合気道ひとりごと

合気道に関するあれこれを勝手に書き連ねています。
ご覧になってのご意見をお待ちしています。

82≫ 三教など

2008-09-30 16:50:41 | インポート

 今回は久しぶりに具体的技法について、現在わたしが試行しているやりかたを述べてみようと思います。一教についてはバックナンバー59や他のところで何度か触れています。二教と四教についてはこの、ブログをご覧いただいた《修行者》様のコメントに対する回答で説明させていただいておりますので、重複になりますが以下に転載いたします。 

 《合気道の技の中には合理的でないと思われるものもいくつかあります。その代表が正面打ち二教であろうと思っています。二教は片手取りや肩取りなど掴まれた状態からは有効なのですが、打ち込みを制する時にわざわざ小手回しをする必要は感じられません。統一された体系を作るときにバランス上組み入れる必要があったのでしょう。
 

 それはそれとして、二教裏のポイントは、受けの手首を痛めつけるのではなく、腰を崩すのが目的です。そのために、相手の手首を自分の肩口に固定し、受けの肘は単に下に落とすのではなく一旦自分のほうに引きつけてから相手の重心つまり腰に向かって押し下げるようにします。ですから受けの腕に乗せる自分の腕は【<】のような動きになります。ちなみに黒岩先生は二教は中段の崩しであり、かつ奥行の表現だとおっしゃっています。
 

 四教は最も合気道的でない技です。それは動きに流れを取り入れるとうまくできないからです。とりわけ裏は、流れ重視では受けの腕が三教裏のような動きになり、痛くもないし崩れません。次のようにやってみてください。受けの手首を両手で取ったら、両肘を軽く脇に付け、胴と前腕で床と平行な三角形を作ります。手首の位置を三角形の頂点とすると受けの肘はその三角形の頂点の真上にきます。その肘が、頂点を中心とし、受けの取られた前腕の長さを半径とする縦の円弧を描くように、一気に頂点の真下にくるように全力で捻り落とすのです。つまり、三角形の頂点の上にあった受けの肘がクルリと下にくるようにします。肘が描く線はできるだけ円に近い線にしてみてください。中心がブレて大きい曲線や放物線状になると前述の三教的になってしまいます。この時、腕力だけでは足りないので、上半身を横反りさせ胴体力も使って瞬時に極めるのがコツです。四教は≪地に着く≫と教えていただきました。》

 以上がご質問に対する答えですが、三教については触れていらっしゃいませんでしたので、そこだけ抜けています。それについて今回ここで説明をさせていただきます。

 三教の、いわゆる小手ひねりですが、特に裏技について、腕を取りひねりをかけてその後うまく落とし押さえることができていない方が見受けられます。受けは受けで、あまり崩れていないのに、踏ん張ってしまうのも相手に悪いから崩れてあげている、なんて方もいらっしゃるのではないですか。

 これは取りの立ち位置と腕の取り位置が正しければ、すんなりきまります。まず取りの立ち位置ですが、これは受けの横に半身(相手の左側なら右半身)に構えます。裏技だということで、この段階で受けの背中側にあまり大きく回りこんではいけません。

 次に相手の腕の取りようです。これは、受けの両肩を結ぶ線の延長上に取った腕の肘が、そしてその真下に手首をもってきた状態で、チョンとひねりを効かせます。これが正しくきまると、おおげさに小手をひねらなくても、受けは浮き足立ちます。その瞬間に右足(上の例で右半身だから)を受けの背後に踏み込んで小手ひねりを緩めないように落とすのです。この場合、受けの腕をすぐに受けの腰の後ろ(帯や袴の腰板あたり)に持ち込んではいけません。三教は下段の崩しですから、ひねりをかけつつ下に(膝裏あたりをめがけて)落とすのです。

 この場合も、崩し(浮き足立つ局面)は一瞬でよいのです。いや、一瞬でなければいけません。『小手ひねり、効いてる?』なんて言いながら受けを振り回すのも、遊びとしては面白いのですが、まともな(能力ある)受けなら回避対応(返し技)をしてきますから。

 なお、肘をとる手は、ただ掴むのではなく、深めにさし入れてからバイクのアクセルをふかす時のようにひねり落とします。

 以上、いつにもましてわかりづらいと思いますが、だいたいの見当をつけて試してみてください。すっかり同じでなくても、自分なりのより良い動きがみつかるかもしれません。 


81≫ 思考能力 

2008-09-21 16:20:32 | インポート

 正しい方法に則って稽古すれば、体格、体力の違いにかかわらず、より一層身体能力を高めることができることは前回述べた通りです。

 その正しい方法とは決して一つしか無いわけではありません。合気道はそんな狭量な武道ではありませんから、真摯に取り組めばいくつもの方法が見つかるでしょう。わたしの場合はそれが黒岩先生の理論と技法でした(黒岩式メソッドとわたしが勝手に名付けました)。おかげで、わたしみたいな者まで合気道界の末席にどうにかこうにか連なるくらいのことはできているわけです。

 ところで、貧弱な身体能力の人がなんとかそれを克服しようと工夫を重ねるということは大いにあり得るでしょうし、じつに結構なことだと思います。しかし黒岩先生の場合はそういうわけではないのに、恐らくは合気会でもっとも合理的な(ということは普遍性のある)術理を考究された方だと思います。

 先生は今でこそ満身創痍、ご体調芳しからざる状況ながら、若い頃の写真を拝見すると見事に鍛え上げられた体躯の持ち主であることがわかります。いろいろお話を伺うと、少年のころから飛びぬけた才能の持ち主であったようです。小学生から中学生のころまでやっておられた剣道では、どんな相手でも簡単に小手をとることができ、あまりにも勝負にならないので指導者の方から稽古での小手禁止を言い渡されたことがあるそうです。この指導者は警視庁の剣道師範もされていた斯界では有名な方だそうです。後に先生が合気道に入門されたころ、合気道・剣道大会というのがあり、その師範もお見えになっていて、『そちらに黒岩というのがいますか』と聞かれた吉祥丸先生が、『黒ちゃん、なんであの先生を知ってるの』と驚いておられたそうです。(ちなみに、合気会の前身の皇武館には剣道部があり、剣道家の中倉清氏が一時植芝家の養子であったり、同じく剣道家の羽賀準一氏が所属していたりと、剣道とは縁が深いのです。合気道が剣の理合だということとも関連しているのでしょう)。

 また、白井義男氏もおられたジムでボクシングをしていた頃は、スパーリングでは8回戦の選手(これは相当強いですよ)にも2ラウンドを五分(ごぶ)に戦えたと聞いたことがあります。『どうして2ラウンドなんですか』と尋ねたところ、『そのころ練習ではそこまでしかやらせてくれなかったんですよ』ということでした。もっと長ければ…、ということですかね。眼を悪くされてボクシングは途中で断念されたのですが、おかげで合気道界は貴重な人材を得たわけです。先生の合理的思考法はこれらの経験(自由攻防)からくるところが大きいのではないかと思います。

 そのように、先生ご自身は優れた身体能力を持ちながら、あえてそのような才能を稽古者に求めません。わたしは不肖の弟子という表現がぴったり当てはまるナマクラ武道家ですが(謙遜とかカッコつけてるわけではありません。事実です)、それでもなんとかなるのが黒岩式メソッドの特長です。

 身体能力は低いよりは高いほうがもちろんいいです。あるレベルまで到達するのに苦労が少なくて済みますから。ただし、それ以上に、物事を合理的、現実的にとらえる思考能力、姿勢が大事なのではないかと思います。先生の稽古では、特徴ある技法と、その合理性を裏付ける理論が一体のものとして提示され、少なくともそこに情緒や思い込みなどが入る余地はありません。気で倒すとか手が離れないなんて類のことは絶対におっしゃいません。合理的というのは、常識的にあり得ないことは武道でもあり得ないということです。なぜならば、武道は最も現実的対応を迫られる人間の営みだからです。

 また、よく使われる《導く》という言葉も使われません。この言葉自体は大先生も吉祥丸先生も使っておられます(もっともそれは技法というよりは心構えとしての意味合いが強いようです)から、合気道特有の表現としてもともとあるものです。黒岩先生がそれを使わない理由を尋ねたことはないのですが、そのくらい推測できないと弟子としては失格です。これは、受けはべつに取りに導かれているわけではないからでしょう。受けは単なる取りのための稽古相手ではなく、受けの役割というものを主体的に果たし、そのことによって自らの身体能力を高めることに努めているのです(バックナンバー19,20)。

 導くという言葉を安易に使っておられる指導者の中には、例えば、転換でむやみに腕を伸ばし、受けを大きく回らせるような動きをする方が多いようですが、それこそ黒岩先生の最も否定するところです。武道的にどういう意味があるのか、あるいはないのか、よく考えてみていただきたいものです。そのように教えられたからそうしている、ということであればそれは思考的怠慢です。

 さて、思考能力も身体能力におとらず大切なものであることを今回は申しました。ただ、そこで出てきたアイデアがあまり程度の良くない思いつきであることを避けるためには、やはりきちんとした稽古が土台になければなりません。体を動かすよりも考え事をしているほうが体力的には楽ですから、昨今いわゆる武道オタクのような人たちが増加しているのかもしれません。心技体のバランスのとれた稽古を心がけたいものです。

 

 


80≫ 身体能力

2008-09-12 17:42:10 | インポート

 前回は精神性について述べましたから、今回は身体能力と稽古の関係についてわたしの考えをお伝えしようと思います。

 わたしはもともと瞬発力、柔軟性、持久力といった身体能力がそれほど高いほうではありません。子供の頃から、他の子と比べて力が強いわけでもないし、体は固いし、とりわけ俊敏というわけでもありませんでした。ですが、達人が子供の頃は虚弱だったなんていう、よくある話みたいなことを言うつもりはありません。あいにく病気らしい病気はしたことはないし、まあ、そこそこ平均値というところです。

 スポーツは下手なりに好きなのですが、それでもその思い出といえばしょうもないことばっかりです。小学校の低学年のころは運動会の徒競走はビリと相場が決まっていました(これは早生まれということも関係しているかもしれません。小さいころの一年の差は大きいですから)。中学校の体育祭で相撲に出れば、ハッケヨイ、ノコッタの声も消えぬ間に一瞬で吹っ飛ばされ、剣道ではしこたま叩かれ、高校の体育祭のハンドボールではジャンプシュートの時に足を払われて頭から落ちたり、大学の体育で柔道をした時には顎に頭突きをくらって歯が欠けたり、散々です。

 ひとつだけ痛快だったのは、高校3年の夏休み明けの校内水泳大会で(すごく内輪の話ですが)、わたしを含む同じクラスの友人3人が、背泳で1~3位を独占したことです。夏休み中ほとんど毎日、学校のプールに通って水泳部の指導を受けながら練習した結果です。ただこの時は、進路指導の先生から、『あのなぁお前たち、毎年この大会では2年生が勝つんだよ。3年生はこの時期、水泳どころじゃあるめぇ』ということで、あきれられてしまいました(一応進学校なので)。

 ま、そんな昔話はどうでもよいのですが、合気道はわたしのような凡庸な者でも、その時の水泳みたいに、頑張ればなんとかなる武道だということを言いたいわけなのです。

 多くのスポーツが若い頃に競技年齢のピークがあり、それを過ぎると、指導者になれる人はまだいいとして、ほとんどは現場から離れていくのが普通です。この間中オリンピックをテレビ観戦しましたが、これを潮に引退すると言っている人の多くが2,30代ですからね。女子体操なんて子供の曲芸みたいで、一線でやれるのは10代だなんて、どっか間違ってます。

 一般のスポーツは、総合的な技術を高めるために個別のトレーニングを行います。例えば、野球をするためには、その前にピッチングやバッティング、守備や走塁の練習をします。まずは一つひとつの技術を磨く。それができないと野球を楽しめないからです。一定程度の高い身体能力が競技の前提です。ですが、せっかく身に付けたその身体能力はいずれ衰えていきます。どんな種目でも、往年の名選手が、引退後は一般人よりも運動能力が劣るなんてことはざらにあります。現役の頃に無理を重ねた反動ということもあるでしょうが、身体能力をスポーツの前提としてしかとらえていないからかもしれません。競技をやめてしまえばいらなくなってしまうもの、という程度の認識だとするとそれは大きな過ちです。

 それに対して合気道は年齢、体力に応じて、生涯を通じて親しむことのできる武道です。これは試合がないこともひとつの理由かもしれませんが、それだけではない別の重要な理由があります。

 合気道は決められたカタを繰り返し稽古する武道です。稽古を長く継続すればするほど動きが良くなり、技にキレが出てきます(正しい方法ですることが絶対条件ですが)。ここにおいて、身体能力は稽古の前提ではなく、稽古の成果として得られる財産なのです。だから続けることができるし、目標をさらに高く設定し直すこともできるのです。競技の前提などという狭いものではなく、良く生きるための身体環境のひとつであると言ってよいかもしれません。大先生は、最晩年の今が一番強いとおっしゃっておられたそうですが、それこそが合気道家の理想でしょう。

 ところで、人間の能力(身体も頭脳も)には生まれつきの差異があります。教育(知育、徳育、体育)というのはその能力を高めようとするものではありますが、差異がなくなるわけではありません。全体のレベルが上がればその地点で新たな差異が生まれるからです。

 武道に必要とされる能力についていうと、合気道はそのような差異を認めるところから始まります。そして、その差異を埋めることができるのが正しい稽古法です。埋めるというのは自他の能力を等しくするということではありません。異なった能力のまま、同等の作業を可能にするということです。

 例えば、体格(これも身体能力を決める一要素です)に限っていえば、リーチの短い人はより大きく足を運ぶことによって最適な間合いを確保できるようになったり、背の高い人が体勢を十分に低くして相手の腕の下をくぐれるだけの足腰を持てるようになるとか、そういうようなことです。身長やリーチなんて自分の努力ではどうにもならないものですから、それを補う工夫がなければ稽古の意味がありません。

 そしてまた、相手の初動を敏感にとらえること、これはセンスの問題とひとことで片付けてはいけません。経験と集中、観察と予測といった要素を集積することによって得られる身体能力のひとつで、これこそ稽古により身に付けることができるものです。

 皆さんも、入門当初はどうにもならなかったことが、体格、体力差を乗り越えて、いつの間にか当たり前にできるようになっていたというようなことはありませんか。これが稽古がもたらすご褒美です。

 身体能力の差異というのは、個性と同じで、単にそれぞれが異なるということであって、いずれが優れ、いずれが劣るといったような、特定の物指しで計るべき筋合いのものではないでしょう。稽古、鍛錬、工夫というのは、そのような差異を、有って無きがごときものとする営みです。


79≫ 精神性

2008-09-04 16:07:58 | インポート

 いま海外で合気道の人気が高まっていると聞きます。合気道の持つ精神性の高さがその理由であるとも伝えられています。実戦性よりも精神性が評価される武道というのも、なんだかなぁという感じがしないでもありませんが、ま、いっかぁ。

 合気道はじめ武道に関する多くの解説書の記すところや愛好者の発言から推察するに、ここで言われている精神性とは、おそらくは一般的な道徳律のことであろうと思われます。心身鍛錬という場合の心もそれと同義ととらえてよいでしょう。思いやり、意志、度量といったところを指しているものと理解できます。

 一修行者としてのわたしは、もともと合気道で道徳的な意味での心を鍛えようとは思っていません。だいぶ以前に、稽古を通じてこどもの躾をお願いしますという親御さんがいることに対し、家できちんと躾けていますから入門させてください、というのが本来のあり方だという話を載せました。心とか躾というのは稽古の前提条件です。そういうことですから、わたしだって心を整えること自体は大事なことだと思っていますが、ただその手段として武道に頼るわけではないということです。

 しかし、武道に対して社会が心身両面の鍛錬を要請するのであるならば、きちんと対応するのも指導者としての義務かもしれません。合気道で心を鍛えようとは思っていない(あくまでも自分自身のこととしてですが)、などと言ってしまっては身も蓋もないことになります。

 さて、心の持ち方や道徳というものは、きちんと言葉で教えるべきものです。合気道を学ぶ子供たちの行儀が他に比べて良いとするならば、それは武技の鍛錬からくるというよりは、指導者が稽古に関連づけてきちんと言葉で教育しているからです。武道家が道徳教師の役割をも果たしているわけです。もっとも、そうであるからこそ、現代において教育システムの一環として武道の存在が許されているのかもしれません。言葉を通じて理性に訴える教育を伴わなければ、武道なんてただの乱暴者を養成しているだけになりますから。

 ところで、武道修行が目指す精神性とは、本来そのような道徳レベルのものではありません。道徳とは社会をうまく成り立たせる方法、定めのことであり、功利的側面を持っています。一方、修行によって培われる本当の精神性とは、弛まざる鍛錬の末に、本源的自己との邂逅によりもたらされる絶対の個の確立とでもいうべきもので、社会的功利性とは無縁のものです。

 絶対の個の確立というのは、禅の悟りのようなものだと考えていただいて結構です。じゃ、その悟りとはどういうものかというと(実のところわたしもわかりませんが、推測です)、生まれて死ぬまで、腹が減ったら飯を食い、眠くなったら横になり、腹が立ったら怒り、おかしければ笑うことです。悪でもないけれど善というわけでもない、要するに計算がないのです。道徳が目指す社会的評価とか競争などという相対的価値観とはまったく異なる次元に心を遊ばせた状態です。なんじゃそりゃと思われるかもしれませんが、この、あたりまえのことをあたりまえに受け止める(わたしはあるとき合気道の稽古はこのためにあると得心したことがあります)ことができなくて右往左往しているのがわたしたちの日常です。

 そんなわけで、武道が目指す精神性と道徳は本来関係ありません。しかし子供への武道教育と同じで、人をあやめるに足る技能を持つものは、一層高い倫理性を求められるのも事実です。武道家がわきまえるべき道徳とは、武道を遣うためのものではなく、武道を遣わないためのものです。その意味で、武道稽古を通じて身に付けることが期待されているのは我慢とか忍耐とか、自己抑制に類するものです。しかしこれは体で覚えるのではありません。頭で覚えるのです。行動をコントロールしているのはあくまでも理性です。それに対して、武道が目指す絶対の個の認識とはどちらかと言えば感性に属する部類のものです。どちらも精神性という言葉に置き換えることは可能ですが、中身は大いに違うものです。

 道徳的な意味での精神性は武道家あるいは武道愛好家であることの前提、必要条件です。その上で、武道、とりわけ合気道を通じて得られる(かもしれない)精神性とは、大先生が感得された大いなる存在への気付きとでもいうべきものです。これが絶対の個です。合気道はそのような可能性を秘めた、類稀な武道です。

 でもこれ、目標ではあるけれど、必ずたどり着けるという保証はありません。むしろ、わたしも含めほとんどの人は行き着けない境地ですが、それでいいのかもしれません。みんな悟りを開いたら社会は発展しないでしょうからね。この世は欲と二人連れといいますから。