合気道ひとりごと

合気道に関するあれこれを勝手に書き連ねています。
ご覧になってのご意見をお待ちしています。

129≫ 続けるために

2010-05-26 14:39:00 | インポート

 前回項においてわたしは、『いまのままの合気道をあなたは生涯続けることができますか』といういささか挑発的な表現で文章を締めくくりました。それを踏まえて先般、いつも本ブログをご覧いただいているa_mond様から、修行の目的を見失って『つまらないのに合気道を続けている人』がいらっしゃることを慨嘆されるコメントを頂戴しました。悲しいことではありますが、そのような事実が確かにあるのでしょう。

 その直接の原因が稽古者本人の志にあることは自立した人間である以上当然のことではありますが、一方で、合気道の素晴らしさをきちんと伝えきれていない指導者の側(もちろんわたしも含めて)にも一定の責任がないとは言いきれません。

 その、指導する側の責任とは何か、わたしは問題ありの指導者には大きく分けて二つのタイプがあると考えています。ひとつは、合気道をなにか神秘的で特殊な技をもつ武道であるかのように思い込み、指導にあたってもその調子で接するタイプ。このような人は、目に見える技法の裏にそれとは直結性のない秘技が隠されていると考え、いまできる技を軽んずる傾向があります。端的に言うと技法の解釈に『気』を常用する人です。常識に則ってみればあまりにも幼稚に映ります。

 もうひとつは、自分の能力の限界を合気道の限界と勘違いし、さらなる向上を目指した精進を忘れた者です。修行期間の長さに満足するのみで、未熟な技を十年一日のごとく繰り返すだけで、これでは現代に生きる武道、すなわち未来に続く武道とは言えません。

 この両者に共通するのは技法の熟成に不熱心なことです。技法というものは、一通りの流れがわかったら次にはその熟度、錬度を上げていくことで、さらなる向上への興味やモチベーションが生まれてくるものです。そのような思いのない、ただひとに教えることが楽しいだけの指導者は、真理に近づきたいと願っている門弟からはいずれ見捨てられることになります。

 そうして、一度門をたたきながら後に離れていってしまった人は、自分の見聞した範囲で合気道を評価するしかないわけで、その評価がこちらにとっては嬉しくない結果になるのはほぼ間違いないでしょう。その評価についての責任は、合気道界というよりも、そもそもの原因者である特定のどなたかが負わねばならないものです。

 それと異なる≪生涯続けることのできる合気道≫とは、要するに、おとなの鑑賞あるいは観照に堪えるだけの技量と理念を保持する合気道です。子供だましのテクニックや詭弁などを自らありがたがっている一部の人や、素人に通じない技量の持ち主(ある意味、素人に通じれば本物です)が、もっともらしいことを言ったりやったりしても、しっかりした志のある人には相手にされないでしょう。

 さて、ふたりの人が取りと受けに分かれて、それぞれの役割を決められたとおりに果たしていく、これが合気道の稽古の姿です。わたしはこれを大先生のおっしゃった≪愛と和合・地上天国の建設≫の最小単位であると先のブログで言いました。論理としては若干中抜けで飛躍もありますが、趣旨はなんとなくご理解いただけるのではないかと思っています。

 技量を競う武道やスポーツでは、目の前の相手は当面の敵です。もちろん競い合った後には敬意や友情が生まれることもあるでしょうが、それはちょっと措いておきます。一方、合気道においては目の前にいる人はハナから自分の能力を高めることに力を貸してくれる、ありがたい同志です。その同志的信頼感が、最小単位である一対一から地域や時代を超えて広がれば理屈の上では大先生の夢が実現することになります。ですから、単純に考えれば合気道のほうが直接的に愛とか平和に寄与するはずです。

 しかし、欲と二人連れの人間のすることですからこれがなかなか一筋縄ではいかない難しさがあります。それでも、せっかく理想的な稽古法に親しんでいるのですから、二人連れの相手を間違わなければ、自分の人生の一部に合気道を組み入れることの価値がわかると思います。

 自立した人間を大人(おとな)といいます。ただし自立と言うのは他と無関係に存在するということではありません。人間は社会を形成し相互に依存しながら生きています。おとなというのはその仕組みを理解し、そのあり方に感謝できる人をいうのだと思います。そうするなかでより良い社会を実現していく、このような事情はそっくりそのまま合気道にあてはまると思うのですがいかがでしょう。それを体をもって味わうのが稽古であり、それだからこそ生涯続けるに値する武道となるのだと思います。

 おとなの評価、外部の評価、そして何より自立した人間としての自分自身の評価に堪えうる合気道をこれからも続けていきたいものです。

 

 

 


128≫ 技法の必然

2010-05-11 14:15:57 | インポート

 前回項で、現在の合気道のおかれている状況は、技法の必然性について説明不足であると申しました。それで今回は、何をもって説明不足というのか、そしてそれならどう言えばよいのかという点について考えてみます。

 たとえばこういうことです。一教、四方投げ、入身投げがなにゆえ基本の技とされているか、また、片手取りや正面打ちといった受け方の攻め(このブログでは掛かりと表現しています)が何を意味しているか、きちんとした説明がなされているでしょうか。

 それらについて、これまで拙文をお読みいただいている方には、わたしが何を言わんとしているのか既におわかりのことと思いますが、あらためて確認しておきたいと思います。

 基本の技について、一教はタテの崩し、四方投げはヨコの崩し、入身投げは奥行の体捌きを象徴します。それを踏まえ、取りと受けとの間にタテ、ヨコ、奥行からなる3次元空間を創造し共有するところに合気道の意義があります。それはすなわち開祖の唱えられた≪愛と和合・地上天国の建設≫を実現する最小単位を成し、それゆえの基本の技であるということです。

 掛かりとそれに対する体捌きについては、相手との間合いを強制的に設定され、武道としての必須感覚を養成する手段となっているところに、それらを学ぶ意味があります。つまり、肩取り、片手取り、正面打ちの順に間遠くなり、また、突きは点、正面打ちは線、横面打ちは面の攻撃であり、それらへの対応(間積り)が、定められたカタを繰り返すことによって自然に学習できるのです。

 しかしながら、現実は指導する側がそのような論を開陳せずに、学ぶ側が求めもせずに、意味もわからずただ外見だけを真似て、それではたして生涯にわたって修練を積む意欲を持ち続けることができるものでしょうか。

 合気道は楽しい武道ですが、その楽しさは持てる力を振り絞って勝敗を競う他武道の楽しさとは違いますし、ましてボールを投げたり蹴ったり、打ったり走ったりするスポーツの楽しさとは次元を異にするものです。合気道の楽しさは、自分のやっていることが武道としてどんな意味を持ち、それが普段の生活あるいは人生にどのようなかたちで資するかを理解することで生まれてきます。ただ投げたり押さえたりするだけではそのようなことは決してわかりません。

 ところで、今回のテーマの本旨からはちょっと外れますが、上の文で掛かりのことに触れましたので、これまで採りあげる機会のなかった≪肩取り面打ち≫について、技法の現代的必然の具体例として提示してみようと思います。

 これは言うまでもなく、受けが片手で取りの肩をつかみ、もう一方の手で正面打ちをするものです。肩をつかむのは、いわゆる古流では相手の動きを封じるための方法とされています。そこから素手や刀で打ったり突いたりするわけです。合気道の肩取り面打ちもそれを踏襲したものですが、現代武道としての合気道では、それと異なる解釈があってよいのではないかと思っています。

 それは、既述のように肩取りは最も接近した間合いをもたらす掛かりであり、肩をつかむ手は容易にフック系やアッパー系の当身を繰り出せる手に変化します。そこからさらに面打ちが出るということは、ぼんやりしていれば2連打をくらう恐れがあるということです。そうであれば、取りとしては、本来のかたちである肩をつかまれて固定されること以上にそれらの当身への対応を考えなければ現代に生きる武道とはいえないのではないでしょうか。

 そこでわたしが適切だと考える方法は次のようなものです。肩をつかみにきた腕(仮に受けの左腕とします)を、取りは右肘で内側から制し、それと同時、つまり一挙動で右手で顔面に当てを入れます。そこで受けは、正面打ちを出すべく用意していた右手を取りによる顔面当てへの防御に使わざるを得なくなります。すかさず取りは左手でさらなる当てを出していくこともできますし入身や転換で自分有利の間合いを作ることもできます。そうすることによって受けの2連打のはずだったのが逆に取りの2連打になり、正勝吾勝勝速日を体現することにもなります(これはちょっとこじつけすぎですかね)。

 そのような方法に対し、邪道だとか改変だとかの意見もあるでしょうが、以前の文章を思い出してください。それは大先生の正面打ちに対する認識です。『いまどき正面打ちで攻めてくる者はいない。いまはこうだ』とおっしゃってボクシングのストレートパンチのような当てを繰り出されたという逸話です。

 このように、大先生ご自身が時代即応の変化を大事にしておられたことをわたしたちは思うべきです。いや、むしろ大先生こそが古流武術の大胆な改変者でいらっしゃったのはまぎれもない事実です。改変は新流儀を立てることのできる人の特権です。ですから、わたしの工夫は改変ではありません。むしろそれは回帰なのです。

 現在の合気道が未完の武道であるとわたしは再三述べています。ただし未完は未熟を意味しません(あの極めて美しいシューベルトの交響曲第7番をだれも未熟交響曲とは呼びません)。そうではなくて無限の可能性を秘めているということです。工夫とはその可能性を一つひとつ実体化する作業です。根本はしっかりおさえてさらなる熟成を期す、それこそが合気道を学ぶことによって得られる楽しみに他なりません。

 そして話は最初に戻ります。基本の技が基本とされる理由やその他の技法の意味、総じて言えば合気道の意義、わたしはそれを故黒岩洋志雄先生に教えていただきました。それは、なんのためになにをどうするのかという人間の営みを合気道的観点から説明するものです。ひるがえって世間を見渡すと、他にその類の論(もちろん合理的で納得のいくものであれば黒岩先生の論理と異なってもよいのですが)を述べておられる方を寡聞にして存じません。この技はこうする、あの技はああするといった技法の細部についての見解をお持ちの方はたくさんいらっしゃると思いますが、合気道を象徴し最も重要視される技法について、それの持つ意義を知らなくてよいはずがありません。

 世界標準を目指すと大風呂敷を広げた立場として、以上のこと、そして次のことはどうしても強調し、自他に向かって問いかけ続けていきたいと思います。

 『いまのままの合気道をあなたは生涯続けることができますか』