合気道では、返し技の稽古はあまりやらないと思いますが、技法そのものがないわけではありません。どんな技であれ、いったん人目に触れれば、それへの対応技法は即座に研究されるのがあたりまえですから、全ての技に返し技はあるといってよいでしょう。だいぶ以前に斉藤守弘先生や砂泊諴秀先生などの著作でいくつか紹介されていたと思いますが、通常の稽古でそれほど採用されているとはいえません。なぜでしょうか。両先生のどちらの組織も合気会を離れたから、というわけでもないでしょう。
それには大きく二つの理由があると思います。ひとつには、合気道そのものの性格、ふたつには合気道の稽古の目的です。
まず一つ目、《性格》について考えてみます。合気道は原則として自分からは攻めていきません(本質的にはそうとは限りませんが、あくまで原則論です)。相手の攻撃に対応するというかたちをとります。であるとすると、合気道の通常の技そのものが返し技であるということになります。詭弁のように聞こえるかもしれませんが、そういう認識が考察の出発点になければなりません。もちろん返し技へのさらなる返し技というものもあり得るわけですが、これはもう際限がなくなって考察の目的から遠ざかってしまいます。まず自分のやっていることの中身をしっかり把握することが大事であり、それはとりもなおさず合気道という武道の性格を理解することに他なりません。
二つ目の《稽古の目的》です。合気道技法の基本は武術的には無手捕り技法であると同時に必殺技法でもあります。しかし、わたしたちの普段の稽古は、そのようなことを目的としていませんし、実際にできるかどうかも保証の限りではありません。稽古の目的は(精神的鍛錬を別にすれば)、武道的な体作りと体遣いの養成、つまり錬体法です。格闘法ならそれへの対抗策(返し技)というものがあってもよいでしょうが、錬体法に返し技などあるはずもありません。合気道においてはそのような事情のもとに返し技があまり顧みられないということが考えられます。
一方、その他の実戦を前提とした武術においては、返し技というものは本来おおっぴらに公開されるべきものではありません。なぜならば、それはつまり自分の手の内を明かすことであり、部外に知られてはいけないものだからです。
しかし、現代式の試合のある武道では返し方を研究するのはあたりまえのことで、柔道のすかし技などは、うまく決まれば単なる返し技のレベルを越えて芸術的でさえあります。
そのように、それぞれの武道の置かれた状況により、返し技の受け止め方も違ってきます。
ところで、合気道のように決められた動きを反復稽古するような武道においては、返し技というのは、じつに悩ましいものです。返されるということは、これまで一所懸命稽古を重ねて練り上げてきた技の有効性を否定されることでもあり、自己矛盾をはらんでしまいます。それを了解した上で稽古するにしても、便宜上、相手からの攻めや崩しを中途半端にしてくれるよう頼まなければならないので、あまり相手方の稽古にはならないことも困ります。
一般論として、技を返されるということは、その技に不都合な部分があるからだといえます。それがもともと技に内在する弱点なのか、自分の技量未熟によるものなのかを見極めて、改善することもまた修行のうちでありましょう。
技に内在する弱点(例えば、入り身投げで無造作に相手の顎に腕をかければ一本背負いで返される危険性があったり、三教や内回転投げなどで相手の腋の下を潜るときにラリアット風の攻撃を受けやすい、など様々)は、それを知っているかいないかで危機回避の確率が違ってきます。
技量未熟については鍛錬あるのみですが、その場合は、取りがよろしくない動きをした時に、ダメな理由を説明する手段として『ほら、こんなふうに返されるでしょ』といった具合に返し技をやって見せることはあってよいと思います。
最後に、本質的なことをいうと、返し技というものは、いわゆる正統な教伝ではありません。各武道の長い実戦(試合も含めて)の歴史の中で、個々の修行者によって工夫された別伝です。ですから、どうしたって稽古の中心を占めるようなものではないのですが、本伝とともに武道文化の奥深さを表すものではあります。この視点に立てば、単なる技法というだけではなく、それが編み出された経緯に秘められた人間模様が垣間見えて、また違う捉え方ができるかもしれませんし、新しい工夫が生まれる余地もあります。
それにしても、扱いの難しいのが返し技であることは間違いありません。