合気道ひとりごと

合気道に関するあれこれを勝手に書き連ねています。
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137≫ 合気道の特徴 

2010-09-17 13:35:31 | インポート

 各種武道技法にはそれぞれ特徴があって、たとえば柔道であれば投げ技や固め技などは他の武道の追随を許さず、空手道であれば突き、蹴りにおいて優位性を持ちます。武器を扱う武道もやはりその道では他を圧倒します。そのように各種武道の特徴はそのまま他に比しての特長となります。

 それでは、わが合気道にはどのような特徴があって、それが闘争の場において他武道に対して一日の長たりえているかということを、今回は考えてみたいと思います。それはたとえば、関節技ではないかとか、押さえ技ではないか、あるいはまた当身ではないかというようなことから究明が始まります。これは思考の出発点としては間違っていなでしょう。

 しかし、いろいろ考えてみると、それらは必ずしも合気道のみに特有のものというわけではありません。類似の技法はいわゆる古流と称される他武道、武術にもあるからです。大先生は各種武術を研鑽されたのですから合気道技法にそれらの影響のあることは当然で、したがって技法のみに目を向けても合気道の特徴を拾い出すことは困難です。

 これはつまり、合気道の本質そのものを問う作業であり、答によっては武道としての合気道の存在意義が失われかねません。それでもやはり武道であり続けるためには避けて通れない関門であろうと思います。

 そのことを念頭に、参考として二代道主吉祥丸先生著『合気道入門』(昭和46年、東京書店)を引っ張り出して読んでいたところ、≪合気道の特質≫という一項をみつけました。なんとこれは、いまわたしが取り組もうとしているテーマそのものではありませんか。そこで先生は次のように述べておられます。

 『今仮に、ある人から「合気道の特質とはなにか」と聞かれた場合、私は即座に合気道独特の「動き」ということについて述べるだろう。合気道の特質は、実にこの「動き」ということにある』と、このようなものです。これに続いて先生は、無理なく自他を一体化させる円転自在の動き、また、大先生の動きを「合理に徹した自然の極致」として筆を進めておられます。 ただこの項は、一読あまりに当たりまえすぎて、ややもすれば読み飛ばして記憶に残らないかのごとき文章であり、分量です。しかし、よくよく吟味して読みなおすと、この一文は合気道技法のあるべき姿を明確に示していることがわかります。

 その中で、合気道愛好家が心にとどめておくべき言葉として、わたしは特に次の文を紹介いたします。それは「合気道においてお互いに離れた場所から動作を起し、一瞬ふれ合うところで変化し動くという技法に至っては、前述した自然の動きを深く体現させたものでなくてはならない」というものです。ここで「前述した自然の動き」とは、自然の流れに逆らわず、しかも自分の本質を失わないように行動すること、という意味です。それはそれで大事ですが、やはりなんといっても、合気道技法の最大の特徴を言い表すのは「離れた場所から」始まる、というその一事ではないでしょうか。

 そうすると、手首を取って始める稽古法は方便だということです。では何の方便でしょうか。わたしはこれこそ離れて始める合気道にとってもっとも大事な間合いを感じ取る能力を身に付けるための方便であると考えます(つまり、ここでは腕一本分の間合い)。ちなみに黒岩洋志雄先生は晩年の講習会等ではほとんど手取りから技を始めておられました。若い頃ボクシングをしておられたからこそ間合いの重要性を教えたかったのだと思います。

 話を戻します。このように、吉祥丸先生は合気道の特質は《動き》にあると断言しておられます。個々の何々の技ではなくて、動きこそが合気道の特質なのだということは、わたしたちに稽古の目的と方法論が明確に示されたことに他なりません。

 さて、『合気道入門』からの引用文は40年近くも前に一度は目に触れたであろう文章には違いありませんが、当時その部分を特段吟味して読んだという記憶はありません。しかし、わたし自身がその後の多少なりとも長期にわたる修行から独自に導き、普段の稽古で留意していること、すなわち間合い、足運び等、武道的体遣いを身に付ける手段として技の稽古はあるという考え方が、既にそこには淡々と記されていることに驚きを隠せません(もちろん道主と張り合おうなどというものではなく、おおよそわたしごときが考えうるくらいのことは既に検討され検証済みなのだなという感慨を抱いたわけです。と同時にわたしの方向性は間違っていなかったという安堵感もあります)。

 もうひとつ、合気道技法に対する吉祥丸先生のスタンスは、極めて科学的、合理的な思考に基づいているということです。同著の中でも「合理に徹する」「自然の極致」という表現を用いておられ、決して非合理なことや超自然的なことは語っておられません。このことは凡人の代表たるわたし自身にはなによりの励ましです。そのような思考の一環なのでしょうか、超人的なエピソードを数多く残された大先生のそばに誰よりも長くいながら、ご自身はそれらについてあまり多くを語っておられません。たまにそのような話題が出ても、せいぜい「そういうことがあったと聞いております」という程度の受け答えで、ご自身から進んで話題にされることは多くなかったように思います。このことも、特別の才能に恵まれたわけではない人々に希望を与えるものではないでしょうか。ただしそれは、凡人ならばこそ徹底した稽古の重要性を認識すべきであるということと一体のもであることは言うを俟ちません。

 とにもかくにも、自分の経験則から合気道の特徴というものについてひとつの仮定を導き出そうとして始めた今回のテーマでしたが、なんのことはない、すでに吉祥丸先生が明確にその答をを示しておられたということを再確認するための作業となってしまいました。

 ひとつだけ蛇に足を加えるならば、闘争の場における合気道の優位性についてわたしは次のように考えます。先述した通り、合理的な動きに基づく間合いの取り方(間積り)こそが合気道を特徴づけるものであることはわかりました。しかし適切な間合いをとっただけでは勝負に勝てません。相手を制圧する技法が必要です。しかしこれは言うほど簡単ではありません。ためしに稽古相手に頼んで、ちょっとだけ抵抗してもらってください。とたんに力比べになってしまって合気道の雰囲気は雲散霧消してしまいます。

 黒岩先生は常に実戦というものを意識した指導をしておられました。その際、手近にあるものはなんでも使うのだということを語っておられました。合気道家だから合気道の技で勝とうとするのではなく、合気道で錬った体で自由自在に動き回ればいいのだと言っておられました。その自由自在の動きと言うのは大先生と共通するもので、意識を固定化せず、そして体を固定化してはならないということだと思います。問題はその自由自在の中身です。

 極論すれば、できることは何でもする、ということです。素手でいいのなら素手で、また棒切れでも石ころでも、大切なものを守るためなら手段を選ばないというのが実戦です。相手から、間合いの内に入れてしまうと厄介だと思われれば成功だということです。ただしそうは言っても自分自身を人間社会から除外させてしまうようなものであっては本末転倒です。そこで社会的に許される範囲の制圧法を目指したのが柔術一般であったのでしょう。しかしこれは数ある武術の中でも最も難しい技能です。それを身に付けることのできた人を達人と呼びます。そういうわけで、難しいけれど、どうせのことならみんなで達人を目指しませんか。

※今回もお読みいただき、ありがとうございます。

 さて、以前にお知らせしております特別講習会は予定通り9月26日(日)に開催いたします。これまで申込みのない方でも参加できますので、どうぞお気軽においでください。(詳細はこちらをご覧ください。http://www14.ocn.ne.jp/~aga/ )

 遠くからお越しの方はどうぞお気をつけておいでください。

  

 

 


136≫ カタの武道?

2010-09-02 11:51:48 | インポート

 カタというのは実戦のひな型(現代風に言うとシミュレーション)ではないという論を聞きます。カタは技というものを利用した身体鍛錬法であり、武道的体遣いを身に付けるための方法論であるという考えです(わたしも概ねその考え方を採用しています)。したがって、カタに習熟しても、それだけでは多種多様な局面を生ずる実戦の役には立たないということになります。一面において、それは真実でありましょう。

 だから昔風のカタ稽古ではなく、自由攻防での練習をしないと武道本来の強さは身につかない、という論にまでなるのですが、その結論はちょっと待ってくださいと言わざるを得ません。もちろん試合がある武道では自由攻防の練習をしないことには始まりませんし、試合のない武道(合気道のように)でもそれで得られる技能や感覚は貴重です。しかし、ここでいう自由攻防でさえも実戦とはだいぶかけ離れた状況設定であることに変わりありません。

 ちょっと話はとびますが、わたしはプロレスラーの受け身の能力を高く評価しています。リングがいかに弾力があるとはいえ真っ逆さまに落とされたり、リング外の床にたたきつけられたりしてもピンピンしてるのは、想像を超える練習の賜物でしょう。ところが、そのプロレスラーでさえ、アルティメットファイティング(何でもありの格闘技戦)では苦戦を強いられています。だいぶ以前のことですが、日本でも人気のあったクラッシャー・バンバンビガロという巨躯のプロレスラーが、その格闘技の専門の選手に顔面パンチで手もなくやられてしまった試合がありました。やはり元横綱の曙が顔面パンチでひっくり返されたこともあります。何でもありとは言いながら最低限のルールはあるわけで、そういう中ではそのルールに則った戦闘法に長じた者が有利なのは当然です。この場合、素手(薄いグローブ使用もあり)での顔面パンチがギリギリ許容範囲にある攻撃技です。

 それとは違いますが、アントニオ猪木がモハメド・アリのパンチを避けるためにリングに仰向けに寝て戦ったことは今でも語り草です。そのアリは後にパンチドランカーになってしまいました。ボクサーの職業病と言ってしまえばその通りですが、もともとアリほど相手に打たせなかったヘビー級ボクサーは珍しいのですけれどね。多くの国で公認されたスポーツですから言っても仕方ないことですが、顔を打たれるのが専門のボクサーでさえ、パンチ一発でリングに沈むことも稀ではないように、顔は鍛えようがないし、脳にも近いので本来打撃を受けてはいけないところです。

 さて、そのアルティメットファイティングでさえも厳密な意味での実戦ではありません。というより、実戦というものは反社会的組織や個人による闘争などを除けば(この際、戦争は論外です)普通の社会生活の中ではほぼあり得ません。実戦と言うのは、敵を制圧するためには人間性を押し殺し、目潰しをしようが金的を攻めようが、あるいは武器を使っても、多人数でかかっていっても構わないのです。ですから、体育、知育、徳育の手段として、あるいはまた、実際に発生するかもしれない危機的状況への対処法としてさえ、一般市民が実戦を想定した格闘技あるいは武術を練習するのは精神的に不健康だしリーズナブルとは言えません。

 そうであるならば、合気道家としてはここはもう一度原点に戻って、大先生が遺してくださった合気道を、その想定された局面において有効性をもつ程度には練り上げておくことが理にかなうのではないでしょうか。つまり、間合いや相手の動きなどが(たまたま)こちらに都合が良い状況になった時くらいはきちんと、必勝の技としてこなせるようにしましょうということです。これは、限られた局面とはいうものの、実戦の一場面であることには違いないという認識をもつことによって、合気道の場合は特に馴れ合いになりがちな稽古の矯正に役立つのではないでしょうか。

 ところで、合気道で求められる動きは比較的自由度が高く、体格や体力の違いによって(あるいはまた考え方の違いによって)基準からのある程度の逸脱が許されています。しかし、本来カタというのは、ああでも良いしそうでも良いというようなものではなく、初動から終末までこうでなければならないと定められているものです。ですから合気道は厳密な意味でのカタの武道ではありません(そのわりに、これまでさんざんカタカタ言ってますが)。

 合気道は主に柔術からの発展形と思われていますが、わたしはむしろこれから発展してカタ武道になっていくのだと思っています。そのためには、技法の細部については何でも良いというのではなく、こうであらねばならない、あるいはせめて、この方がより良いといえるくらいの基準がなければならないでしょう。その上に個人技、工夫伝があることは否定しません。先般の世界標準はそのたたき台のつもりで提示したものです。

 ここで、合気道で(上記のような意味で、限られた局面での)実戦を想定した稽古をする場合、やはり当身の扱いを考えないわけにはいきません。しかしながら、当身が七分といっても、『(取りが)打てるけれども打たない』ことで合気道の思想を表現することもあります。それを大事にするなら、露骨なかたちで当身を入れるカタを表演するのではなく、当身が入っていることをそれとなくわからせるような手遣いや体遣いを身に付けることが大切ではないかと思います。打ってから技にはいるのではなく、技に伴う動きがそのまま当身に変化しうることを示すことができればそれでよいという考えです。

 たとえば、内回転投げのように受けの脇の下をくぐる動きの場合、(こちら左半身として)右裏拳で受けの顔面を打つような動きをすることがあります。これはこれで特に間違いというわけではありませんが、いかにも打ちますよというかたちが合気道らしくないと感じますし、実際その有効性は検証が必要です。そこで、左に移動するのに乗じて、右開掌でフックぎみに受けの顔面をなでるようにしながら、その流れのまま手を下にもっていくと今度は右肘が受けの右脇腹に当たる位置に来ます。そこからくぐって行けばよいので、これによって、当身として表現しなくても二連打があることが理解できます。

 また、手取りの場合、取られる手は単純に取られるためにさし出すのではなく、出した手が本来そのまま当身の手であることに意識が向けば、特別に当身のカタを組み込まなくても普段の手遣いで当身ができることに気づくはずです。同様に、踏み出した足や膝は容易に蹴りに変化しうることも知っておくべきでしょう。

 このような動きの意味の二重性は古流武術にはよく見られることです。たとえば剣術において、相手の打ちこみに対し正眼から右足を引いて受けるという形がありますが、これは門外に向けての、いわゆるウソであって、本当は左足を進めて小手を打っていくというのがあります。このように間合いを変えることによって防御技が攻撃技に変化するという教えが他にいくつも伝えられています。人に見られるところでは本当のことはやらないという用心です。ただし錬体法としては足を出そうが引こうが効果は同じということです。

 それと似ていますが、ここで述べている合気道の場合の二重性は用心のためというよりは哲学と美意識に基づくものといえるかもしれません。いずれにしても、合気道の技には一つの動きの裏にもう一つの働きがあるということを知っておけば、特に上級者にとって後々技法の奥深さを味わうための道標になるでしょう。