合気道ひとりごと

合気道に関するあれこれを勝手に書き連ねています。
ご覧になってのご意見をお待ちしています。

142≫ 得物考 その2

2010-11-29 15:51:17 | インポート

 【先般お寄せいただいたコメントで、松竹梅の剣についてのお尋ねがありました。それにつき、本欄でご説明する旨申し上げておりますが、その際なんとか動画を提供できないかと苦心惨澹しております。動画に詳しい方にはなんということもないのでしょうが、なにぶんこちらは撮影もネット展開も全くの素人でございますので、いましばらくご猶予をいただければ幸いです。】

 さて、前回の文章中、合気道における武器術に関し『…玉石混交で…なにが玉でなにが石かを合気道修行の側面から判断するならば、剣や杖を持っての動きが、どれくらいのパーセンテージで体術に変換できるかという点が重要です』と申し述べました。そのことにつき、もう少し詳しくわたくしの考えをお伝えします。

 たとえば、大先生が岩間の地で斉藤守弘先生に伝えられた合気剣、合気杖についていえば、これはもともと大先生自身がおっしゃったことでしょうが、『合気道で培った体で剣を持てば合気剣、杖を持てば合気杖』と言われています。しかし、このようなことは大先生だから言えることで、われわれにそのまま当てはまるわけではありません。

 なぜか、その理由をまずは逐一あげていきます。

 その一、いわゆる武芸十八般とは言わないまでも、複数の武芸に通ずるためには膨大な時間を要すること。これは生活を顧みず修行に励むという人にだけ許された世界です。したがって、現代の多くの武道愛好家の生活パターンである、仕事や学業、家庭に差しさわりのない範囲での稽古では、いかにも時間が足りません。稽古の質、量を保障するのは結局はそれにあてた時間量です。当たりまえのことです。

 その二、技能の向上のためには、自分と同等かそれ以上の能力を持つ先輩か同輩の存在が不可欠です。そのような人がいて初めて自分の欠点や修正点がわかるので、そうでなければある程度のレベル以上には決して進みません。そして、そのような環境を手に入れるのは自分の努力だけではどうにもなりません。幸運が必要です。その意味で、終生先頭ランナーであり続けた大先生はまったくの別格であると言わざるを得ません。

 その三、他人の修行に手を貸してくれるような、それぞれの道の専門家に行き会うことはほとんど期待できないこと。簡単に言えば、そんなお人好しはいません、ということです。紙一重のところを斬ってきたり、間一髪のところで止めたりできるような剣術家が身近にいたら、これはすごいことなんですがね。そううまくはいきません。

 他にもいろいろあるでしょうが、これだけでも淡い期待を打ち砕くのに十分過ぎるほどです。なんか淋しいことになってしまいましたが、合気道に関して言えば、これは大先生以外のほぼ全ての門人に当てはまることなので、わたしたちのレベルの者があまり落胆することもありません。なお、指導者に関してはあえて触れませんでした。わたくしの従来の語調でおわかりのことと思いますから。

 さてそこで、わたしたちは合気道における武器術に何を求めるかという話になります。これを考えるとき、最初にすべきことは、体術と武器術の前後関係の変換です。どういうことかというと、通常考えられているように体術の動きを武器術に応用するのではなく、武器術は体術の精度を高めるための方法論だと認識すべきであるということです。

 得物を有効に使うには自ずから理にかなった使い方があります。それは言い方を変えれば、得物の側からの体遣いに対する制約であり縛りでもあります。たとえば剣の構えで正眼といえば、だれでも右足前の中段に構えます。最も防御にかなった構えであり、そこから無尽の動きを発することができるからです。そしてまた、左袈裟(こちらから見ると右上から左下への斬り)のときは左足を引く(そうしないと勢いで自分の膝頭を切ってしまう)とか、左足前で真っ向斬りをするときは裏三角立ちでないと左腕が窮屈だとかなんだとか、とにかく得物が操者の体遣いを規定してきます。

 それは、杖でも短刀でも、およそ合気道で使用する得物であれば事情は同じで、このような、いい加減な体遣いを許さない仕組みこそが合気道の稽古に武器術を取り入れることの効用であるといえます。逆に言えば、そういうことが必要だと思わせるほど、いい加減な体遣いが蔓延しているということです。

 そのような観点から現在行なわれている各種武器術をながめてみると、体術から武器術へという流れが多く(つまり合気道ができれば剣でも杖でも扱えるという-誤解-)、これはわたくしの意図する武器術の効用とは違います。前回、これに関連し、大先生にも若干の責任があるということを不遜にも申しました。それは例の合気剣、合気杖において、必ずしも体術としての合気道に十分咀嚼、吸収されていないと考えるからです。簡単に言うと、剣は剣、杖は杖でとどまり、それと体術が有機的につながっているとは感じられないからです。つまり合気剣、合気杖の動きをそのまま体術の動きに置換できないのです。

 合気道の動きの特徴は、入身であり転換です。それらが合気剣、杖には顕著には見られません。もちろん細かく観察すれば入身とみなして良い動きや転換の部類に含まれる動きがないとは言いませんが、あまり合気道的ではないというのが実感です。むしろ真っすぐ引くだけの動きが目立ちます。

 合気剣から刀取りに切り替わる技法でも、単に途中まで剣術で、あるところから体術に変わるというだけで、体術と剣術が表裏一体のものだとはあまり感じられません。前段で咀嚼、吸収という表現を使いましたが、要するに合気剣は合気道という宇宙においては消化が不十分なのです。以前に書いたことですが、合気剣は大先生が鹿島の太刀を研究して生み出されたもので、どういうわけか打ち太刀、仕太刀が入れ替わっていますが、かなりの部分で生のまま合気剣として取り入れられています。しかしそれではやはり、そのまま体術として、特に円転の理を特徴とする合気道に採用するには無理があるということです。大先生が最後は捨ててしまった理由もその辺にあるのではないでしょうか。

 わたくしがたまたまご縁を持つことのできた西尾昭二先生や黒岩洋志雄先生は、そのあたりのところにお心を砕かれたようで、両先生の遺された武器術では体遣いにおいて体術と見事に高い一致率を認めることができます。つまり、ほとんど体術の動きそのままで得物を扱えるということです。これが合気道で得物を使用する最大の理由であろうと考えているわけです。冒頭に言い訳をしましたように、動画を扱えるようになりましたらそれらをご紹介する機会もあろうかと思います。

 それにしても、難しいものです。合気道も動画も。


141≫ 得物考

2010-11-14 16:21:39 | インポート

 言うまでもなく武道において得物(えもの)とは武器あるいは得意技のことです。ここでは合気道における武器術のあり方について私見を述べます。

 最近、ある団体で行なわれた招待演武会の映像を観る機会がありました。そこに収録されているのは、わりあい名の通っている方々による演武で、そのうち複数の方が組太刀、組杖あるいはまた刀取り、杖取り、杖捌きなどを披露しておられました。

 それで思ったことは、合気道における得物の扱いといいますか地位といいますか、つまり冒頭に申しましたように、合気道修行において武器術はどのようなポジションを与えられているか、または与えられるべきかということです。

 大先生は各種武術を研究され、その中には鹿島新當流なども含まれており、また昭和10年前後には本部道場(皇武館)で剣道の稽古も行なわれて各種大会にも出場するなど、合気道は剣術、剣道と浅からぬ関係があります。当時の剣道には組討もあって、合気道の理合が剣の理合と共通するといわれるのも、そのような背景を知れば首肯できるものです。

 しかしながら、現今の指導要領で剣に関わる項目といえば、太刀取りくらいなものではないでしょうか。それ以外のことについては特に指導力を求められるわけでもなく、せいぜい各指導者の興味と能力の範囲でそれぞれに行なっているにすぎません。近年はまた、本部が関わる公式の演武会等においては剣術や杖術をやらせない方向に進んでいます。これは体術が基本の合気道において、稽古の中心は体術であるべきであり、見ばえだけにとらわれて得物を多用することに歯止めをかけておこうという判断によるものであろうと思います。また、本部でやっていないものをあちこちで勝手にやられると権威に関わるという思いもあるかもしれません。

 それらに一理あることを認めた上で、やはり《剣の理合と共通する》という認識を変えないのであれば、それこそ真剣に剣との技法上の連関を明確に示す必要があるのではないでしょうか。それがないから、いろんな先生が独自に剣術、杖術を編み出してこられ、結果として玉石混交の合気剣、合気杖の氾濫を惹き起こしているのだと思います。

 ちなみに、なにが玉でなにが石かを合気道修行の側面から判断するならば、剣や杖を持っての動きが、どれくらいのパーセンテージで体術に変換できるかという点が重要です。なぜならば、合気道において得物を用いた稽古は、得物が求める動きによって体術で陥りがちな勝手な体遣いにしばりをかけ、理に副った動きを手にいれようとするものだからです。したがって、それはあくまでも体術稽古の補完であり、それをもって剣術家や杖術家に対抗しようというものではありません。ですから、いかに格好良くても体術に還元できないような剣杖法は、合気道修行としては意味がありません。

 さて、得物を扱うには最低限知っておかなければならない技法や作法があります。初歩的なことでいうと、たとえば、日本刀というものはきちんと鞘から抜いて鞘に収めるだけでも、なかなか難しいものです。それは木刀でも同じことであって、鞘がなくてもあるごとくに扱う心構えが必要ですし、まして刃部を握るような行為は決して許されるものではありません(言うまでもないことなのですが、往々にしてそのような扱いを目にするので)。ほんの少しでも剣の素養があればわかることなのですが、それでさえ各個の判断に任されているのが実情です。

 これらのことは、お叱りを覚悟で言えば大先生にもいくばくかの責任がおありになるのです。黒岩洋志雄先生にお伺いしたこととして以前に紹介しましたが、本部道場で弟子同士が見よう見まねで剣術の稽古をしていたところ、そこに来られた大先生に見つかり大目玉を食らったすえ、『これさえ覚えておけばよい』と教えていただいたのが《松竹梅の剣》だったということでした。それ以前には岩間の斉藤守弘先生が大先生直伝ということで伝えた合気剣、杖がありますが、大先生としてはいずれかの時点で封印されたということでしょう。かつて斉藤先生の傘下にあったところでは現在も教授されていますが(わたくしの住まいする県もそれに含まれます)、合気会として広めようとはしていません。むしろ、やらないでくれたほうがありがたいというスタンスのように見えます。大先生が最終的に集約した剣術技法としての松竹梅の剣でさえ今はほとんど教伝されていません。

 そういうわけで、剣の理合がどういうものであるかを知りたいと考える人は独自に居合道や古流剣術に頼るしかないわけです。このことは独立した武道としての合気道のあり方として、はたして正常進化といえるのだろうかと考えてしまいます。もちろん、他武道を知ることは大いに結構なことですが、武道たるもの、その武道自身の範疇で教伝が完結していることが前提で、その上で他武道を参考とすべきではないかと思うのです。その意味では、合気道として剣、杖に取り組むカリキュラムが考案される必要があるでしょう。それがしっかり確立されれば、合気道に内包されながら気づかれていない魅力が湧き出してくるのではないかという期待もあります。

 それでもまあ、黒岩先生の棒切れ術が(これ、なかなか的確に合気道の理合を表しているのですが)剣杖に伍して今以上に日の目を見ることはないでしょうね。遺産としてしまうには惜しいのですが。