稽古というのは、普通、何かを目指してその準備のためにするものです。何かのための手段です。ところが合気道の場合、合気道を稽古して何かを目指すということが本当にあるのかと考えると、どうも稽古の先には別に何もないのではないかと思いつつ今日まできています。
昔なら、ある種の人々にとっては必要にせまられたり、あるいは実質的な必要性がなくても社会的な評価を勝ち取るために武術の稽古が求められることはあったでしょう。その場合、武術の稽古は何かを得るための手段でした。
しかし今は合気道に対して格別そのような要請はありません(国情によってはあることもありますが)。試合があるわけでもなく、せいぜい年に一度か二度の演武会や審査でそれもほんの数分間、いま備わっている能力を披露するくらいです。どう考えてもたったそれだけのために一年を通じて稽古に励んでいるというわけではないでしょう。
また、スポーツとしてではなく制敵技法としての武道なんて、日本くらいに治安が維持されていれば、やらなくても一向に構わないものです。実際、武道に縁のない人のほうがずっと多いでしょう。伝統文化としての流儀を守る役目のある人以外は世の中に武道がなくても誰も困りません。むしろ社会は武道などというものが本来の機能を発揮させることのない世の中を目指してきたのではありませんか。
そのような状況下でわたしたちが最も考えなければならないのは、やはり、何ゆえに武道(この場合は合気道)をするのかということに他なりません。すなわち武道家としてのアイデンティティーの確認です。以前にも、合気道というものは何かのために稽古をするのではなく、稽古それ自体が目的であるというようなことを述べた覚えがあります。座禅を例にとって、臨済禅のように、座ることを悟りにいたるための手段ととらえるものがある一方、曹洞禅のように、座ることそれ自体が悟りの表徴であると考えるものとがあり、合気道の場合は曹洞禅のようなとらえ方に近いものだという趣旨だったと思います。論理的にはそれは今でもその通りだと思っています。しかしそれをさらに一歩進めて、禅によってもたらされるものを悟りというように、合気道の稽古が招来する境地をどう把握するか、これは考えておく必要がありそうです。
やらなくても構わないものに価値を見出せということですから、これはなかなか楽な仕事ではありません。無理やり理屈をこじつけてみても、みんなを納得させるのは困難でしょう。しかし、このごろちょっとした思いがあります。
合気道には試合がありませんから、勝ちたいという思いは最初からありません。このことは武道をやる上でのもっとも基礎的な欲望から既に離れていることを意味します。変な欲がないということはこの際とても重要なことです。それでも他に欲というか望みというか、そういうものを挙げてみると、健康体でありたい、精神の安定をはかりたい、仲間をたくさんつくりたいというようなものが考えられます。それくらいはまあいいでしょう。そのほか、ちょっとカッコ良く演じて褒められたい、『あの人は強い』と思われたい、組織の中で偉くなりたいなんていうのがあるかもしれません。くだらないと言えばくだらない欲ですが、それが稽古へのモチベーションとなるならそれも結構でしょう。
それらを全部ひっくるめて、その先にあるもの、それが今回のテーマであるところの、合気道によってもたらされる境地です。それは結局、大先生がおっしゃる『惟神=かんながら』であろうと思います。これには神の思し召しのままにということの他に、いやむしろ第一義として≪神であるがままに、神として≫という意味があり、崇敬の対象である神に自らが同化するということを表しています。つまり主体と客体が一致するということです。
それを、思念上のことに止まらず、実際の稽古においても感じ取ることができるようになること、それこそが稽古の究極の目的であろうと思うのです。具体的には次のようなことです。
わたしたちは自分の意思で技を施します。たとえば、一教を施す自分と、自分によって表現される一教という技がある、というのが普通の見方です。ここでは自分と技は本質的に一体ではありません。客観的に一教を見ている自分がいるからです。しかし、本当は、自分がいなければ一教はないのです。技はわたしという体を通じてしか存在できません。一教というものが自分を離れて独立して存在するものではないからです。それを実感するのは次のような場合です。
長く稽古を積むことによって、特に意識しなくても体が勝手に動いて一教を施すことができる場合があります。このとき、技を完成させようという意識がないわけですから、自分と技の間には主客を隔てるものがなくなっています。自分が一教をしているのではなく、自分が一教そのものになっている状態です。これが惟神ということなのではないかと考えてみたわけです。
(参考:開祖道歌 ・神ながら合気の道を極むれば如何なる敵も襲うすべなし ・神ながら天地のいきにまかせつつかみへのこころをつくせますらを)
もちろん合気道をするのに、このような考えでなければいけないというのではまったくありません。ただ、大先生が生涯をかけて伝えようとされたものを遺された言葉で探ると、こういうことではなかったかと思うわけです。
武道なんかしなくたっていい、まして合気道みたいに、いまどき型だなどと、ひとつ間違えば形骸化して強いんだか弱いんだかわからないものを武道と言う枠でとらえる必要がはたしてあるのか、そう思う人も少なからずいることでしょう。それについて、わたしはあえて否定はしません。ただ何かの縁で合気道の門をくぐり、ひょっとしたらここにはいま言った武道の枠とは異なる意味で武道の枠を超えた世界が広がっているのではないかと思うようになった自分がいると、そう感じています。