合気道ひとりごと

合気道に関するあれこれを勝手に書き連ねています。
ご覧になってのご意見をお待ちしています。

258≫ 覚悟というもの

2015-01-22 16:14:32 | 日記
 一年のうち最も寒さの厳しい季節を迎えていますが、皆さんお元気にお過ごしでしょうか。前回も寒さの話題から入りましたが、歳のせいでしょうかね。

 寒いといえば、肝胆寒からしむる出来事がヨーロッパや中東で惹き起こされています。フランスで風刺漫画に発する無差別大量殺人があったかと思うと、今度は日本人ジャーナリストらがイスラム国とやらに拘束され身代金を要求されています。かなり厳しい事態ですが、一日もはやく解決することを願うばかりです。

 このように、好むと好まざるとに関わらず、複雑な国際情勢に日本も当事国として巻き込まれている現実をふまえると、わが国に蔓延する机上の平和論がいかに空虚であるかと感じざるを得ません。

 わたしのそんな言い方を含め、こういう論が世人の口の端にのぼると、進歩的文化人と称する人たちが、平和主義に反する言動だとここぞとばかりに非難するのが目に見えていますが、そういうのはこの際わきに置いておきます。進歩的であろうが保守的であろうが目の前にある課題から逃げてはいけません。

 もちろん、わたしたちのような市井の人間に何かができるということでもないでしょうが、まがりなりにも武道を志す者にとってこのような問題をどう受けとめるかは自分の生き方や信条に関わってきます。要するに《覚悟》の問題です。

 その《覚悟》のありようを明確に示している歴史資料として《葉隠》=佐賀鍋島藩士 山本常朝からの聞き書き=をあげたいと思います。これは武士道に関するもののなかではことに有名ですので読まれた方も多いと思います。その中でも特に知られているのが『武士道と云うは死ぬことと見つけたり』の一節でしょう。その前後の文によれば、生きるか死ぬかの二者択一を迫られたときは死ぬほうを選べばよい、ということです。

 常に死ぬ覚悟をもって事にあたり、うまくいけばそれで良いし、だめなら死んで自らの義をあらわすだけのこと、という諦観の中で日々を送るということです。言ってみればこれだけのことですが、その諦観を身につけるために具体的にどうするか、これが大問題です。

 葉隠物語(安部龍太郎 著 日経文芸文庫)のその部分を要約すれば、朝目を覚ましたら、その場で一度死ぬのだということです。つまり毎朝毎朝死ぬシミュレーションをするのです、イメージで。そのようなことを何年も続けているうちに、死ぬことへの恐怖や嫌悪感がなくなって(なにしろ毎日死んでいるわけですから)わが身可愛さゆえの判断の誤りというものがなくなるというのです。

 武道愛好者がすべて武士道的価値観を持っているわけではないし、持たなければいけないものでもありません。また、ひと口に武士道といっても時代や地域によって差異があり、誰もが認める普遍的価値観というものがあるわけでもありません。ただ、武士道としてあらわされる行住坐臥や行為には社会的リーダーとしての武士が生きていくうえでの最大公約数的な一定の判断基準が含まれていたのも事実です。

 その最大公約数、おそらくはほとんど多くの人が許容できるであろうこととして、わたしは自己の流儀として《事にあたって、うろたえない》と《みっともないまねはしない》、この二つをあげておきます。これにも多少の修練が必要でしょうが、このくらいのことができないようでは現代に生きる武道家とはいえません。

 生きるか死ぬかの二者択一に比べたら天国のようなものでしょう。

257≫ お寒うございます

2015-01-09 14:54:15 | 日記
 毎日々々寒い日が続きますが、これからが冬本番ですから、まずは皆様どうぞ風邪など召しませんよう。

 わたしの会では5日に稽古始めをし、年末年始で鈍った体をやっこらさと動かしてまいりました。そこで年頭の挨拶をしましたが、今までにない抱負を述べました。それは、合気道の稽古を通じて心身の練磨は当然のこととして、もうひとつ、何かまだわたしたちが気づいていない効用が合気道にはあるのではないか、それを是非見つけ出してみたいと、そのようなことを言いました。

 そう言うと、オカルトや似非宗教みたいに荒唐無稽なことを目指すのかと受け止められかねませんが、決してそうではありません。合気道家としてはむしろ本来のあり方ではないかと思います。

 考えてみてください。大先生は何を感得して合気道を創始するに至ったか。《合気道》=昭和32年・㈱光和堂刊=には、次のような大先生の談話が載っています。

 『たしか大正十四年の春だったと思う。私が一人で庭を散歩していると、突然天地が動揺して、大地から黄金の気がふきあがり、私の身体をつつむと共に、私自身も黄金体と化したような感じがした。
 その瞬間、私は「武道の根源は、神の愛―万有愛護の精神―である」と悟り得て、法悦の涙がとめどなく頬を流れた』。

 この話は合気道関係者にはよく知られていますが、最初わたしがこれを読んだときは、『不思議なことで自分には理解不能だが、超人的能力の持ち主だからそのような経験をしたのだろうか。いずれ自分とは縁のない話だ』と感じました。

 しかし、熟読してみると大先生はこの出来事を実体のある事柄として受け止めているわけではく、『~ような感じがした』と、あくまでも主観的な感覚の問題であると認識しておられるのだとわかります。ですからそれはあくまでも大先生個人の意識上の変化でしかありません。これを神がかり的に解釈するのは贔屓の引き倒しで、健全な精神ではありません。

 とは言え、このことが従来の単なる格闘技法を後々愛と和合の武道とよばれる合気道に作り変え、性格づけたのですから、そういう意味でやはり奇跡的な出来事ととらえて良いのだと思います。

 わたしが新たに見つけ出したいもの、それはそのとき大先生の得られた感覚です。もちろんわたしが得ようとするものなど深さも奥行きも段違いであろうことは百も承知ですが、九牛の一毛でもゼロよりはましですし、せめて方向性だけは同一でありたいと願っているわけです。その感覚を共有しないと、大先生のおっしゃる地上天国の建設というのは掛け声倒れに終わるでしょうし、合気道の真の強さも得られないと考えています。

 しかもこの感覚は求めようと努力すれば誰でも得られるはずのものです。そうでなければ大先生を仰いで修練する意味がありませんから。科学的合理性を旗印にしているわたしが言うのですから間違いありません(でもないか)。

 もしその感覚を得られた暁には、できるだけわかりやくす皆様にお伝えしたいと思います。まあ、初夢みたいなものですから、あてにしないでお待ちください。

謹 賀 新 年

2015-01-01 10:31:43 | 日記



皆様のご健康とご多幸を心より祈念いたしますとともに、一層のご精進をご期待申し上げます。

強くて優しい人と社会をつくる力が合気道にはあります。この道を皆様とともに歩むことができますことを嬉しく思います。
さあ、新しい一歩を踏み出しましょう、達人を目指して。
                                                 平成27年元旦