一般的に技を説明する場合にみられる取りの側の論理から受けの側の論理に視点を置き換えた考え方ということもでき、取り、受け、それぞれが主人公であるという考え方を補強する理合でもあります。

 だんご理論は以上のようなものですが、ひとつ付け加えておくことがあります(もしかしたらもともと上記のインタビューにはこのことが載っているのかもしれません)。それは、取りが自分の腕で胸の前で輪を作ると、それが自分の力が相手に伝わる有効領域になるということです(つまり自分の間合いです)。より正確には、輪は両手の指先が合うくらい大きい輪ではなく、手首が重なるくらいの輪です。このときの肘の曲がり具合が、他の技の場合でも力が有効に働く限界であり、腕を直線的に突き出すとき以外、それより伸びてはいけません。

 気の利いた動きをしようと思ったらこの輪で作られる範囲内(上は額の高さまで、下は腹のあたりまでの球体の内側)で腕を遣う必要があります。黒岩先生の示された間合い感覚は、したがって思いのほか近いものです。約束事の稽古だからこそ身につけることができるのだとおっしゃっていました。これが取りに視点を置いた場合のだんご理論です。 

 このように、タテ・ヨコの崩し理論といい、このだんご理論といい、黒岩先生は肝心なものごとをできるだけシンプルに説明してくださいました。わたしが驚くのは、そのシンプルな理論に到る過程には膨大な武道理論(実際は武道に限らず、もっと広い運動理論)の蓄積とほとんど天才的なひらめきが介在しているはずだと感じたからに他なりません。

 真理は単純なところにある、これこそが黒岩先生の合気道の真骨頂でありましょう。