合気道ひとりごと

合気道に関するあれこれを勝手に書き連ねています。
ご覧になってのご意見をお待ちしています。

156≫ 隠された当身

2011-06-22 16:05:59 | インポート

 すっと手を差しのべただけで相手が吹っ飛んでいったり、掴ませた手が離れないように振り回し這いつくばらせるといったような、きわめて合気系武道に特有の技法がおできになる方、あるいはまたそれを目指しておいでの方、加えて、平和な社会の実現を理想とする合気道において、闘争を想起させるような技法の展示は許されないとお考えの方にとっては、今回のテーマはいささか方向性を異にしますのであらかじめご了解ください。

 わたしが今回ここで述べようとするのは、合気道に包含されている(はずの)当身技法です。現代武道としての合気道には似つかわしくない、かかる旧来の技法は、冒頭に触れた超絶技巧的武道や高邁な理念に比べたらよほど程度の低いものかもしれません。

 しかし、概略それらは大先生ご自身が修行時代に実行された技法であることに疑いはありません。ですから、それを知ること、考えることは合気道の歴史をたずねる行為であって、即ち遣うことではないという理解(言い訳?)のもとに、隠された合気道当身技法を探ってみようと思うわけです。ただし、後に大先生はそれらのほとんどをお捨てになったことも事実ですので、現行合気道との兼ね合いについては各位が慎重にご判断されることを望みます。

 そういう前提で、合気道に秘められた武術性を当身技法から考察します。

 さて、従来から再三述べておりますように、『合気道は当身が七分』と言われます。それを正面から受け止めて、技の一つひとつに当身を加えて表演される方々がいらっしゃいます。一方、多くの方はあまり明確な当身動作をなさらないようで、それはそれで流れるような動きを重視しておられるのだろうと判断していますが、いずれにしろ現在の合気道界は大きくはそのふたつの流れの中にあるように思われます。

 わたしの理解はそのいずれとも若干違って、通常の合気道の動きの中に当身に直結する動作が含まれているという立場をとっています。ここでいう当身に直結する動作とは、当身そのものではなく、その前段の構えや、当身の寸前に軌道を変えてしまう動きを意味します。それはすぐにでも当身に変化しうるものですが、通常の稽古では表に出しません。そういうことがあると知ってはじめて合気道の動きの中に武術性を垣間見ることができるのであって、知らなければごく普通の素直な合気道と映るかもしれません。

 そのあたりのところをご理解いただくにあたっては実際に映像をご覧いただくのがわかりやすいと思います。材料はどんな技でもよいのですが、あえて当身とはあまり縁のないような片手取り二教裏を採りあげます。その動きの意味をご理解いただくために、まずは文章でご説明いたします。

 なお、ここでの突きや蹴りの表現は、その一つひとつが西尾昭二先生や黒岩洋志雄先生の教えにもとづくもので、合気道の体遣いは本来そのような働きを含んでいるとご説明いただいたものです。ですが、お二方が普段の稽古で常にそのように当身を出して表演しておられたわけではありません。両先生のお示しになったところをわたしが適宜技法に組み入れたものですので、あらかじめお断りしておきます。

 この、片手取り二教裏は通常、転換から小手回し、そして組み伏せての極めというふうに、主に上肢を攻める技法です。両先生はこの技を実際に遣うという前提で、動きの各部に数度の当身を忍び込ませます。それは順に次のようになります。

(便宜上、写真はすべて正面から見たものにしています)

ⅰ.最初に相手と触れる時点で喉もとへの貫手。

002_0001_3

ⅱ.そこから転換し直後に下からの左掌底打ちと、相手の蹴りを警戒しての下段ガード。こちらは四股立ち。

002_0003

ⅲ.その後、左半身となり相手の脇腹への蹴り(この場合左足)。

002_0004

ⅳ.相手の横に並び、小手まわしの極め(中段の崩し)にはいる前の顔面打ち(ストレートパンチ)。

002_0005

ⅴ.小手回しから下方に押し込んで、しゃがみこんだ相手脇腹への蹴り(この場合右足)

002_0006

ⅵ.通常、肘をつかむ手で顔面打ち(フックぎみ)。

002_0007

 以上6回、当身の機会があります。これらの動作は、大先生が修練経験をもつ天神真楊流や大東流でも、ほぼ同様の状況で技に取りいれられていますし、その他の流儀においてもごく一般的な技法です。ですが、合気道を確立するにあたり、理想を実現するための新しい時代の武道として、従来の柔術とは違うことを示す意味で大先生はあえて採用しなかったのかもしれないという推測は可能です。たまたま、わたしがご指導をいただいた両先生は、いわゆる遣える合気道を標榜しておられたので、大先生の思いは大切にしながらも、戦前は実戦武術として当身を多用されていたことを根拠に、わたしたちにその意義と用法を伝えてくださったものと考えています。

 それらを通して実行すると次の動画のようになります。比較のため前半は通常の技法で、後半は適宜ゆっくりと当身をいれています。

</object>
YouTube: 隠された当身

  さて、ここでひとつ大事なことは単に突いたり蹴ったりすることではなく、突くには突くの、蹴るなら蹴るの構えと間合いがあるということです。蹴り足が右足なのか左足なのか、あるいはまたストレートなのかフックなのか、それによって相手との距離や立ち位置が違います。それらを実現する体捌きを技のほうから求めてきます。これが今回一番のポイントで、当身なしの稽古でもそれを意識しながら体を捌いていくことが重要だということです。

 合気道では、普段の稽古であまり細かいことを言われません。そのため半身が逆だったり間合いが間違っていても往々にしてそのままやり過ごしてしまいがちです。しかし、有効な打突を放つことを意識すれば、自ずとかたちが決まってきます。以前に得物を使用する稽古について述べた折にも言いましたが、道具(今回の場合は突き蹴り)のほうから体遣いを制約し、結果として正しい体捌きを身につけることができる効用があります。

 もちろん、しっかりした突き蹴りを稽古すれば、受ける方もいい加減な対応はできませんから、全体としてレベルアップする期待もあります。いちがいに突き蹴りを厭うべきものではないと考える所以です。 

 なお、黒岩洋志雄先生の合気道理論では、一~三教はそれぞれ上段、中段、下段を、四教は地に着く、というようにタテの崩しの働きをするものとしています。そのなかの二教を、さらに奥行を表すものと教えていただきましたが、それは上記ⅳの前後の捌きがそれに当ります。


バ ッ ク ナ ン バ ー は        こ ち ら で 検 索 で き ま す

2011-06-16 17:02:59 | インポート

 バックナンバーのタイトルと一行解説をそれぞれのアドレスとともに列記しました。

   

  1≫ はじめまして        ブログ開設のご挨拶と、黒岩洋志雄先生のこと

http://agasan.no-blog.jp/hitorigoto/2007/02/02/index.html

  2≫ 赤イワシのこと       武道(武術)としての合気道について

http://agasan.no-blog.jp/hitorigoto/2007/02/10/index.html

  3≫ 強さということ        ルールのないのが武道のルール。そこでの強さとは

http://agasan.no-blog.jp/hitorigoto/2007/02/17/index.html

  4≫ わたしの昔話 その1   わたしの合気道入門のいきさつと当時の思い出話

http://agasan.no-blog.jp/hitorigoto/2007/02/22/index.html

  5≫ わたしの昔話 その2   稽古仲間のことや西尾、黒岩両先生との出会い

http://agasan.no-blog.jp/hitorigoto/2007/02/26/index.html

  6≫ 高級万年筆         合気道の技は高級万年筆のようなものだという教え

http://agasan.no-blog.jp/hitorigoto/2007/03/01/index.html

  7≫ 名前              一~四教の名称の意味

http://agasan.no-blog.jp/hitorigoto/2007/03/09/index.html

  8≫ 四方八方           四方投げの名称の意味  (附)五教の意味

http://agasan.no-blog.jp/hitorigoto/2007/03/13/index.html

  9≫ もう一つ           入り身とは何か

http://agasan.no-blog.jp/hitorigoto/2007/03/16/index.html

 10≫ 淡々と             黒岩先生とコーヒーとタバコの話

http://agasan.no-blog.jp/hitorigoto/2007/03/18/index.html

 11≫ 空間              基本の技が合気道的空間を作る話

http://agasan.no-blog.jp/hitorigoto/2007/03/26/index.html

 12≫ 大先生             黒岩先生から伺った大先生のエピソード

http://agasan.no-blog.jp/hitorigoto/2007/03/30/index.html

 13≫ 力持ち              合気道には力持ちの先生が多かったという話

http://agasan.no-blog.jp/hitorigoto/2007/04/06/index.html

 14≫ 黒岩学校           黒岩先生や内弟子の方々の話

http://agasan.no-blog.jp/hitorigoto/2007/04/13/index.html

 15≫ 《ウソ》              稽古の《虚》と《実》

http://agasan.no-blog.jp/hitorigoto/2007/04/19/index.html

 16≫ 不条理            技に潜む不条理。疑うべし

http://agasan.no-blog.jp/hitorigoto/2007/04/26/index.html

 17≫ 棒切れ            黒岩先生の棒切れ術誕生のわけ

http://agasan.no-blog.jp/hitorigoto/2007/05/02/index.html

  18≫ 大人            大人(たいじん)然とした大澤喜三郎先生のこと

http://agasan.no-blog.jp/hitorigoto/2007/05/03/index.html

 19≫ 受けは楽しい       合気道における受けの意味とその重要性

http://agasan.no-blog.jp/hitorigoto/2007/05/09/index.html

 20≫ あたりまえのこと     約束事の稽古を特殊能力と勘違いする人たち

http://agasan.no-blog.jp/hitorigoto/2007/05/16/index.html

 21≫ あたりまえじゃないこと 《気》は気のせいだという話

http://agasan.no-blog.jp/hitorigoto/2007/05/22/index.html

 22≫ 豪傑            合気道黎明期には豪傑がいたという話

http://agasan.no-blog.jp/hitorigoto/2007/05/30/index.html

 23≫ 頓と漸           形と型の区別、守破離のことなど

http://agasan.no-blog.jp/hitorigoto/2007/06/07/index.html

 24≫ 礼儀作法         現代武道家として心得べきこと

http://agasan.no-blog.jp/hitorigoto/2007/06/15/index.html

 25≫ 複眼的に         合気道で得られる心の強さについて

http://agasan.no-blog.jp/hitorigoto/2007/06/26/index.html

 26≫ 武士は喰わねど     質素で裕福な合気道家

http://agasan.no-blog.jp/hitorigoto/2007/07/02/index.html

 27≫ 演武            合気道における演武の意義と難しさ、又は、むなしさ

http://agasan.no-blog.jp/hitorigoto/2007/07/06/index.html

 28≫ 海外事情         黒岩先生の海外珍道中

http://agasan.no-blog.jp/hitorigoto/2007/07/13/index.html

 29≫ DNA            理合とはDNAであるというこじつけ、あるいは屁理屈

http://agasan.no-blog.jp/hitorigoto/2007/07/20/index.html

 30≫ こんなこと、あんなこと 黒岩先生の小ネタ集

http://agasan.no-blog.jp/hitorigoto/2007/07/27/index.html

 31≫ 方向指示器       足遣いの重要性について

http://agasan.no-blog.jp/hitorigoto/2007/08/03/index.html

 32≫ 体の要          半身なのに腰を正面に向けるとは

http://agasan.no-blog.jp/hitorigoto/2007/08/10/index.html

 33≫ 術と道          武術と武道 何が違うのか

http://agasan.no-blog.jp/hitorigoto/2007/08/19/index.html

 34≫ 道場           道場で思うこといろいろ

http://agasan.no-blog.jp/hitorigoto/2007/08/27/index.html

 35≫ 試合考          武道における試合の功罪

http://agasan.no-blog.jp/hitorigoto/2007/09/02/index.html

 36≫ トレーニング      しないよりはマシな程度の私的トレーニング論

http://agasan.no-blog.jp/hitorigoto/2007/09/09/index.html

 37≫ 工夫          稽古において頭を使うことの大切さ

http://agasan.no-blog.jp/hitorigoto/2007/09/16/index.html

 38≫ 目標          目標設定の大切さ (附)《合気道練習上の心得》

http://agasan.no-blog.jp/hitorigoto/2007/09/27/index.html

 39≫ すきま         相手とのすきま(間)を埋めていくのが合気道の技

http://agasan.no-blog.jp/hitorigoto/2007/10/04/index.html

 40≫ 指導者        教える側の心構え 反省を込めて

http://agasan.no-blog.jp/hitorigoto/2007/10/14/index.html

 41≫ 気遣い        先生が先生である所以

http://agasan.no-blog.jp/hitorigoto/2007/10/23/index.html

 42≫ 寒くなってまいりました ヤワになった言い訳と開き直りの記

http://agasan.no-blog.jp/hitorigoto/2007/10/31/index.html

 43≫ 体の移動      正面打ち一教裏と入身投げの際の体遣い

http://agasan.no-blog.jp/hitorigoto/2007/11/06/index.html

 44≫ くどいようですが  武道としての合気道のあり方

http://agasan.no-blog.jp/hitorigoto/2007/11/18/index.html

 45≫ 強さの裏に     実は合気道は必殺の武術であるということ

http://agasan.no-blog.jp/hitorigoto/2007/11/28/index.html

 46≫ 可能性       実戦空手を介して合気道の武術としての可能性を考える

http://agasan.no-blog.jp/hitorigoto/2007/12/06/index.html

 47≫ 健康法       健康法としての側面から合気道を見る

http://agasan.no-blog.jp/hitorigoto/2007/12/19/index.html

 48≫ 宗教的な      合気道の持つ宗教的雰囲気を考える

http://agasan.no-blog.jp/hitorigoto/2007/12/29/index.html

 49≫ 交流         交流の場としての道場について語る

http://agasan.no-blog.jp/hitorigoto/2008/01/09/index.html

 50≫ 冬に思うこと    寒さのせいで環境問題や武道教育に八つ当たりします

http://agasan.no-blog.jp/hitorigoto/2008/01/21/index.html

 51≫ カタ稽古      いわゆるカタ稽古の意義と課題

http://agasan.no-blog.jp/hitorigoto/2008/01/30/index.html

 52≫ 何をしたいの?  ネット上で紹介されているよそ様の動画を観ての批評

http://agasan.no-blog.jp/hitorigoto/2008/02/08/index.html

 53≫ 節目         わたしが初段と二段を修行の節目と考える理由

http://agasan.no-blog.jp/hitorigoto/2008/02/14/index.html

 54≫ 節と節の間     初段期の重要性について

http://agasan.no-blog.jp/hitorigoto/2008/02/21/index.html

 55≫ 師資相承      良き師に出会い、信じ、受け継ぐことの幸せ

http://agasan.no-blog.jp/hitorigoto/2008/02/28/index.html 

 56≫ 特別寄稿      わたしの敬愛する道友T氏よりの寄稿 思い出と現状

http://agasan.no-blog.jp/hitorigoto/2008/03/01/index.html

 57≫ 情報         武道系出版物に氾濫する不可解情報へ向けた批判

http://agasan.no-blog.jp/hitorigoto/2008/03/06/index.html

 58≫ 崩し         武技には崩しがなければならないという当たりまえの理論

http://agasan.no-blog.jp/hitorigoto/2008/03/14/index.html

 59≫ 一教         わたしの考える一教技法

http://agasan.no-blog.jp/hitorigoto/2008/03/20/index.html

 60≫ 四方投げ      わたしの考える四方投げ技法

http://agasan.no-blog.jp/hitorigoto/2008/03/30/index.html

 61≫ 先生         先生と呼べる人は 学校ではなく合気道で見つけた話

http://agasan.no-blog.jp/hitorigoto/2008/04/06/index.html

 62≫ やっぱり腰高    腰を低く保つことの理由

http://agasan.no-blog.jp/hitorigoto/2008/04/13/index.html

 63≫ 縁覚         開祖に手ずから教わったわけではない者の時代

http://agasan.no-blog.jp/hitorigoto/2008/04/20/index.html

 64≫ 動きの意味     一つの動作に複数の意味があることを知る

http://agasan.no-blog.jp/hitorigoto/2008/04/27/index.html

 65≫ 教え方        黒岩先生のエピソードと教えるときの勘所について

http://agasan.no-blog.jp/hitorigoto/2008/05/04/index.html

 66≫ 軌跡         正面打ち一教を目で追う

http://agasan.no-blog.jp/hitorigoto/2008/05/13/index.html

 67≫ それぞれの事情  競技武道の問題点と合気道の課題

http://agasan.no-blog.jp/hitorigoto/2008/05/21/index.html

 68≫ 合気道の合気   合気というものをどう認識するかという私見

http://agasan.no-blog.jp/hitorigoto/2008/05/29/index.html

 69≫ 共通と差異     合気道の動きは他のスポーツと共通するという話

http://agasan.no-blog.jp/hitorigoto/2008/06/08/index.html

 70≫ 稽古の本質①   カタの稽古とそれに続くもの

http://agasan.no-blog.jp/hitorigoto/2008/06/15/index.html

 71≫ 稽古の本質②   正面打ちの意義とカタ稽古の意味

http://agasan.no-blog.jp/hitorigoto/2008/06/23/index.html

 72≫ 遣わない      危急の場合 武道家はどうすべきか

http://agasan.no-blog.jp/hitorigoto/2008/07/02/index.html

 73≫ ストリート・ファイト プロレスラーの騒動と空手家の騒動

http://agasan.no-blog.jp/hitorigoto/2008/07/11/index.html

 74≫ 攻防一味      攻撃と防御は同じことの裏表であるということ

http://agasan.no-blog.jp/hitorigoto/2008/07/22/index.html

 75≫ だれでもできる   誰でもできる稽古法が良い稽古法

http://agasan.no-blog.jp/hitorigoto/2008/08/03/index.html

 76≫ レベルアップ    上達するとはどういうことか

http://agasan.no-blog.jp/hitorigoto/2008/08/13/index.html

 77≫ 特別寄稿その2  道友T氏からの寄稿

http://agasan.no-blog.jp/hitorigoto/2008/08/15/index.html

 78≫ 対話の端緒     特別寄稿その2を読んでのわたしの感想 師弟論など

http://agasan.no-blog.jp/hitorigoto/2008/08/25/index.html

 79≫ 精神性        武道が目指す精神性とは何か

http://agasan.no-blog.jp/hitorigoto/2008/09/04/index.html

 80≫ 身体能力      身体能力は稽古の前提ではなく結果だということ

http://agasan.no-blog.jp/hitorigoto/2008/09/12/index.html

 81≫ 思考能力      しっかりした身体能力の上にたって考えることの大事さ

http://agasan.no-blog.jp/hitorigoto/2008/09/21/index.html

 82≫ 三教など      二、三、四教についての私見的技法論

http://agasan.no-blog.jp/hitorigoto/2008/09/30/index.html

 83≫ 力(ちから)    合気道では『力』をどうとらえるべきかということ

http://agasan.no-blog.jp/hitorigoto/2008/10/15/index.html

 84≫ 返し技       返し技を稽古することの功罪

http://agasan.no-blog.jp/hitorigoto/2008/10/27/index.ht

 85≫ 腕遣い      黒岩式腕遣いの紹介

http://agasan.no-blog.jp/hitorigoto/2008/11/11/index.html

 86≫ 転換       わかったようでわかっていない転換

http://agasan.no-blog.jp/hitorigoto/2008/11/24/index.html

 特別編集       ≪ 黒岩洋志雄先生の合気道 ≫ 

              立教大学合気道会報に掲載された1983年のインタビュー記事

http://agasan.no-blog.jp/hitorigoto/2008/12/01/index.html

 87≫ 矜持       武道家としての心の持ちよう。あるいは人間として。

http://agasan.no-blog.jp/hitorigoto/2008/12/16/index.html

 88≫ J様、修行者様、そして皆様へ    

              特別編集≪黒岩先生の合気道≫をご覧いただいてのコメントや

              質問への返答

http://agasan.no-blog.jp/hitorigoto/2008/12/21/index.html

 89≫ 武道の愛    『当たり前』の積み重ねから生まれる開祖の愛

http://agasan.no-blog.jp/hitorigoto/2009/01/06/index.html

 90≫ 天地投げ     私見 天地投げ技法

http://agasan.no-blog.jp/hitorigoto/2009/01/21/index.html

 91≫ 特別寄稿 その3   道友T氏からの寄稿

http://agasan.no-blog.jp/hitorigoto/2009/01/26/index.html

 92≫ 入り身投げ    私見 入身投げ技法

http://agasan.no-blog.jp/hitorigoto/2009/01/30/index.html

 93≫ 小手返し       私見 小手返し技法

http://agasan.no-blog.jp/hitorigoto/2009/02/11/index.html

 94≫ 武道と人格教育   武道が望ましい人格形成に寄与するための条件

http://agasan.no-blog.jp/hitorigoto/2009/02/23/index.html

 95≫ 教える人と教わる人   教える側の課題、教わる側の課題

http://agasan.no-blog.jp/hitorigoto/2009/03/05/index.html

 96≫ 腰投げ         黒岩洋志雄先生の腰投げ

http://agasan.no-blog.jp/hitorigoto/2009/03/13/index.html

 97≫ 進化論から見た武道  人為的なものとは異なる『善』があるということ

http://agasan.no-blog.jp/hitorigoto/2009/03/27/index.html

 98≫ 間合い その1     西尾昭二先生の足遣いを例に

http://agasan.no-blog.jp/hitorigoto/2009/04/09/index.html

 99≫ 間合い その2     横面打ちで求められる間合い

http://agasan.no-blog.jp/hitorigoto/2009/04/27/index.html

100≫ 第1ケルン      ブログ100回。節目のひとりごと。(附)転換の足遣い

http://agasan.no-blog.jp/hitorigoto/2009/05/05/index.html

101≫ 第2ケルン 合気道誕生まで   開祖が合気道を開くに至った時代背景

http://agasan.no-blog.jp/hitorigoto/2009/05/19/index.html

102≫ 第3ケルン 技法の核心     わたしたちはそこから何をつかみ取るべきか

http://agasan.no-blog.jp/hitorigoto/2009/06/02/index.html

103≫ 第4ケルン これから       標準型技法と個性型技法

http://agasan.no-blog.jp/hitorigoto/2009/06/16/index.html

104≫ 心のエネルギー     すなわち感性や知性が武道を支えるということ

http://agasan.no-blog.jp/hitorigoto/2009/06/30/index.html

105≫ 剣の理合と言うけれど  剣を振り回せばわかるというものではない

http://agasan.no-blog.jp/hitorigoto/2009/07/14/index.html

106≫ 再現性           合気道が科学的、合理的であることの必要条件

http://agasan.no-blog.jp/hitorigoto/2009/07/28/index.html

107≫ 上達の勘所        動きの意味を知るということ

http://agasan.no-blog.jp/hitorigoto/2009/08/14/index.html

108≫ 不調和対処法      約束通り動かない人にどう対応するか

http://agasan.no-blog.jp/hitorigoto/2009/08/28/index.html

109≫ パンタグラフ式足構え  有効な体遣いを支える足遣い


155≫ 想像と創造

2011-06-12 14:55:51 | インポート

 合気道の母体は柔術であると言われます。たしかに、開祖(大先生)は伝統武術、とりわけ各流の柔術を修められ、その上に成立したのが合気道ですから、それを柔術の枠組みでとらえるのは必ずしも間違いとはいえません。

 それでは大先生はなぜ『植芝流柔術』といったような名称にしなかったのでしょうか(一時期植芝流と称したことがあったとも聞きますが)。合気という表現については大本の出口王仁三郎師の教示によるものだとか、もともと剣術用語であるとか、すでに大東流にその名称があったとか、いろいろ言われます。しかし、今ここで問題にしたいのはそのような歴史的経緯ではありません。名は体を表すというなら、合気道が従来の柔術と袂を分かち、新たな武道として現出されなければならなかった理由、つまり柔術と根本的に異なる点は何かということです。

 そこをはっきりさせないと、次回以降のブログで提示しようと考えている合気道に隠された当身技法など単なる柔術への先祖がえりではないかと捉えられてもしかたありません。事実、当てや蹴りなどは、柔術各流派においてはごく当たり前のように取り入れられ演じられています。とりわけ、わたしの住まいする東北地方には、柳生心眼流や諸賞流といった、打ち、突き、蹴り、体当たりなど、強力な当身を特徴とする流派が今も真剣に稽古され、栄えある道統を守っておられます。

 その柳生心眼流(大先生ご自身は柳生流柔術とおっしゃっています)の修行の成果かどうかはわかりませんが、合気道では当身が七割と言われています。しかし現在の稽古では質、量ともに、それほど明確に表現されることはないように見えます。まして蹴りなどは大先生が好まれなかった(汚らわしいとおっしゃっておられたとか)ということもあり技法の中にはまったく見当たりません。このような、言葉と実態とのギャップはどこからくるのでしょうか。案外その辺に合気道が柔術から生まれながら、その枠を越えざるを得ない理由があるかもしれません。

 戦前、大先生が憲兵学校で武術指導をしておられたころ、木刀や木銃を手にした30人ほどの兵に不意にかかってこられたことがあったそうです。大先生の実力を試そうということらしいのですが、それを『ヒラリヒラリと体をかわし、チョイチョイと突くとコロコロ転がってしまう』といった按配に捌いてしまわれたことを自ら語っておられます。【出典:合気道-光和堂】

 これなどは見事に当身で処理してしまった例ですが、他にも怪力で(ご本人は理にかなった力だとおっしゃっていますが)まわりの人を驚かせた話などがよく知られています。それとは別に、大男を押さえ込んでしまった話や投げ飛ばした話などもあるにはあるのですが、なかなか現在の合気道技法と結びつきません。

 それが戦後は一転して当身技法は影をひそめ、本来は終末動作である抑え、投げとその前段の関節技など、精緻な技法を誇る武道として認知されることとなりました。その変容には大きくふたつの理由があるとわたしは思います。

 第一はなんといっても、大先生の思想の深化に伴うものでありましょう。ただ、思想といっても単に思考の積み重ねだけではなく多分に感性に基づくものです。この辺の消息を大先生は『勝とうと思ってはいけない。武道は愛の構えでなければいけない、愛に生きなければいけない、と悟りましたが、これが合気道で、むかしの正眼の構えです』とおっしゃっています。大変わかりにくい言葉(表現は簡単ですが因果関係が示されない)ですが、ここで明らかに従来の武道思想(勝つために、あるいは負けないために心技体を鍛える)とは一線を画しておられます。

 二つめの理由は、戦後、技法を現在のように体系化したのが、当時本部道場長であり後に二代道主となられる吉祥丸先生であったということでしょう。先生は、幼少の頃から武道鍛錬をされたといっても、大学を出られて民間企業で働いたことのある、いうなれば一般人の感覚を持った方です。そのような背景の方が掌中の武道を世に知らしめようとするとき、戦後の平和主義や教育的観点を考慮しないわけにはいかないでしょう。おかげで、いわゆる伝統武術に立脚しながら、合気道は愛好者数においてはそれらと比較にならないほどの発展を見ました。この点については、柔道が当身や関節技に制限を加えたり、剣道は剣術とは別のシナイ競技であると自称したのも同様です。

 わたしたちは今、それを良しとして修練に励んでいるわけです。したがって、合気道にはあれがない、これがない、ここが理にかなわない、そこが不足だ、などと言うべきではないのかもしれません。しかし、以前にも申しましたように、わたしは合気道の真理に到達するためには大先生のたどった道を追体験する必要があると考えています。もちろん不世出の武道家とまったく同じことをしようなどと大それたことは夢想だにしていませんが、日常の稽古に可能な限りの想像力を加えて、埋没した地層(合気道成立の隠された経緯)に日を当てることは可能だと思っています。  

 合気道は愛と和合の武道なのだから、今のままでよいではないか。古くさいことをほじくり返すのはもう止めよ、と大先生はおっしゃるかもしれません。しかしまた、大先生亡き後の合気道は新たな発展途上にあるとも考えていますので、合気道の本質から離れないことを条件に、創造を加えることも試してみる価値があるのではないかとも思います。

 次回以降にはそのような試技的解釈も含めた技法論と技法の展示をすることにも挑戦してみたいと思います。

 想像と創造、この言葉遊びみたいなことが許されるのも合気道の美点でしょう。その価値を判断するのは現在と未来の合気道家で、いずれ適切に取捨選択なされるものと信じています。