合気道ひとりごと

合気道に関するあれこれを勝手に書き連ねています。
ご覧になってのご意見をお待ちしています。

210≫ 技法考察① 正面打ち

2013-06-26 14:14:20 | インポート

 前回、技は変わってよいのだと申しました。では、どう変わってよいのか、それは社会の要請によるのです。合気道には合気道なりの思想、理念がありますが、その枠のなかで許される範囲において技は変わってよい、とわたしは考えています。もちろん変えてはいけないものはしっかり守るという条件付きですが。現代武道とはそういうものではないでしょうか。

 いや、古流といわれる伝統武術でもそうだったのです(古流だってできたばかりのころは新興武術だったのですから)。流派内における技法革新もあれば分派や新流派の創設という形の革新もありました。それには背景となる社会の変化があったはずです。

 さて、そのような視点からわが合気道の技法の意味を探っていきたいと思います。まず初回は正面打ちです。

 社会背景とか社会の要請ということを考えた場合、現代においてはこの正面打ちという掛かり(攻撃法)が最も説明のしにくい技法ではないでしょうか。原型は刀による真っ向斬りからきたものでしょう。握り拳を鉄槌のようにして頭を打っていく方法が無くはありませんが、合気道の中核技法としての掛かりとはなりにくいでしょう。

 事実、大先生ご自身が『いまどきこんなふうに打ちかかってくるやつはいない』そのようにおっしゃったと黒岩洋志雄先生にお聞きしたことがあります。このことは以前にも記したことがありますが、今回のテーマに重要な示唆を与えるものですので再述いたします。

 大先生がそのようにおっしゃった後、『いまならこうだ』として見せてくださったのが、ほとんどボクシングのストレートパンチのような腕遣いだったということです。そして『正面打ち一教の表はできない。できるのは裏。どうしても表をやりたいなら自分から打っていくようにするのだ』と教えてくださったとお聞きしました。

 大先生も時代性というものを気にかけておられたことがこれでおわかりいただけるのではないでしょうか。ですから、ある特定の技法が確固不変で唯一のものだという考えに囚われるのは益がないと思うのです。

 さてそれでは、大先生公認の時代錯誤的な正面打ちがいまだに稽古における中核技法となっているのはなぜでしょう。

 もちろん伝統を守るということはあるでしょう。しかし、わたしはそれ以上に、受けによる正面打ちの動作そのものが、取りに対する便宜供与であると考えています。正面打ちはまず振りかぶらなければなりません。振りかぶり自体は攻撃の準備動作であり攻撃そのものではありません。ですからこのとき、取りは自分のための間合い(主に距離・方角とタイミング)を作ることができるのです。要するに、受けはわざわざスキをこしらえて取りが自分優位の位置取りをする手助けをするわけです。

 一教表などのように相手のふところに飛び込む(相手正面へ入身する)ことは、とても重要で、なおかつ本来とても危険な動作です。でも、合気道の稽古では受けがちゃんと正面を空けてくれるし、余計な攻撃や防御姿勢をとらないことを約束しています。ですから、それを利用して困難で危険な技法でも練習できるのです。これで上手くならなかったら受けをとってくれる人に申し訳ないですよ。

 合気道のほとんどの技法は入身を伴うものです。ですから、相手との間境を越えてふところに飛び込む入身は合気道の必須技法といえます。というか、合気道は入身を身につけるための方法論ではないかとさえ思えるのです。正面打ちなどはその目的のためにとても考え抜かれた方法であるといえます。

 そこのところに気づかないと、なんで今どき正面打ちなんだ?という疑問が百年たっても解けることはないでしょう。

 合気道は変わってよいのだという話から始まって、逆に、変えなくてよい技法があるのだという結論になりました。それだけ奥が深いということですね。


209≫ 四字熟語

2013-06-11 19:10:10 | インポート

 ちょっと気になった四字熟語から、合気道のあるべき姿を考えてみたいと思います。

 ≪神武不殺≫という言葉があります。出処は中国の古典(易経)のようですが、日本では原典の意味にとらわれず、武道は神聖にして人を育むものであるというような意味合いで使われてきたようです。そうしたことから、日本武術では敵の命を奪うことが可能な局面でも、あえてそうしないで生け捕るための技術が工夫展開されてきました。

 このような日本的メンタリティーの存在は、かつて流儀によっては捕り手といわれた柔術系武術はもちろんですが、触れれば斬れる剣術においても、柳生新陰流の無刀取りに代表されるように極力人を殺めることなく事を済ますという考え方があることからも明らかです。日本文化の優れた点であると思いますし、それこそが日本人の本質ではないかとも思います。そのような伝統があるからこそ〇〇術が〇〇道と呼び名が変わることに違和感がなかったのでしょう。合気道が愛と和合を説くのもその線上にあるといって差し支えないでしょう。

 しかし、斬ってしまえば済むものを斬らないで取り押さえる、ドンと打ち倒してしまえばいいものをそうしないで組み伏せる、そのためには斬ったり打ったりすることの何倍もの技量が求められます。合気道はその最たるものです。二教や三教を考えてみればすぐわかります。せっかく掴んだ相手の手首をわざわざ一旦はずして捻ったり回したり持ち替えたりして掴みなおすことの面倒くささは、新米のころに限らず今だって十分に閉口しております。

 もっとも、そんな思いがあるからこそ新しく入門してきた人の戸惑いに共感できるわけで、それもまた現代において武道に関わることによって得られる徳というものでしょう。こんな面倒くさい武道を趣味として選択してくれた人たちに感謝しております。

 いずれにしろ、神武不殺を実現するためには高い技量と精神が必要だということがわかりますが、そのことは単に稽古の場だけではなく、日常の生活にこそ生かされなければ値打ちがありません。つまりこれもまた現代における武道修行の意義といえます。

 ですが、本音を言えば、神武不殺などというレベルとはかけはなれた下世話なことで恐縮ですが、だれとでも仲良くやっていくには、じつは日常生活上の高い技量と精神が必要だということでもあるのですよ。合気道と同じく、言うほど簡単じゃないのですよね。

 次は≪不易流行≫です。いつまでも変わらないものと時に応じて変化するものという意味で、その両面をあわせ持つところに芭蕉俳句の本質があるのだそうですが、色即是空空即是色みたいで、素人にすぐわかるようなものではなさそうです。

 ただ、護持と変化という意味に単純化すれば、これは合気道のあり方にも当てはまります。

 合気道で護持すべきものは何か、あくまでも私見ですが、それは開祖発するところの理念でありましょう。この場合の理念とは、合気道の存在意義というようなものです。愛と和合でもいいでしょうし、それこそ神武不殺といってもいいでしょう。

 では流行は、わたしは各種具体的技法こそがこれにあたると思います。技は変わってよいということです。これは大いに異論のあるところでしょうが、人間のやることである以上、そもそも多かれ少なかれ異同があるのが当たりまえです。またその人間は社会的存在ですから、その行為に社会的要請が反映されるのも当然です。そうでなければ、ということは反社会的あるいは非社会的な行為とみなされれば存在自体が許されません。

 したがって、いかにかたくなに技法を護ろうとしても、もしそれが社会の要請に合致しないときは廃れるしかないのです。大先生の場合も、戦前と戦後では技法が大きく変わりました。

 わたしたちはそこから何を学べばよいでしょうか。それは大先生の心の柔軟さではないかとわたしは思います。合気道を確立したその当事者にして、やみくもに頑固を通すのではなく、発展的に変化させていくことに勇気をもって当たられたということでしょう。

 ですから、ある時代の一技法のみを取りあげて『これが大先生の技で、他は間違いだ』なんてのは、いかがなもんでしょうねぇ。