合気道ひとりごと

合気道に関するあれこれを勝手に書き連ねています。
ご覧になってのご意見をお待ちしています。

260≫ 超えるための稽古

2015-02-24 14:56:38 | 日記
 前回、師を超えろと、やや挑戦的な主張を述べました。でも、やはりこれは正しいのではないかと思っています。
 
 師たる者、(まともな人格者であれば)自分の持てる全てを注ぎ込んで後を襲う人材を育てようとするに違いありません。そうしなければその世界は必ずレベルダウンするからです。師を超える人が輩出されないことの当然の結果です。

 そしてもうひとつ、とりわけ合気道のように試合のない武道においては、師の能力を証明するのは往々にして師自身よりは、その教えを受けた門人の出来不出来によります。だからこそ弟子は一所懸命努力して師を超えてみせなければなりません。それが親(師匠)孝行というものです。大相撲の世界でも、世話になった先輩を負かすことを恩返しといいます。健全な競争とはそういうものでしょう。

 でも、いずれ師を超える日が来る、とはとても考えられないというのが実際でしょう。わたしもその一人です。師が優れた方であればなおさらです。しかし、それでもやはり超える努力は続けなければなりません。それが師の望みであるだろうからです。

 さて、それでは何をどのように超えていくべきか、そのことを考えてみましょう。結論を言ってしまえば、技法の精度を上げていくということです。

 師の技法は師の個人的肉体的条件、つまり筋力、持久力、瞬発力さらには視力や反射神経などに制約される、あくまでも師個人の財産であるということが言えます。簡単に言うと、たとえば背の低い師の体遣いを背の高い弟子がそのまま採用することには無理があるといったようなことは理解しやすいでしょう。その限りにおいて、師の技法は師個人の枠を越えることはできません。

 それでも、教授にあたってはその師個人に帰属する技法をなんとか普遍性のあるものにしようと工夫するはずです。ただ、教えを受ける側は、その普遍性が必ずしも本来の意味における普遍性ではなく、先鋭さを犠牲にした最大公約数的技法であることを理解すべきでしょう。そこで割愛された部分に重要なファクターが含まれる場合もあるかもしれません。それを見つけ出すことも弟子の義務です。なにしろ、そこから師匠超えが始まるのですから。

 ここまで述べたことは、技法の精度を上げようということに関してです。一方、技法の対語としては理法や理合というものがありますが、これは変更や変革になじみません。理というものを変えた時点で、その人はその師の門人とは言えなくなってしまうからです。見た目が同じでも、精神が異なればそれは既に別の物事であることはご理解いただけると思います。大先生の精神を否定して合気道家は成り立たないということです。

 ただ、それはその人の変革を否定するものではありません。門人ではなくなったというだけのことで、新しい流儀を確立したということかもしれません。それも師を超えるひとつの方法と言えないこともないでしょう。

 いま、わたしの主宰する会の稽古においては、たとえば足運びや手の置き所など、体遣いの一つひとつについて相当細かく指示をします。稽古する側の会員にとっては、なんと面倒くさいことかと思っているかもしれません。

 しかし、わたしが理想とする合気道を厳密に伝えようとすると、そうせざるを得ないのです。しかも、そのようにすることによって合気道が本来持っている合理性に気づいてもらえるのですから、これは正しい稽古法ではないかと自画自賛しています。合理的な方法に則れば、だれがやっても上手くできるのです。ですから、白帯の人でも有段者に比べて遜色の無い技を展開しています。

 誤解の無いように言い添えますが、それらはなにもわたしのオリジナルということではありません。合気道の稽古法にはもともとそのような働きが潜在的に保持されているのです。教える側も教えられる側もそれに気づくかどうかです。まあ、教える側の責任が大きいとは思いますが。

 合気道のカタ稽古(古流などにおける厳密な意味での型稽古とは違いますが)は目に見える動きの中に、単にそれに止まらない深い意味を隠し持っていることにどうか気づいてください(この件、文章では表しきれないので、わたしの主宰する講習会でお伝えします。5月頃を予定しています)。

259≫ 師を超える

2015-02-11 15:27:13 | 日記
 先日、わたしの主宰する会の古参のひとりが『大先生の直弟子の方々はまだしも、それ以降の師範方で、これはと言われるような方がいるのかいないのか、なかなか耳にしませんね』と、鋭いことを言ってきました。

 もちろん、本部に限らず日本や世界各地において多くの優れた指導者がしかるべく研鑽を積んでおられますから、その成果として合気道が日々興隆しつつあることは疑いありません。ただ、言われるように、それらの方々は良く言えば粒ぞろい、口が曲がる覚悟で言えばドングリの背比べみたいな状況であるのもまた事実かもしせません。

 合気道の発展のためには能力の高い一握りの天才がリードしていくのも良いかもしれませんが、これだけの大所帯になったいま、均質かつ良質の技法と心法を伝えていこうとすれば、誰か特定の人が突出するよりは、一定のレベルを維持できるような指導体制のあり方がふさわしいのかもしれません。

 ただ、その場合、均質は均質でも低位均質では話になりません。より上等を目指し、各々自分の技法の精度を上げる努力は尽くされねばなりません。そのためには《稽古》という文字面にとらわれず、新しい工夫を取りいれることを考えるべきでしょう。

 試合のある武道やスポーツでは、勝利を目指すということは古い記録を塗り替えるということです。そのため技法は常に改善、改良されていきます。合気道においても、試合の有無を除けば進むべき方向はそれらと同じはずです。しかし、多くの合気道家にとって技法の改変はあまり好意的に受け容れられているようには見えません。

 なるほど、わたし程度の技量の持ち主が見ても、多くの改変は向上よりは劣化につながっているように感じられますから、あらゆる改変は厳しい淘汰の波に洗われる必要はあります。それでも、新たな工夫もせず勝手に限界を決めて、同じ事を漫然と繰り返すだけの稽古よりは、何かが生まれる可能性があります。

 現実にできるできないは武道の大事ではあります。しかし、仮にできない可能性が高いとしても、たとえばいつかは師を超えるのだという志だけは掲げておくべきでしょう。合気道においては、その歴史の出発点において大先生が究極の技法、心法を示してしまわれたので、後に続く者たちは、乗り越えることができない壁を無意識のうちに心の中に築いてしまっているのではないでしょうか。師に対しては最大限の敬意を持ちつつも、いつかは乗り越えるべき対象であるという心構えで臨む、それこそが恩返しというものではないでしょうか。

 わたしも、もう少し早く気づくべきでした。