合気道ひとりごと

合気道に関するあれこれを勝手に書き連ねています。
ご覧になってのご意見をお待ちしています。

78≫ 対話の端緒

2008-08-25 14:34:15 | インポート

 今回は、TAKE様(以下T氏)から頂戴した《特別寄稿 2》を読ませていただいての感想を述べてみようと思います。

 まず感じたのは、師匠と弟子というのは似るものだなぁ…ということです。以前にも書きましたが、T氏は大学の一年先輩で、わたしと同じ頃に同じ道場で合気道を始め、初段前後の頃から、西尾昭二先生や黒岩洋志雄先生のもとにいっしょに出稽古をするようになりました。その後、T氏は主に西尾先生に、わたしは黒岩先生に師事するようになりました。

 西尾先生は公務員としての務めをはたしながら精力的に合気道の普及、指導に励まれました。柔道、空手、剣術、居合道等の研鑽も積まれ、海外での指導もずいぶんされました。

 一方、黒岩先生は、本部での指導を退かれてからは、ご自宅からそれほど遠くない所(錦糸町、本所吾妻橋、蔵前など)に道場を借り、R大学合気道会の皆さんのようにきちんとした師弟の契りを結んでおられる方々は別として、わたしのような押し掛け弟子みたいな者たちに稽古をつけてこられました。

 T氏は特別寄稿でお分かりの通り、宮仕え(ご本人の弁)のかたわら国内外に多数のお弟子さんを抱え、切れ味鋭い(わたしの想像ですが、間違いありません)合気道を指導しておられます。居合道の高段者であることは文中に読み取れますが、剣道やボクシングの経験者でもあります(このあたりは黒岩先生と共通なんですよね)。

 わたしはといえば、黒岩先生の教えを支えに、郷里で細々と(しかし本物を求めて、かな)修行を続けているといったあんばいです。わたしが非才であることを除けば、それぞれ似てると思うわけですよ、なんかね。

 その次です。就職や帰郷により道場を離れ、長きにわたり一緒に稽古をすることも談論を交わすこともなかったのに、実に同じようなところに気を配りながら修行を続けてこられたことを知り、喜びもさることながら、それ以上に驚きさえ感じました。T氏とわたしとでは、おそらく見た目の技法はずいぶん異なると思いますが、ここを外したら合気道ではないというところは共通しているのではないかと感じました。

 それは体各部の遣い方や稽古相手への気配り、講習と稽古の違いなどに触れられた部分によく表れています。T氏が秀逸な合気道家であることの所以です(それならわたしも、ということではありませんから、念のため)。

 文中、技すなわち体遣いの精密性はわたしの最も重要とするところです。また、稽古相手を尊重することの大切さもこれまで述べてきています。それぞれに所感を述べたいところですが、つい最近わたしが関わる組織で講習会(全東北合気道連盟主催で道主が講師を努められました)がありましたので、ここでは特に講習と稽古の違いについての感想を述べてみます。

 T氏の論旨はまったくその通りだと思います。講習を受ける側は講師の示す通りに技を展開していくべきであり、いつもの自分の動きと異なる場合は、じっくり時間をかけて、やり慣れない動きを体と心で吟味するのが正しい対応です。しかし、多くは普段の稽古の延長上で自分流の動きをしているというのが現実で、それでは講習の意味がありません。普段と違う動きをやりたくないのであれば休んで眺めていればよいのです。大人なんですから。

 また、広範囲から参加者が集まるので、よその人どうしで組むと、なんか△△道場代表とか○○支部代表みたいな感覚をもつのか、変に頑張ってしまう人も多いようです。相手も負けじと頑張るので、力比べみたいになったり、サディスティックな痛めつけあいに見えてしまいます。そんなことで汗をかくのはそれぞれの道場にお帰りになってからどうぞと思ってしまいます。

 T氏はまた、初心者が初心者を教えるような状況があるとおっしゃっています。これもまことにその通りで、その人たちが漫然と稽古を繰り返すうちに段位を上げ、まわりが正当な批評すらできなくなるくらいの立場になると、その人のレベルが全体の規準となってしまいます。真摯に道(技も心も)を追究しようとする人にとっては居心地の悪いことになってしまいます。悪貨は良貨を駆逐するというのは経済の問題だけではないようです。

 さて、T氏は文末に対話という言葉を使われました。このブログを通じて合気道のあれこれを語りあおうというご趣旨であろうと存じます。その一端として今回はいささかの読後感を述べました。これをご覧いただいている皆様も、どうぞこの対話の輪にお入りください。良貨を決して粗末にはしませんよ。

 


77≫ 特別寄稿 その2

2008-08-15 21:43:29 | インポート

 以前に特別寄稿としてご紹介したコメントをお寄せいただいた、わたしの入門当時からの永年の道友であります TAKE様 から、この度また含蓄に富む文章を頂戴いたしました。今回も、お送りいただいた原文のまま《特別寄稿 その2》として掲載させていただきます。

 合気道を愛することにかけてはわたしも人後に落ちないつもりですが、同門のよしみなどというけちくさい思惑など入る余地無く、TAKE様には一目も二目も置かざるを得ません。文章からは、柔軟でありながら安易な妥協を許さない、一流の合気道家の理念を汲みとることができると思います。

 

 ≪特別寄稿 その2≫

 長い間コメントをお送りすることができず、申し訳ありません。私は宮仕えの身の上ですので、「合気道ひとりごと」を読ませていただいても、なかなか自分の考えをまとめるだけの余裕がありません。

 さて、私は一昨日ヨーロッパから帰国しました。今夏は、例年のドイツ・フィンランド・スウェーデンの3カ国以外に、ロシアにも指導に行くことになり、非常にきつい日程での22日間でした。
 最も、ロシアは、現地の教え子たちの昇段審査受検のための審査前指導ということで、講習会ではなく、審査を受ける有段者中心の稽古指導という形で、基本稽古を1日6時間から7時間行い、ナーバスになって良い部分が出せず、失敗しがちな彼らの支援をして来たつもりです。
 ドイツの講習を終えた後、7月下旬に現地サンクトペテルブルグに入り、四段審査受検の4名を含めた人たちに、じっくり基本の確認をしてもらい、その後、私はフィンランドに入りました。最後にスウェーデンに行き、そこでロシアの30名が加わった講習会を持ち、その終わりの現地での昇段審査会で、彼らは昇段審査を受検したのです。
 一回の審査会で四段が4名受検し、実力も確かなものでした。学科試験に対してもしっかりした内容で答えてくれ、納得できる審査会でした。
 
 私の場合、ヨーロッパでの講習会では、初日に講習会であるから、ただばたばたと動いて汗をかき、自己満足するのは止めましょうと、念を押して始めます。それでも、いつの間にか参加者の多くは、普通の稽古と同じようにお互いに必死に動き回ってしまうようになります。日本でもそれは似たようなものですが、なぜ、そうなのか奇妙なことです。
 
 技というものは、時間をかけて一つ一つじっくりと慎重に、自分の内面と話をしながら、築き上げていくものでしょう。特に基本技には高段者になっても、繰り返し行う面白味があります。

 作りから崩しにかけて気配を消すように十分注意をしながら行い、自分の手・足・腰・身体全体がどのように働いているか、確認をし続けるのは楽しいことです。相手の身体が反応しづらい状態、言い換えると、相手が気がつかないままわずかに崩れていく状態を、基本の稽古で繰り返し、模索していくのは味のあることです。
 肩の状態、身体の向き、臂の沈み具合、手首の活き死に、指先の方向性とゆとり、左右の手と上体の連動性等、腕の周辺だけでも働きを高めるところはいくらでもあります。

 こうしたことを含めて、指導をしっかりできる指導者は、多くはないのかもしれません。
 私は、日曜日に三~六段の人達を中心に、基本技と居合を稽古する会を持っておりますが、五段・六段の人達にも、基本の中の基本を注意せねばならないことが、しばしばあります。
 転換の入身の際の足の指の働き・膝の沈み込みと使い方・足指と膝の方向・目付・重心移動・体の軸の作りから始まって、多くの留意点がありますが、これらは初心者の段階で作り上げておくべきことでしょう。
 しかしながら、かつて、やむを得ぬことではあったとしても、初心者が初心者を教えるような世界であった斯界では、現実的に基本をしっかりと教え込むというようなことは、困難であったのでしょう。
 その繰り返しの結果、初心者が初心者を教えることが特別なことではないような世界になってしまったのではないでしょうか。

 この2~3年、私はどこに行っても、肩と股関節、および、その周辺のことに関して、強くものを言うようになりました。それは、あまりにも合気道修行者の肩やその他が固いからです。力んだ稽古・固い棒や氷のような足腰による受け・本人の自覚のないまま行われる押し込んで痛めつけるような二教や三教その他の締めなどが、その一因と思われます。
 伸ばすべきところを押し込み、かたくなにきめて後輩に自分の強さを知らしめようとする初心者は、少なくありません。それでは、習う方は、いつの間にか肩その他が固くなってしまうことでしょう。
 技の上達に、肩や股関節のしなやかな強さ・可動範囲の大きさは、大きな要素となります。そうしたことを捨ててはいけないでしょう。
 
 上級者は、基本技の稽古を通じて、技の細部に武神がおられることを初心者に示唆できるとよいでしょう。いつか、その初心者は上達し、細部の働きの重要性に目を向ける修行者になっていくはずです。
 
 合気道修行者の多くがまじめでしっかりと稽古に取り組む人達であるにもかかわらず、いまだに稽古法が十分とは言い難いのは、遺憾なことです。
 技ではなく、気分で人を投げるような演武は見てもしかたがないでしょうし、無抵抗の人に剣をむけるような行ない(演武)は、人のモラルに関わると誰しもが思うことでしょう。

 agasanの文章を十分に読むこともせず、コメントを書いてしまいました。よく読ませていただいてから、コメントを書くべきだったと、軽い後悔を持っております。
 少しは書かないといけないなぁと思い続けておりましたので、対話になっていませんが、お許しください。今年、考えるところあって居合道の全国審査を受け、八段をいただきました。ヨーロッパの居合の教え子たちの昇段関係や何やかやの書類を、これから作成しなければなりません。忙しいことです。

                              TAKE

 


76≫ レベルアップ

2008-08-13 12:07:47 | インポート

 合気道は愛と和合の武道です。いたずらにひとと競ったり争ったりするものではありません。まして、心の伴わない術ほど下劣なものはありません。

 それはそれとして、だからといって下手でいいわけではありません。下手の言い訳に愛と和合が使われては、じつにどうも説得力のない修辞で、どなたかの演武のようです(や、これは言い過ぎでした)。

 技量というものは普通は稽古の質と量に従って徐々に上達していくものでしょう。そのレベルアップについてわたしはこれまで次のように考えていました。《合気道入門時は100人が100人ともできる技から稽古が始まる=指導書に書いてあるのはそういうレベル。そのうち上達するにしたがって100人中10人ほどができる程度まで進む=この段階では相当の努力と工夫が必要。そしてついには100人(100万人でもよいのですが)の中の一人しかできないレベルに達する=ここまでくるとほとんど技の原型を留めない》、このようなものです。

 それはおおむね間違いではないと今でも考えていますが、このような直線的、楽観的思考はひところの日本経済の成長神話みたいに単細胞的で、なんとなくみっともないと感じるのも事実です。修行の進展とは、往々にしてそのような単純な姿では現れないのではないかと思うようになったのです。

 つまり、ちょっと見にはわからない細かなところの精度を上げていくことこそ真の上達の現れ方ではないのかということです。足運びが一歩違えばこれはまったく違う動きですが、それが半歩はおろか一足長違っても別物だと感じられるようでなければ技を会得したことにならないのだと思うわけです。

 また偉そうなことを言ってしまいますが、多くの方が(高名な先生方も含めて)、とにかく動きが大雑把すぎます。単なる健康体操ならばそれでもかまいませんが、いやしくも合気道は武道です。命のやりとりからあみ出された技術が、そんな精度の低いことでいいはずがありません。肘の伸ばし加減、膝の曲げ具合、歩幅、爪先や腰骨の向きなど、注意すべきことが山ほどあるのですから。それらはもっとも初歩的な課題であって、武道稽古で大事だと思われる間合いなどを語る以前の問題です。 

 そのようなことがお座なりで済まされてしまうようでは、とうてい100人中一人のレベルに到達することはないでしょう。そうなる理由は《上達》についての考え方が確立されていないことにあると思うのです。一般的には、上達というのはできる技数が増えていくことだと考えられているようです。事実、昇段級審査では上にいくにしたがって課題となる技が増え、中身も複雑になります。それはたしかにひとつの見識ではあるでしょうが、それで全てを量れるものではありません。

 わたしは、技数が増えることがそのまま上達の証とはとらえていません。そうではなく、いろんな技をすることによって求められる体の各部の動き、働きの意味がよくわかり、そのように体現できるかどうかが規準となるべきであると考えています。

 例えば、動きのある時点での爪先はどちらを向いていなければならないか、半身(これは防御姿勢です)から攻撃に移るときに意識はどう変わり腰はどのような動きをすべきか等々、そんなことまでと思われるほどに体の各部に神経が行き渡っているかどうかが上達の指標であり、それができることが上位者の上位者たる所以であろうと思うのです。ですから、指導する側もそこのところがわかっていないと門下から達人(とまでは言わなくても優秀な門弟)が生まれるのは難しいことでしょう。

 数学者が、真理にかなった数式は美しいというような意味のことをおっしゃいますが、武道でもそれは当てはまります。美しい動きは正しいのです。ただし、美しさの定義が問題で、これは素人が考えるような単なる見た目の美しさではありません。そういうのは多くの場合、美しさというよりも派手さです(どなたかの演武のように、あ、また言った)。武道の美しさは、全身が協調してどこも遊んでいるところがない、要するに合理的で居つきのない動きから生まれます。

 そのような動きは決して経験の長い人の専売特許ではありません。むしろ初心者の方こそ、そこから始めなければならないのです。初心忘るべからずとは、そこに真理が潜んでいるからです。日々の稽古はその確認のためであり、したがって上達とは、行きつ戻りつしながらゆっくり歩んでいくものだと思うのです。


75≫ だれでもできる

2008-08-03 14:48:46 | インポート

 習い事というのはなんでも基本が大切だといわれます。基本のことを《ものごとのいろは》という言い方をします。国語を学ぶときに最初に習うのはたしかに50音で、そこから、次には漢字を学び、短い文章を学び、古今東西の文学に親しみ、論文や小説を書いたりもできるようになります。そのように、一般的には初心者が学ぶ最も単純な知識や技術のことを基本といいます。しかし、武道の《いろは》をそれと同じに考えてよいのでしょうか。

 合気道では、四方投げや入り身投げ、一教などが基本の技といわれます。新しく入門した人は、まずこの辺から指導を受けることになります。でもそれは簡単だからでしょうか。

 今回のテーマは《だれでもできる》ですが、これは文字通り、みんなに開かれた合気道として大切なことだと思います。ただし、初心者には簡単な技、経験者には難しく高度な技、ということではないだろうと思います。どんな技でも、だれもができるような方法を示し、それに則って稽古すればだれでもできる、ということでなくてはいけないと思います。一つひとつの技には、もともと難易や高低などないのです。

 このごろわたしの道場では基本の技のモデルチェンジ(マイナーチェンジですが)を試みています。新しい工夫というよりも、技本来の意味をより踏まえた動きに微調整しているといった方が正しいかもしれません。各々の技において、だれでもできるということを前提に、従来より合理的な方法に気が付いたからです。こうした変化は、苦労も伴いますが、うまく納まった時の喜びもまた格別です。

 新たな動きを要求するので、従来の体遣いでは納まりがつかないということでは白帯も黒帯も一緒ですから、みんな同じように苦労してもらっています。有段者が片手取り四方投げや正面打ち一教などを、新人と一緒に『できない、むずかしい』などといいながら、それでも楽しそうにやってくれています。そんな様子を見ていると、合気道の基本というのは、なんと奥の深いものであるかということを感じます。

 そういうわけですから、これまでと違う動きに戸惑うのは、むしろ経験の長い人かもしれません。これと同じ風景が、黒岩先生の講習会でよく見受けられます。そこには普段ごく一般的な稽古を積んでいる方が多数参加されていますから、先生の独特な技法をすんなりとは吸収できない様子が見てとれます。それまでに稽古で培ったものが役立つことは大いにありますが、逆に足枷になることもあるのかもしれません。

 しかし、普段の稽古で自分の技法に疑問を抱いている人には、黒岩先生の教えは最高の処方箋となるようです。しかもそれは(ここが肝心なのですが)やろうと思えばだれでもできる方法なのです。できない人は、体が動かないのではなく、意識のほうが未体験の動き、考え方に対して躊躇や拒否をしているのです。固定観念を取り払えば大きく視界が開けてくるのですが。

 ところで、だれでもできる、という方法は指導する側の能力が問われる方法でもあります。仲間を馬に譬えては失礼ですが、馬を水飲み場まで連れて行くのは馬方の責任、水を飲むか飲まないかは馬の勝手、と言われます。そのように、できるできないは究極的には本人の努力、責任に帰するものではありますが、指導する側は、これぞと思う技法を言葉と実際の動きで具体的に示さなければなりません。それなくしては師弟ともに発展がありません。弟子を見れば師匠の出来がわかる、とはこういう状況をいうのでしょう。

 わたしは、それまでと違う変化を求める稽古では、指導法において位の上下や経験の長短では区別しません。そうでないと、自分の責任は棚に上げて、うまくできないのは稽古が足りないからだ、経験未熟だからだといった、指導者としての思考的怠慢に陥る危険性があるからです。それでは、だれでもできる、わけではないことになってしまいます。稽古者を肩書きで区別しないことは、自分自身への縛りでもあります。実はこれも黒岩先生から学んだことです。