合気道ひとりごと

合気道に関するあれこれを勝手に書き連ねています。
ご覧になってのご意見をお待ちしています。

305≫ 気づかぬうちに

2016-09-23 16:17:57 | 日記
 真理は意外なところに顔を出していることがあります。

 このブログの今後の方向性、つまりはわたし自身のこれからの合気道への取り組み方について、ここしばらく考えてきました。いろいろな選択肢があって迷っていたところでしたが、ひょんなことから進むべき方向が明らかになりました。

 芸術の世界で顕著な業績をあげた人に贈られる高松宮殿下記念世界文化賞というのがあります。今年度の音楽の分野ではラトビア出身のバイオリニスト、ギドン・クレーメル氏が受賞し、彼を紹介するテレビ番組がありました。音楽家が音楽を愛するのは当然のことですが、彼はそれが行き過ぎて自由や自律性を害することなどを戒め『音楽の奴隷になってはいけない』ということを言っていました。

 それをわたしたちに置き換えれば、わたしたちは合気道の奴隷になってはいけない、ということになります。『わたしたち』と言ったらあるいは多くの方には迷惑で、厳密には『わたし』に限定すべきかもしれません。そうなのです、わたしはだいぶ狭隘な窪地に迷い込みながらそれに気づかず、限られた視野の中で合気道を理解しようとしていたようです。合気道に仕えることに意を傾けるあまり、すっかり自分の主体性を見失っていた、すなわち合気道の奴隷に成り下がっていたのです。合気道に限らず、何事も主体と客体を取り違えてはいけない、あくまでも主人公は自分自身である、そんな当たり前のことを失念していたようです。

 思い返せば、黒岩洋志雄先生は『技のひとつひとつを有り難がってはいけないんですよ』とおっしゃっていました。その意味は、ひとつひとつの技にとらわれず、それらに共通する理合いに気づかなければいけないということでしょうが、一般的には技のひとつひとつこそが合気道を証明すると考えられていることを思えば、先生の言葉は合気道を有り難がってはいけないというのと同義語です。ずいぶん大胆な言葉だなと思っていましたが、それはつまり主体というか主人公は合気道それ自体ではなく、合気道をするその人自身であるということなのだと、あらためて気がつきました。うかつでした。

 さて、そうであれば、何を選択しどう評価するかは自分で自由に判断すれば良いということになります。そこで得られた価値観は自分にとっての絶対であり他と比べる必要はない、そういうことです。

 合気道の奴隷になれば自分で考えたり責任をとったりする必要がないので、考えようによってはこんな楽なことはありません。でもそれだと自分は主人公ではありえません。しかしそれを選択するのも自由です。どちらを選ぶか、それだけはみんなに公平に与えられた権利です。

 いまは取りあえずこのあたりまでたどり着きました。進むべき道は、たぶんこれまでとそんなに違わないと思います。しかし、これからは主人公として歩む、奴隷であることに気づかないようなうっかり者ではない、このことをまずは感じ取っているところです。

304≫ 単純な疑問

2016-09-10 16:16:19 | 日記
 前回からずいぶん間があきました。このブログの今後の方向性について考えていましたが、いまだに結論は出ていません。その間、N氏から頂いたコメントで、要は最大公約数的な考えや示唆はいらない、独自の理論にこそ値打ちがあるというご意見に接し、いささか意を強くしています(ちょっと都合よく受け取り過ぎかな)。それを踏まえ、今回はいま思っていることを率直に述べてみようと思います。

 さて、合気道を始めたきっかけは何だったのでしょう。これはわたしが多くの合気道愛好者に聞いてみたいことのひとつです。わたしの場合はケンカに強くなりたかったから、と実に馬鹿っぽくて単純な理由です。もっとも合気道がケンカに強くなるためのベストチョイスであるかどうかは一考を要します。ちなみに黒岩洋志雄先生は、殴って相手の顔に跡が残ると警察ざたになったときに言い訳できないので、そうならないで済む方法を求めて合気道を始めたそうです。まあ、師弟共々ろくでもない理由ではありますが、かつてはそういう若者が多かったのではないかと思います。

 そのようなひと昔前の好戦的若者は脇に置いておくとして、現代において一般的には、健康のために体を動かしたい、精神修養に役立つかもしれない、同好の士との協同活動が楽しい、等々、他の多くの趣味的スポーツとあまり変わらない目的で始める人が多いのではないでしょうか。終わった後の一杯目のビールが美味いというのもあるかもしれませんが、それはまあ一義的な目的ではありませんよ。

 合気道を始めたきっかけとして基本的にはそれでまったく構わないのですが、それでも選択の対象がなぜ合気道なのかという疑問は残ります。世の中にはとっかかりから合気道よりも楽しくて面白いスポーツや娯楽がいくらでもあるからです。一通り覚えるまで時間がかかるし、技をかけられれば痛いし、試合がないから努力の成果を客観的に表す手段がないし、一つ間違えば自己満足に陥るような武道です。それでも多くの愛好者がいるのも事実です。いったい何が魅力なのでしょうか。わたしの想像力は上に述べた程度のものなので、だからみんなに聞いてみたいと思うのです。

 前回のタイトル『使い物になるか』ならないか、これは黒岩合気道を考える上で重要なコンセプトです。コンセプトというのは重要に決まっていますのでこれは過剰な表現ですが、コンセプトを感じ取れない合気道も多いので、あえてそう言います。コンセプトを感じ取れないとは、動きを見てもその動きの意味や目的を理解できないということです(こちらの理解能力不足があるかもしれませんが)。ただ漫然と、昔からそうやっているから、というふうな、ある意味幸せな合気道です。

 人は時として無目的で意味のわからない行動をとる場合があります。たとえば急に大声で叫びたくなったり駆け出したくなったり、駅のホームで傘でゴルフスィングをしたくなったり(あ、これは違いますね)。しかし、無目的といっても、それは本人が気づいていないだけで、体なり心なりが無意識的に何か(ストレス発散だとか)を求めているのかもしれません。

 ここで言いたいことは、無目的のように見えることでも陰に何らかの目的、意義があるのにそれが感じ取れない、そのような健康体操レベル(それはそれで良いのですけれども)の合気道が多いように思われる、そういうことです。つまり、なんで武道であるところの合気道を始めたの?という質問に戻るのです。

 このあたりのところをもう少し理解した上で新たな方向性を示したいと思います。