合気道ひとりごと

合気道に関するあれこれを勝手に書き連ねています。
ご覧になってのご意見をお待ちしています。

84≫ 返し技 

2008-10-27 12:24:54 | インポート

 合気道では、返し技の稽古はあまりやらないと思いますが、技法そのものがないわけではありません。どんな技であれ、いったん人目に触れれば、それへの対応技法は即座に研究されるのがあたりまえですから、全ての技に返し技はあるといってよいでしょう。だいぶ以前に斉藤守弘先生や砂泊諴秀先生などの著作でいくつか紹介されていたと思いますが、通常の稽古でそれほど採用されているとはいえません。なぜでしょうか。両先生のどちらの組織も合気会を離れたから、というわけでもないでしょう。

 それには大きく二つの理由があると思います。ひとつには、合気道そのものの性格、ふたつには合気道の稽古の目的です。

 まず一つ目、《性格》について考えてみます。合気道は原則として自分からは攻めていきません(本質的にはそうとは限りませんが、あくまで原則論です)。相手の攻撃に対応するというかたちをとります。であるとすると、合気道の通常の技そのものが返し技であるということになります。詭弁のように聞こえるかもしれませんが、そういう認識が考察の出発点になければなりません。もちろん返し技へのさらなる返し技というものもあり得るわけですが、これはもう際限がなくなって考察の目的から遠ざかってしまいます。まず自分のやっていることの中身をしっかり把握することが大事であり、それはとりもなおさず合気道という武道の性格を理解することに他なりません。

 二つ目の《稽古の目的》です。合気道技法の基本は武術的には無手捕り技法であると同時に必殺技法でもあります。しかし、わたしたちの普段の稽古は、そのようなことを目的としていませんし、実際にできるかどうかも保証の限りではありません。稽古の目的は(精神的鍛錬を別にすれば)、武道的な体作りと体遣いの養成、つまり錬体法です。格闘法ならそれへの対抗策(返し技)というものがあってもよいでしょうが、錬体法に返し技などあるはずもありません。合気道においてはそのような事情のもとに返し技があまり顧みられないということが考えられます。

 一方、その他の実戦を前提とした武術においては、返し技というものは本来おおっぴらに公開されるべきものではありません。なぜならば、それはつまり自分の手の内を明かすことであり、部外に知られてはいけないものだからです。

 しかし、現代式の試合のある武道では返し方を研究するのはあたりまえのことで、柔道のすかし技などは、うまく決まれば単なる返し技のレベルを越えて芸術的でさえあります。

 そのように、それぞれの武道の置かれた状況により、返し技の受け止め方も違ってきます。

 ところで、合気道のように決められた動きを反復稽古するような武道においては、返し技というのは、じつに悩ましいものです。返されるということは、これまで一所懸命稽古を重ねて練り上げてきた技の有効性を否定されることでもあり、自己矛盾をはらんでしまいます。それを了解した上で稽古するにしても、便宜上、相手からの攻めや崩しを中途半端にしてくれるよう頼まなければならないので、あまり相手方の稽古にはならないことも困ります。

 一般論として、技を返されるということは、その技に不都合な部分があるからだといえます。それがもともと技に内在する弱点なのか、自分の技量未熟によるものなのかを見極めて、改善することもまた修行のうちでありましょう。

 技に内在する弱点(例えば、入り身投げで無造作に相手の顎に腕をかければ一本背負いで返される危険性があったり、三教や内回転投げなどで相手の腋の下を潜るときにラリアット風の攻撃を受けやすい、など様々)は、それを知っているかいないかで危機回避の確率が違ってきます。

 技量未熟については鍛錬あるのみですが、その場合は、取りがよろしくない動きをした時に、ダメな理由を説明する手段として『ほら、こんなふうに返されるでしょ』といった具合に返し技をやって見せることはあってよいと思います。

 最後に、本質的なことをいうと、返し技というものは、いわゆる正統な教伝ではありません。各武道の長い実戦(試合も含めて)の歴史の中で、個々の修行者によって工夫された別伝です。ですから、どうしたって稽古の中心を占めるようなものではないのですが、本伝とともに武道文化の奥深さを表すものではあります。この視点に立てば、単なる技法というだけではなく、それが編み出された経緯に秘められた人間模様が垣間見えて、また違う捉え方ができるかもしれませんし、新しい工夫が生まれる余地もあります。

 それにしても、扱いの難しいのが返し技であることは間違いありません。 


83≫ 力(ちから)

2008-10-15 13:21:58 | インポート

 合気道は相手の力を利用するから非力な女性にも人気がある、なんてトンチンカンな紹介をしている文章に時々お目にかかります。それはたぶん合気道をよく知らない人が書いているのだろうと思いますが、そのように教えた専門家がいるということでもあります。その方には、相手の力を利用するとはどういうことか、そしてそれが言うほど簡単なものなのか、是非教えていただきたいものです。お山の大将が、言うことをきく弟子にばかり通用する自己都合的合気道なんぞをやっているから、そんなふうに思ってしまうのでしょう。

 逆に、技の不出来を力でカバーしようとする人もまた多いように見受けられます。たしかに力は多くの問題を解決しますから、武道において(一般のスポーツも)力は魅力(魔力と言ってもよい)であり、人によっては信仰に近いものさえあります。

 皮肉はそのくらいにして、合気道(だけではありませんが)で必要とされる《力》とはどういうものか、ここから話を始めたいと思います。以前にも書いたことですが、合気道では、力は入れるものではない、力は出すものだ、と教えられました。これはまことに的を射ている言葉だと思います。

 腕力を例にとると、力を入れるとは、筋肉が単にリキんでいる(主働筋と拮抗筋、つまり上腕二頭筋と三頭筋のような表と裏の筋肉が自己の内部でバランスがとれている)だけで、相手にその力が伝わらない状態のことです。ちょうどボディビルダーがポーズをとっている時がそんな状態です。

 力を出すとはこちらの力が相手によく伝わるということに他ならず、そのためには、働くべき筋肉と遊んでいてもいい筋肉を使い分けなければなりません。

 ところで、腕の力だけでは押し切れないような大きくて重い物を動かそうとするとき、誰でも、腕をまっすぐにしたり肩を当てたりして足で地面を蹴って押します。そのように、伸ばした状態の腕を通じて足腰の力を相手に伝えることは可能ですが、実際問題として合気道において技を施す時に腕が伸びていることはあまりありませんし、総じて腕が伸びることは好ましくありません(肘逆などを警戒して)。それで現実的には、肘を適当に曲げたまま、その角度を保って体移動(すなわち足腰の力)で押すケースが多いと思います。肘を曲げたままで力を伝えるのは大変ではないかと思われるかもしれません。しかし、腕立て伏せで、肘を少し曲げ途中で止めておくと、段々疲れてきて肘を伸ばすのが難しくなりますが、そのままホールドすることはある程度可能です。そのように、肘を伸ばすことで押すよりも、曲げたまま体移動で押すほうが力は伝わります。

 ところが合気道の稽古では、何十㎏も体重のある人を手先で動かそうとしていることが多いのではないでしょうか。実際、稽古ではそれで受けが動いてしまうから話がややこしくなるのです。これは双方たいへんな心得違いというべきで、取りはきちんと力を相手に伝える工夫をすべきですし、受けは、相手の力を感じ取ったら動けばよいのであって、変にリキむことはありませんが、必要以上にサービスして簡単に動いてあげることは慎むべきです(なれあいと言われる所以です)。

 そのように、体移動の運動量を腕を介して伝達することで技になるわけですが、最後のところでどうしても握力だけは他の筋肉に頼るわけにいきません。四方投げはもちろん一~四教でも入り身投げでもそうですが、やはりある程度の握力をつけておかないと技が成り立ちません。武道として取り組もうとすると、非力な方や女性の方にはここが一番のネックになるところです。その場合、そういう方はより一層正しい体捌きを身に付けることを優先させたほうが良いと思います。体捌きは的確な間合いと相手の崩れを生み出すためのものですが、それができていれば敢えて握力に頼らない武道というものもあり得ると思います。乱暴な言い方を許していただければ、捨てる技があってもいいのではないか、ということです。これは、その技を稽古しなくていいということではありません。稽古での体を錬る手段にはするが、それを自分の技(財産)としなくてもいいということです。個人の資質によって、得意とするものやそうでないものがあるのは仕方のないことで、技の意義を十分わかった上で取捨選択するのは認められるべきであろうと思います。

 さて、こうしてみると、利用すべきは相手の力などではなく自分の力です。しかもそれでさえうまく使うことはなかなか難しいものです。

 大きな力は体移動から生まれる、それならば相手の力を利用するとは相手の動きを読み、崩しにつなげていくことだ、ということならばそれはそれで正しいでしょう。正しいのですが、実はこれが最も難しいことなのです。名人と言われた柔道の三船久蔵十段の空気投げが良い例です。投げられたほうが空気に投げられたような気がするということから空気投げと称したようですが(それでも握力は必要です)、その技を引き継いだ方がいるかどうかは寡聞にして存じません。要するに難しいのです。

 空気投げは演武会でよく見るわたしたちの呼吸投げの親戚みたいな技ですが、これらは力技の対極にあるように見えながら、実はこれこそが力(自分の力と相手の力)を統合した技であって、生涯をかけて追求するに値する技法といえます。