合気道ひとりごと

合気道に関するあれこれを勝手に書き連ねています。
ご覧になってのご意見をお待ちしています。

218≫ 精度

2013-10-29 17:39:52 | インポート

 合気道の理合は剣の理合に通ずるといわれます。剣の理合といってもいろいろあるでしょうが、その第一はなんといっても触れれば斬れるということでしょう。ではそのことと合気道がどう関係してくるのか、これを明確にしないと理合が同じだなどと知ったふうなことを言っても誰にも相手にされないでしょう。

 剣術の専門家なら、斬るということについて技法としても心法としても様々な考えを持っているでしょうが、それをそのまま合気道に当てはめてみてもあまり意味あることとは思えません。端的に言えば、剣術家はより良く斬るための方法を考えるのであり、合気道家は斬れるか斬れないかを考えるのだと思います。

 極論すればわたしたちにとっては、刀の刃先が届けば斬れる、届かなければ斬れない、ただそれだけのことが重要なのです。その切り口や切れ味などということについては剣術家に任せればよいのであって、それはすでに合気道家の領域ではありません。

 要するにわたしたちが考慮すべきことは、斬れる斬れないの境界、すなわち間合いです。間合いはなにも合気道の専売特許ではありませんが、他武道においては存外お座なりで済まされているのではないでしょうか。たとえば、組み合った状態から技を掛けあう柔道では、はなから間合いなど気にしている人はいないように見受けられます(組み合うことによって間合いが限定されるからです)。間合いが重要と思われる剣道でも、有効打突は重視しても、それに外れた打突の意義はほとんど顧みられることがありません(実戦であれば死命を制するような打突でも試合でのポイントにならなければ意味がないからです)。空手道も、競技における寸止めという変則技法のもとでは本来の精妙な間合い感覚を得るのは難しいと思われます。

 このように、現代武道においては武道の命ともいえる間合い感覚が居場所を無くしているというのが現状です。むしろ外来の格闘技あるいは護身術においてその意義が重視されているというのは、なんとも歯痒く感じます。せめて合気道ではそこのところを大切にしていきたいと思う所以です。

 わたしが長く師事した故黒岩洋志雄先生は稽古や講習会での技の説明のとき、受けをとってくれる人の顔面にしばしば当て(パンチ)を入れてしまうことがありました。稽古での展示ですから、本来は当たる寸前で拳を止めなければいけないのですが、『あ、ごめんなさいね』とは言うものの、終生直る(あるいは直す)ことはありませんでした。

 わたしは初め、先生は目が悪くなったから間違って当ててしまうのだろうと考えていました。でも何度もあることなので、そのうち何か違う理由があるのではないだろうかと思い始めたのでした。そして、もしかしたらこんな理由ではなかろうかと思い至ったのは、それから何年も経ってからです。

 ご存じのとおり、先生は若い頃ボクシングをしておられました。後に世界フライ級チャンピオンとなる白井義男氏を間近に見て練習する環境に身を置き将来を嘱望されていましたが、目を悪くして断念されたのです。

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 ボクシングの練習には寸止めというのはありません。サンドバッグであれ、あるいはまた人間相手のスパーリングであれしっかりと対象にパンチをいれないと練習になりません。当然先生もしっかりと打ち込む練習をしたはずで、そのころの動きが体に染み付いていることは疑いありません。若い頃に身についた動きは抜けないというのがわたし自身の感慨でもあります。

 さてしかし、いくらそうだとしても、合気道の稽古において相手の顔にパンチを当てないで済ますのは誰でもやっていることで、なにも難しいことではありません。目が悪くなったといっても、それくらいの距離感覚がない先生ではありません。では、先生の場合どうして拳が当たってしまうのでしょう。

 思うに、あれは当たったのではなく当てたのですね。それも、当たるか当たらないかの境目を1mm単位で狙った確信犯です。その証拠に、当てられた人は誰も痛がらないのです。痛いと感じるところまでは打ち込んでいないのです。つまりあれは黒岩先生だからできた名人芸です。間違ってもわたしのような者が真似をしてよいものではありません。

 この、1mm単位の間合い感覚を稽古者に見せてくださったのに違いありません。先生にとっては当たる1mm手前で止めることも簡単だったでしょう。でもそれだとボンクラなわたしたちは1mm単位の間取りに気づかないでしょう。1mmでも1cmでも区別がつかないでしょうから。だから当ててみせたのです。

 それに気づいてからのわたしの稽古目標は、間合い感覚とそれを形作る技の精度の向上と決めたのです。それを目標とする限り稽古は一生ものになり得ます。1mmができたら次は0.1mmを目指せば良いのですから。

 どこまで行けるか、楽しみですよこれは。

=お知らせ=

黒岩洋志雄先生の合気道理論に則った技法をご紹介する≪第7回 特別講習会≫を11月17日(日)に開催いたします。

詳細は左のリンク欄から≪大崎合気会≫のホームページをご覧ください。


217≫ 現代武道の一側面

2013-10-15 15:44:35 | インポート

 前回、特別寄稿というかたちで【ヒト】様から寄せていただいた文章を掲載しました。非日常的と言いますか異常事態に遭遇した経験から来る心理状態を素直に表しておられるように思いました。そこで生まれた一つひとつの思いが切実かつ具体的で、いろいろ考えさせられるものがありました。

 とりわけ印象的なのは、暴漢にどう立ち向かうかというのが論理の前提になっていることです。もしヒト様が武道と縁がなかったら、それとはまた違った思いを持たれたかもしれません。どのように違うかは一言では尽くせませんし推測の域を出ませんが、普通に考えれば通りすがりの一般市民としては加害者に対抗しようということにはならないでしょう。危険な場所に近づかない、万が一の場合は速やかにその場を去る、そのためにどうするかというのが恐らくは圧倒的多数の意見ではないでしょうか。暴漢をなんとかするのは警察の仕事で、市民が対処するに及ばないというのが法治国家のあり方と認識されているからです。武道家といえどもそれはそれで良いと思います。

 ただ、それでは済まない、あるいは済ますわけにはいかない、ということがあるのも現実です。もちろん、済ますことができるかできないかの判断は人によって違います。先日のニュースで、踏み切りで倒れている老人を見て、危険をかえりみず自分を犠牲にして救助にあたった女性のことが大きくとりあげられました。まことに痛ましいことではありましたが、いまはそのこと自体を云々しようというのではありません(尊い行為であることは言うを俟ちません)。わたしの関心は、自分がその立場にいたらどうしただろうかと多くの方が自問したのではないかということです。

 それぞれが自問するということは全員に共通する決まった答えはないということです。それぞれの人が背負っている自分の歴史によって答えも違ってくるだろうからです。でも、それで良いのだと思います。出てきた答が仮に他人に褒めてもらえないものだとしても結構。答そのものより、そこで自問するという行為が貴重だと思うからです。

 わたしの友人(武道とは無関係)で、どんな状況でも右か左か行くか止まるかなど、何でも一瞬で物事を判断できる人がいます。どちらかといえば優柔不断なわたしは最初大変感心しました。それでその能力はどこから来るのだろうと考えたことがあります。そして行き着いたのが、彼はある宗教のまじめな信者であるということでした。社会に認知されているまともな宗教では、人間が人間らしく生きるための多くの指針が示されています。ですから彼もその教えに照らせばあらゆる判断を即決できるのだと思い至ったのでした。

 そう考えるとまた別の感慨が湧き出ました。そのような境遇にある人はそれはそれで素晴らしいことではありますが、それまでのように感心したり羨ましいとは思わなくなってきたのです。なぜか。

 何ごとかを判断するとき、決まった教科書を持たないわたしはその都度いちいち自分の頭で考えざるを得ませんが、その、いちいち自分で考えるということに価値があることを見出したからです。いや、見出したというのはこの齢でいかにも青臭いですね。意識に上らずとも、ずっとそういうやり方で過ごしてきました。そしてその方法は正しいであろうと自任しているということです。

 今回のテーマ【現代武道の一側面】のひとつが、この、自分で考えるということではないのかと思うわけです。本当は現代武道と一くくりにせず、合気道と限定するほうが正しいかもしれません。他武道の経験のない方は意外に思われるかもしれませんが、彼らは私たちが思う以上に日常的によく考えて稽古をしています。競技のある武道は常に技法の向上を考えないと置いてけ堀をくってしまいます。対して合気道はむしろ変化を嫌う傾向があります。ですが、俳句でいうところの不易流行(変えてはいけないものと変るべきもの)を上手く共存調和させないと現代に取り残されます。

 我田引水はお許し願いますが、このブログをご笑覧いただいている皆様は、合気道界ではそれほど多くない≪考えるタイプ≫の方々だと思います。なぜそう思うかといいますと、そういうタイプの方でないとわたしの文章には付き合いきれないであろうことが、私自身わかっているからです。

 合気道を単なる運動として体だけ動かせればいいと考えている方は、現代武道としてのそのような一面を楽しめばよいので、それ以外のことを特段考える必要はありません。しかし、【ヒト】様のように武道家(武道愛好家)として社会に関わろうとする人が少なからずおられることも事実です(わたしも含めて)。

 決して同じことの繰り返しではない日常生活です。いつも何かの判断を迫られる毎日です。そこで武道家は聖人君子である必要はありませんが、常に考え、稽古で培われた徳によってより正しい判断を下していきたいものです。

=お知らせ=

黒岩洋志雄先生の合気道理論に則った技法をご紹介する≪第7回 特別講習会≫を11月17日(日)に開催いたします。

詳細は左のリンク欄から≪大崎合気会≫のホームページをご覧ください。


特別寄稿 ≪ヒト≫様より

2013-10-01 17:19:41 | インポート

 本ブログを読んで下さっている≪ヒト≫様より、現実に起きた事件をもとに、ご自分なりのお考えをまとめた文章をコメントとしてご投稿いただきました。他武道の経験者としての視点は一般の合気道愛好者の方にとって参考になるところが多いと思われますので、そのままブログ本欄でご紹介いたします。

===※===

agasan様(*心の中では先生と御呼びしています。)はじめまして。
合気道(合気会入門)をはじめて丁度1年になります。ヒトと申します。35歳になりました。
合気道以外の経験は剣道14年 空手8年かじった・・・いやいや匂いを嗅いだ程度で、中途半端でありますが通っていました。^^;

ブログとても楽しかったです。(読み終わったら挨拶をしようと思っていました)
読み始めた時に初めて黒岩先生の存在を知り、読んでいく途中で訃報の記事を読み、涙が出ました。お会いしたかったです。

今回は武器術の項目でしたので文才が無いのですが、なんのために合気道をしているのかを踏まえて話させて下さい。

秋葉原通り魔事件はまだ記憶に新しいと思います。
あの時近くに自分は居ました。血を大量にみるのも初めてでしたし、まさか日本でましてや自分の周りでこんなことが起こるとは・・・・・・悪夢です
その時は、その場を離れる選択肢しか頭にありませんでした。(何が起きたのか判らない状態でした)

木刀があったら刃物を相手に闘えただろうか?
多分無理だっただろうと思います。
例えこちらの武器が長物でも殺傷力と覚悟が相手の方が上ですから。*生きたい人間と死人です。
(その際使用されたのがダガーナイフ *両刃短剣→後に法律で所持も違法になりましたが片刃に比べて刺し通りがいいとか・・・。持ったことないので伝聞ですが・・・。破棄ぜずに所持している人は結構いるのではないかと、そこも怖くなります。ですが3,000円もあればその辺で刺身包丁とか買えてしまうのでそれはそれで怖い話ですけど。)

さて【木刀vsダガーナイフ】でイメージしてみました。
相手が右手でダガーを持ち、左手で防御しながら、予想外に動き走りこんで間合いに入られたら・・・

■木刀での面→左手で防御(相手の左手は折れると思います)して右手のダガーで刺されて終了。

■小手でダガーを落とすのも難しい。ある程度、懐に入ってこないと右手が出てこない。(ダガーを右手で持ち左足前の為)

■胴も打った際に抱え込まれたら寄られて終了

■ダガーを持った右鎖骨への一撃が有効かもと考えますが左手でガードしながら特攻されたら・・・・

うまく距離をとりながら闘えればいいですが、1回もミスは許されません。

自分は木刀を一般の人よりは、多少早く振れると思うのですが、いざ実戦でどう動くか判らない。捨て身の者を正確に打つのは困難です。ましてや絶対はずせない状況なら尚更です。

警察官が警棒で立ち向かった際の内容をみつけましたが、防護衣を着ていなければ胸を刺されていたのでは?という記述がありました。

以下まとめです。

■警察官供述
(犯人は)右手にナイフを持ち、左足を前に出していました。2人の距離は1、2メートルまで迫っていました。ナイフの刃先を私(警察官)に向けた状況でした。
左足を踏み込み、ナイフを私の胸に向かって突き刺してきました。
私は右手に持った警棒を、犯人の右腕の付け根めがけて振り下ろしました。
ナイフが私の胸に当たりました。衝撃はありませんでしたが、ガシャンと音がしました。(防護衣を着ていた)
私(警察官)が振り下ろした警棒は(犯人の)左の額にあたりました。ナイフと警棒はほぼ同時に当たりました。犯人はナイフを離さずにもっていました。

・・・・ん?右肩を殴ろうとして相手の左の額に当たったということは振りかぶって振り下ろし始めたときにすでに警棒の根元近くまで間合いを詰められていると言うことでは?と思ったわけです。(いかに実戦での動きが恐ろしいものなのかこの一文に見えました。特攻です。)
警察官ですから多少なりとも武道の経験あると思うのですが・・・。それでもこんなものでしょうか。

あの事件から学んだ事として
①イヤホンで音楽を聴けなくなりました
 (耳が塞がる事への危険性 音楽結構好きだったんですが・・・)
②周囲(特に後ろ)への注意
 (背中からいきなり刺されるケースも普通にあるという事です。後ろに何か嫌な感じがしたら先に前に行ってもらう 。背中を取らせないプチゴルゴ13状態です) 
③咄嗟の時に都合よく武器は落ちていないので、あらかじめ携帯する。
 (よーい ドンの掛け声はありませんから相手の攻撃がスタートの合図なので当然後手になります。そこから探し始めていたら・・・間に合わない・・・)
 
素手で闘え!という御叱りを受けてしまうでしょうか^^;)

そして事件後から携帯するようにした物もあります。
①防刃装備各種
②飛び道具?(見た目は砂、一時的目潰し。意外と動きを悟られないように投げるのが難しいです。)
③杖(ステッキに近いです)内部改良済 *刃とかは入っていません^^;

*どれも違法性の無いものを念頭に身に付けています。
またどう改良し、装備して使用するのがいいのかを模索しています。空手・剣道・合気道が跡形も無い武装感ですが(-.-;)
武道とは体と感覚を鍛えるものと割り切っています。
武器相手には武器相手に特化した術が必要であると思っています。
武器vs無手には何十年も濃密な稽古しなければ刃物相手に対抗できないとなると護身術として問題に思うのです。
合気道は無手・杖・合気剣(木刀)・座り・短刀etcと欲張りです。週に1~2回で上記+実戦までというのは詰め込み教育です^^;;非常に楽しいですけど・・・

空手を習っていたとき「拳こそ最高の武器であり武器を持たない事こそ空手の美学」
と教わりました。その通りだと思っていました。

しかし美学を信じ大切な人(恋人・友達・奥さん・お子さん・お孫さんetc)を自分の目の前で守れなかったら本末転倒です。用心にこした事はありません。
この日本に刃物を持って暴れている人に対して無手で相手を軽症程度で取り押さえられる人がどれぐらいいるかは判りませんが、もしその暴れている人が素人ではなく多少の武道経験があったならば・・・怖いです。

合気道は間合いの稽古と思い入門しました。(道具を使うにしてもその為の訓練は必要と思いました)
自分の場合は、週に6時間程度の練習ですが素手vs武器の実戦使用を考えた場合30年やっても自分は到達出来るのか判りません。刃物を持った相手に飛び込める勇気の問題かもしれませんが、刃物を持ち死を恐れない人を相手にした訓練などまず出来るものではありません。

秋葉原通り魔事件がおこる前までは、拳で一撃必殺!木刀があれば素人相手に負けるわけない!という思いあがりがありました。井戸のカエルがなんとやらです・・・お恥ずかしいorz

自分にとって合気道も含め武道は家族を守る為の手段です。ですが入門してからは合気道が楽しすぎて道場稽古以外に日に2~4時間は自主練習をしています。
家族を守るはずの武道で家族が離れていきそうで怖いです^^;ですが、もっとやりたい・・・もっとやりたいと気持ちが高ぶります。

普段の練習方法・自主練習法についてや作法について、道場の事について等、聞きたい事がたくさんあるのですが、この辺にしておきますorz
長々失礼しました。

===※===

ご投稿文は以上です。

悲惨な事件に遭遇した立場からのご意見です。そのことをどう捉えるかは皆様にそれぞれ考えていただきたいと思いますが、本ブログの管理人としては、その考えるきっかけ、場を提供できたことは意義あることと思っています。

=お知らせ=

黒岩洋志雄先生の合気道理論に則った技法をご紹介する≪第7回 特別講習会≫を11月17日(日)に開催いたします。

詳細は左のリンク欄から≪大崎合気会≫のホームページをご覧ください。