合気道ひとりごと

合気道に関するあれこれを勝手に書き連ねています。
ご覧になってのご意見をお待ちしています。

253≫ 講習会資料から① 

2014-11-21 11:11:25 | 日記
 先般、わたくしの主宰する講習会を催しました。遠路おいでいただいた皆様にはあらためて感謝いたします。そのとき配布した資料の一部を2回にわたって掲載いたします。

 ①として、ここでわたしが言いたいことは、伝統や先達の教えに従うという口実のもとに自らの工夫を怠るようなことなく、ますますそれぞれの技法を磨いていくべきであり、そのことは偉大な指導者によって保証されているということです。以下、ご覧ください。

= 第9回 合気道特別講習会 =                          
 【開催趣旨】
黒岩洋志雄先生の合気道理論を手掛かりに武道としての本質を追究するとともに、技法の多様性を理解して稽古者それぞれの個性豊かな合気道を作り上げようとするものです。

 【個性を尊重することの正当性について】
合気道は未完の武道です。それを少しでも前進させようとするならば、先人に学ぶとともに、稽古者それぞれの個性を存分に生かした技法を考究、提起し、他との比較考量のなかで淘汰のふるいにかけることが必須であろうと思います。
この考えが正当である理由は下記の著作(いずれも・創始者 道主 植芝盛平 監修 ・ 道場長 植芝吉祥丸 著 ・ ㈱ 光和堂 発行)より開祖ならびに二代道主吉祥丸先生のお言葉を示すことで理解して頂けるものと思います。

《合氣道》=初版 昭和32年8月30日=より
「合気道には完成というものが無い。道は無限であり、汲めども尽きぬ泉のようなものだ」とは、いつも道主の口にしている言葉である。

《合気道技法》=初版 昭和37年1月25日=より
植芝盛平翁が、かつて四十年前にこの道を創始した時に較べれば、今日の合気道技法の変化の多種多様であるのはまことに驚くべき進歩発展というべきであるが、将来まだまだ無限に増進して止まないであろう。それは天然の法則に従っているからであって、この道の極まりない進展性を認められる所以であろう。
     
このように、お二方とも合気道は未完であるとの前提で、将来に向けてのさらなる発展を期待しておられることは明らかです。そのためには稽古者はひとつところに留まることなく、常に鍛錬工夫して、心技ともにより高い境地を目指ことが肝要です。
~引用ここまで~

 以上が当日配布した資料の一部です。これまでも本ブログで『合気道は未完の武道だ』とか『百人いれば百通りの合気道がある』などと言ってきていますが、それらは別段わたしの勝手な解釈ではなく、お読みいただいた通りの事情に依るものです。

 このように合気道には自由な風が吹き渡っているのでありまして、近視眼的な目標の前で立ち止まってしまってはもったいないのです。

 ただ絶対に気をつけていなければならないのは、自由な工夫とは勝手気ままを意味していないということです。それを吉祥丸先生は《合氣道》のなかで『およそいかに立派なものと思われ、どんなにすぐれたと考えられるものであっても、それが永久不変の本質を備えると共に、その時代に正しく即応して生き得る社会性がなければ本物ではない』と断じておられます。本質から外れず今を生きよということで、現代武道として、これは大事なことです。

 今回の講習では、わたしの立ち位置を明確にしておくためにそのことを最初にお話させていただきました。まあ、それが勝手といえば言えなくもないのですが、力点はそれぞれの個性を大切にというところにあります、ということでご理解願った次第です。

252≫ 演武考

2014-11-13 16:30:52 | 日記
 先日、公私共に長くお世話になっている先生の道場の演武会にお招きをいただき、わたしもほんの少しだけ演武をさせていただきました。以前から言っていますようにわたしの場合、もともと演武は得意ではないので見て喜んでいただけるようなものはご披露できませんが、下手は下手なりに日頃お世話いただいていることへの感謝の念をもって務めてまいりました。また、その道場の皆さんの演武から勉強させていただくこともたくさんあり有意義な時間をすごすごとができました。

 そんなことがあったもので、参考のためにあるウェブサイトで紹介されている某団体の演武会の様子を観ましたが、以下はその感想です。

 幾人もの高段者、なかには名の通った方も演武しておられるのですが、わたし自身の下手さと見取り能力を棚にあげて言えば、いささか理解に苦しむものが多く見受けられます。要するに、演武を通して何を表現したいのかということが伝わってこないのです。間合いも正確ではなく崩しも不十分で、取り受け双方とも呼吸を読んでいるふうでもなく、ただなんとなく動き回るだけ、極端に言えばそういうことです。わたしの感受性や理解力が乏しいのかもしれませんが、それが指導的立場にある方々の演武の実像です。

 以前はそういうものを見ても、高段者の先生のされることだから何かまだ自分にはわからないことが秘められているのかもしれないと思うこともできました。しかし、なんだかんだ言いながらも40年以上修練を続けてきた身を基準にすれば、やはりそのような現状には厳しい評価を下さざるを得ません。

 合気道をなさっている方は、ほとんどどなたも何らかの演武会に出たり見たりしたことはおありでしょう。そこでどのような感想をお持ちになっているか知りたいものです。合気道には試合がありませんから、道場の垣根を越えて多くの人が一堂に会する機会というのは講習会や演武会しかありません。その貴重な機会のひとつである演武会での演武をどういうものと心得ているか、このことは十分に吟味してみる必要があります。

 わたしがまだ初段になるかならないかという頃、つまり昭和40年代後半ですが、その頃の全日本演武大会は日比谷公会堂で行われていました。いまの日本武道館とちがって器が小さいですから演武者の数にも限界がありました。ですから参加希望者はだれでも出られるというわけではなく、しかるべき先生方と一定数の道場の代表くらいなので、演武をするほうも真剣なら、見るほうもそこで何かをつかんで帰ろうという気持ちがあふれていました。もちろんいまだって皆さん真剣にやっておられると思いますが、いわゆるおさらい会のような雰囲気ではありませんでした。

 誤解を招かぬように言っておきますが、おさらい会がいけないとは思いません。いい加減な高段者の演武よりは白帯の皆さんやお子さんたちの一所懸命な演武のほうがずっと気持ちが伝わってきます。

 話を戻しますと、わたしは演武というのは自分の現在地を明らかにする作法であると考えています。何年、何十年の修練の成果を表すとともに、今後の方向性を指し示すものです。それをもって何を伝えたいかということまで含めて演武です。

 要するに、『それが今のあなたの実力ですね』と言われても恥ずかしくないようなものを展示しないといけないということです。そうであれば演武なのに取りの棒立ちはあり得ないし、受けが勝手に飛ぶのもよしましょうよ、となるのではありませんか。

 また、身の程をわきまえないことを書き連ねてしまいました。失礼があればお許しください。

 最後にひとつ。以前にも書きましたが、黒岩洋志雄先生は演武がお好きではありませんでした。『だれが見ているかわからないでしょ』という理由です。他武道、武術の人が見ていたら、その前でみっともないことはやりたくないと建前上はおっしゃっていましたが、肝心なところは見せたくないというのが本音です。

※ 当方の特別講習会が迫ってまいりました(11月16日)。ご参加くださる皆様はどうぞ道中お気をつけておいでください。