合気道ひとりごと

合気道に関するあれこれを勝手に書き連ねています。
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20≫ あたりまえのこと

2007-05-16 11:06:27 | インポート

 《あたりまえ》は《当然》の当て字である《当前》を訓読みにしてできた言葉です。同義語に《尋常》というのがあります。尋常には潔いという意味もあります。『いざ尋常に勝負勝負』ってやつですね。ですから、あたりまえのことは潔いことなのです。

 でも、あたりまえのことをあたりまえに認識し行動するのは、結構むずかしいものなのです。わたしたちは往々にしてあたりまえではないものを欲しがります。合気道を愛するあまり、合気道を他の武道やスポーツとは違う、なにか特別な武道と考えたことはないでしょうか。これは開祖の不可思議な逸話や宗教的言動に負うところが多いように思われます。でもまあ、合気道を稽古すれば、そこ(開祖のレベル)までは行かなくても、他の人よりちょっとは優れた武術遣いになれるんじゃないか、と思う程度ならまだいいのです。それくらいの期待がないと稽古なんてやってられませんからね。問題は、その期待が大きすぎて、あたりまえのことをあたりまえと感じられなくなっている人です。

 合気道の稽古には、取りの手首を受けが握り、それを離さないという前提で組み立てられている技がいくつもあります。『離すな』と指導されているのです。これは約束事だからそれでいいのですが、どういうわけか《離さない》が《離れない》だと勘違いしている人がいるのです。

 握った手が離れないというのは、催眠術か瞬間接着剤を使用した場合に限られます。奇想天外な物語の中の忍者なんかは使いそうですが、武道にそれを持ち込んでは笑われます、合気道以外では(合気道では持ち込んじゃってる人がいます)。

 狭い道を両手に荷物を持って歩いていると想像してください。そのときこちらに向かって車が突っ込んできました。どうします?合気道を一所懸命稽古した人は握った手を離しちゃいけないと教えられているから、荷物を持ったまま逃げようとして結局逃げ遅れる。一方、それ以外の人は、すぐに荷物なんか放り出して身ひとつで横っ飛びして逃げる。普通の人ができるごくあたりまえのことが、合気道を学ぶことによって、逆にできなくなる。護身術を学んだつもりが、かえって身を護れないというのは最高のブラックジョークですね。

 『むーすーんーでー♪ひーらーいーてー♪って童謡にあるでしょ。握った手は開かなくちゃいけないんですよ』とメロディー付きで教えてくださるのは、わが敬愛する黒岩洋志雄先生です。『人間は生まれたときは手を握って生まれてくる。それは教えてもらわなくてもできるんです。その後の学習によって開けるようになる。ですからね、合気道では握っている手は開くものだ、危なくなったら離すものだということこそ教えなくちゃいけないんです。それにどう対応していくかが本来の稽古です』。

 約束事で付き合ってもらっていることを、稽古の末の特殊能力だなんて思ってはいけません。打つ事だってそうです。戦おうとする者は、一発パンチを出してきて、それが掴まえられるまで腕を伸ばして待っているなんてことは絶対ありません。稽古だからそうして待っていてくれるだけなのです。打った手は引っ込む、そして次の手が出てくる。これがあたりまえなのです。受けはそういうことを想定しながら、あえて掴まれるまで待っていてくれるんですよ。せっかくだから取りはそれに便乗して体遣いを工夫するのです。受けの協力、ありがたいですね。

 わたしは理論的に説明できないことはやりませんし、指導もしません。できないことは、できないといいましょう。それが潔いということです。でも幸いにして、合気道はきわめて科学的、合理的な武道です。科学的ということは、正しい(尋常な)方法論のもとで段階を踏めば、だれでも一定のレベルまでは達することができるということです。ですからわたしたちは、あたりまえのことを繰り返し繰り返し稽古し、徐々に精度を高めていくことを目指しましょう。案外、期待以上のことができるようになるかもしれませんよ。